青野令(スノーフレンズボードクラブ/愛媛県松山市出身)第3回「1カ月で手にした世界一」

 06−07シーズンは青野にとって、世界への扉が大きく開けた1年だった。その名前が日本のみならず、世界に知られるようになったのは07年2月、W杯第4戦富良野大会だった。 「最初は2月のW杯には期待をしていなかったんです」。父・伸之はそう証言する。「直前にスイスで行われた世界選手権ではボロボロの成績だった(65位)。ですから、富良野の大会でもダメだろうと思っていました。しかし、大会直前の練習を見ていて、すごく出来がよかった。素直にすごい滑りだと感じた。この出来だったら、予選の壁を突破して、決勝に残ることができると思いましたね」

青野令(スノーフレンズボードクラブ/愛媛県松山市出身)第2回「滑りが変わった大ジャンプ」

 9歳で出会ったスノーボードの魅力にとりつかれ、18歳で世界選手権を制した青野令。略歴だけをみると、あたかも天才少年として注目を集めていたように思われるが、実際はそうではなかった。競技を始めた小学生から中学校へ上がったばかりの頃は同年代の選手と争う大会に出場しても、なかなか結果を残すことができなかった。

青野令(スノーフレンズボードクラブ/愛媛県松山市出身)第1回「南国育ちの世界王者」

 日本人選手として初めてスノーボードで世界チャンピオンになった18歳がいる。1月23日、韓国・江原で行われた世界選手権、ハーフパイプ決勝。青野令は1回目から抜群の滑りをみせた。難易度の高い横3回転のエアを確実に決め、45.5点の高得点を叩き出す。このポイントを誰も上回ることができず、2回目の滑りを待たずに優勝を決めた。さらに2回目には横3回転を連続で決め、自身の得点を47.3にまで伸ばす圧勝だった。16歳でW杯年間王者、そして18歳で世界選手権金メダリスト。来年2月に開催されるバンクーバー五輪でもメダル獲得が期待されている。そんな青野はウインタースポーツからは程遠い場所にありそうな愛媛県育ちの高校3年生だ。

上松大輔(チームドラゴン/愛媛県松山市出身)最終回「山本元気とやりたい」

「練習でワンツー、フックが打てても、試合ではワンツーまでしか打てないということがある。そういうところを自分の中でいろんな部分で感じています。また、僕は勝つなら勝つ、負けるなら負けるの試合しかやっていない。ガチガチの接戦になった時に自分が粘って、判定で勝ちをひろえるかどうか。そういう部分は試合でしかわからない。どこまで自分の気持ちが続くかということを確認したいですね」

上松大輔(チームドラゴン/愛媛県松山市出身)第3回「“魔裟斗2世”と呼ばれて」

 2008年5月末、K-1はヘビー級、ミドル級に続く3つ目のカテゴリーとしてライト級(60キロ以下)の創設を発表し、7月に日本武道館で開催される「K−1WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL8」のアンダーカードとしてライト級を3試合組むことを決めた。その舞台に抜擢されたのが、WPKC世界ムエタイライト級王座を獲得した大月晴明(AJKF)、魔裟斗の盟友・大宮司進(シルバーウルフ)、そして上松大輔だった。

上松大輔(チームドラゴン/愛媛県松山市出身)第2回「天国から地獄へ」

「入門から3年間くらい、毎日やめたいと思っていました。不謹慎な話ですけど大きなケガをして練習できなくならないかと考えたほどです」  キックボクサーを志して単身上京したのは高校卒業直後の2003年4月。前田憲作率いるチームドラゴンの一員となったが、格闘技経験が一切ない上松にとってキックボクシングのトレーニングは過酷を極めた。1ラウンド4分、30秒のインターバルで何ラウンドも、毎日プロに混ざってスパーリングしていた。

上松大輔(チームドラゴン/愛媛県松山市出身)第1回「きっかけはK-1 WORLDMAX」

 去る12月20日、あるK-1ファイターがセルフプロデュースイベントを開催した。その名も「CHRISTMAS SPECIAL EVENT」。写真展や握手会といったアイドルさながらの内容に会場に詰め掛けた多くの女性ファンから黄色い声援が飛んだ。このイベントの主役は上松大輔。ファッション雑誌の読者モデルも務めるという抜群のルックスで人気急上昇中のファイターだ。

<特別編>キム・ムヨン(福岡−福岡ソフトバンク)「馬原の後を狙うコリアンクローザー」

  今季、まさかの最下位に終わった福岡ソフトバンクホークス。秋山幸二新監督が就任して迎えた10月のドラフト会議では7選手を獲得し、育成でも5名をチームに加えた。うち9選手は投手だ。故障者が相次いで低迷しただけに補強ポイントはハッキリしている。その中で6巡目指名ながら1年目より中継ぎ、セットアッパーとして活躍が期待されるのが四国・九州アイランドリーグ・福岡レッドワーブラーズ出身のキム・ムヨンだ。

<特別編>生山裕人(香川−千葉ロッテ)「目指せ! 真弓」

 周囲からみれば予想だにしなかった朗報だった。エースのサブマリン塚本浩二(東京ヤクルト)、主砲の丈武(東北楽天)の指名で会見場が盛り上がる中、次に名前を呼ばれたのが生山裕人。千葉ロッテ育成4巡目での指名だった。福岡ソフトバンクから指名を受けた堂上隼人ら3人がスーツ姿で喜びを語る中、準備ができていなかった23歳はジャージにジャンパーのいでたちで晴れの場に加わった。

<特別編>塚本浩二(香川−東京ヤクルト)「ラミレスと対戦したい」

 朗報を受けての会見で涙が止まらなかった。「自然とこみ上げてくるものがありました」。社会人時代にアンダースローに転向して5年、NPBを目指してアイランドリーグにやってきて3年。「諦めなければ夢は叶う」。後輩へのメッセージを、塚本浩二は自らに言いきかせるように語った。

<特別編>丈武(香川−東北楽天)「夢を開いたコンバート」

「3冠王が獲れなかったことが心残りですね」  3年間のアイランドリーグ生活を振り返っての丈武の第一声だった。2007年は13本塁打、55打点。今季も7本塁打、52打点で2年連続の本塁打王、打点王に輝いた。しかし、打率は07年が.321、08年が.277。首位打者には届かなかった。今でもタイトルを獲った充実感より、“心残り”の思いのほうが強い。

<特別編>西川雅人(愛媛−オリックス)「野茂英雄に憧れて」

「野球やっていて、うれしくて泣いたのは初めてでした」  オリックスに入団が決まった西川雅人が、今季、うれし涙をみせた試合があった。9月21日、坊っちゃんスタジアムでの香川オリーブガイナーズ戦。西川が所属する愛媛マンダリンパイレーツは優勝までマジック1と迫っていた。この試合で勝つか引き分ければ悲願のリーグ初制覇が決まる。

熊代聖人(日産自動車野球部/愛媛県久万高原町出身)最終回「祖父と交わした約束」

 熊代聖人が試合に必ず持って行くお守りがある。大好きだった祖父の遺影だ。小さい頃の熊代はいわゆる“おじいちゃん子”。祖父の家に遊びに行けば、たった一人でも泊まりたいとせがみ、職場について行ったこともあった。祖父もまたそんな熊代を「マー」と呼び、かわいがっていたという。 「赤ちゃんの頃から祖父のヒザの上があの子の指定席でした。“マーはプロ野球選手になるんじゃ”。テレビでプロ野球を観ながら祖父は念仏を唱えるように、いつもあの子にそう言っていたんです」と母・美樹は語る。熊代の野球人生は祖父なくしては語れないのである。

熊代聖人(日産自動車野球部/愛媛県久万高原町出身)第3回「知られざる涙のワケ」

 新チームがスタートしてからも、熊代聖人の心には延長サヨナラ負けを喫した甲子園での敗戦が色濃く残っていた。 「誰も言わないけれど、負けたのは自分の責任だと強く感じていました。だからこそ、また絶対に甲子園に行こうと。もう、死に物狂いで練習しました」  熊代にとって甲子園はもう“憧れの舞台”ではなく“雪辱の場”となっていた。

熊代聖人(日産自動車野球部/愛媛県久万高原町出身)第2回「悪夢のような敗戦」

 2006年8月8日、熊代聖人は甲子園のマウンドに立っていた。 「うわっ、すっげぇ。オレ、ほんとに甲子園に来たんだ……」  幼少時代から憧れ続け、テレビでしか見たことのなかった夢舞台。そこに自分がいることが熊代は嬉しくて仕方がなかった。だが、「夢と感動」とともに、球児に「試練」を与えるのが甲子園だ。 「いやぁ、今思い出しても悔しいですね」  2年以上も前のことだというのに、熊代には今でもあの時の悔しさが残っている。それほど大きな試練が熊代を待ち受けていた。

熊代聖人(日産自動車野球部/愛媛県久万高原町出身)第1回「18歳、決断のとき」

「ほら、あそこ。今、セカンドを守っているのが熊代ですよ」  案内をしてくれたマネジャーが指さした向こうには初々しさがまだ残る青年の姿があった。熊代聖人、19歳。今春、愛媛の強豪・今治西高校から日産自動車に入社した社会人1年生だ。  高校まで投手一筋できた熊代は、甲子園のマウンドを3度経験。高校3年の夏にはエースとしてチームをベスト8に導いた。その熊代が今年、入社を機に打者に転向した。それはプロの道を切り拓くための勇断だった。

福田健二(ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身)最終回「いざ、南アW杯へ」

 スペインで3つ目のクラブとなったラス・パルマスは、2部とはいえリーガでも屈指の名門クラブだ。福田は07−08シーズン、この地に活躍の場を求め、念願の1部リーグ昇格を目指していた。しかし、シーズンの開幕早々に、生涯で初めての経験という右腿の肉離れを起こし、2週間後にもう一度、同じ箇所を痛めてしまう。序盤に躓いたことで、出場機会が巡ってくることは少なくなった。

福田健二(ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身)第3回「欧州で見た新たな夢」

「本当に死んでしまうのではないか」  メキシコ・パチューカに移籍しての初練習で、福田の表情は青ざめていた。練習自体が厳しかったわけではない。その場所が問題だったのだ。移籍当初、福田を苦しめたのは、パチューカという場所だった。なんと標高が2400メートル。富士山の6合目にあたる高地が、福田にとってホームタウンになったのだ。

福田健二(ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身)第1回「抑え切れなかった海外への想い」

 9月、2010年南アフリカW杯アジア最終予選が開幕した。日本代表は初戦となるアウェーでのバーレーン戦に勝利し、4大会連続本大会出場を目指して好発進をした。彼らが勝利した1週間後、全く異なる形で世界に挑戦しヨーロッパの新天地でシーズン開幕を迎えた日本人FWがいる。

楠原千秋(湘南ベルマーレビーチバレー/愛媛県松山市出身)最終回「戦友・徳野との7年間」

「シドニー五輪を目指して、本格的にビーチバレーをやらないか?」  突然、思いもよらない電話がかかってきた。声の主は、前年に国内企業では初めてとなるビーチバレーボールチームを立ち上げた株式会社ダイキ(松山市)の専属コーチ、瀬戸山正二(現・日本ビーチバレー連盟理事長)だった。チームには佐伯美香、徳野涼子、清家ちえと後に五輪出場を果たす有望選手がそろっていた。 「まさか自分が誘われるなんて思ってもみなかった」  楠原にとっては青天の霹靂ともいうべき出来事だった。

楠原千秋(湘南ベルマーレビーチバレー/愛媛県松山市出身)第4回「インドアからビーチへ」

「強くなりたい」という一心で楠原千秋が進学先に選んだのは大分県の扇城高校(現・東九州龍谷高)だった。  実は楠原は年が明けてもまだ進学先を決めてはいなかった。1月の台湾遠征に呼ばれた時点でも、まだ志望校すらはっきりしていなかったのである。そんな時、遠征で一緒になった友人が扇城高に進学することを聞いた。楠原には初めて耳にする校名だった。

楠原千秋(湘南ベルマーレビーチバレー/愛媛県松山市出身)第3回「強くなっていったバレーへの思い」

 楠原千秋がバレーボールを始めたのは小学3年の時だった。 「バレー部の先輩に誘われたからという本当に単純な理由なんです。運動部というと、バレーかバスケしかなくて、選択肢がなかったこともあります。まぁ、スポーツは好きでしたし、当時は身長も高い方だったので、やってみようかなと」  そんな軽い気持ちで始めたバレーだったが、楠原はすぐにその面白さにのめりこんでいった。

楠原千秋(湘南ベルマーレビーチバレー/愛媛県松山市出身)第2回「1勝が遠かった北京五輪」

「今回の悔しさは、アテネの時とは比べものにならないですね」  北京五輪ビーチバレーボール女子日本代表の楠原千秋は、北京での戦いについてそう語った。インタビュー中、表情こそ終始、笑顔がこぼれていた楠原だが、言葉の端々からは力を出し切れなかったことへの悔恨の念がにじみ出ていた。

楠原千秋(湘南ベルマーレビーチバレー/愛媛県松山市出身)第1回「苦難を乗り越えての北京入り」

 2008年8月8日、午後8時8分(現地時間)、北京五輪が華々しく開幕した。開会式が行われたメイン会場の国家体育場、通称「鳥の巣」には世界から史上最多の204カ国・地域のアスリートたちが一堂に会し、これから始まる17日間に及ぶ戦いを前に気持ちを高ぶらせていた。  その中にはビーチバレーボール女子日本代表の楠原千秋の姿もあった。 「よしっ、いよいよ始まる!」  4年間、待ち続けてきた舞台の幕開けに酔いしれると同時に、改めてメダル獲得への意気込みを感じていた。

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