「松永君、キミにロス五輪全日本チームの監督をやってもらうことになった。いいね」。アマチュア野球のドンと呼ばれた日本野球連盟副会長・山本英一郎(故人)から電話がかかってきたのは五輪開幕の1カ月前だった。
まだ公開競技だったとはいえ、野球日本代表は一度だけ金メダルを獲得したことがある。1984年のロス五輪だ。この時は学生と社会人の混成チームだった。
イチロー(マリナーズ)が少年野球の指導で子どもたちに「道具を大切にしなさい」と教えているのをテレビで観たことがある。さすがイチロー、いいことを言うなと思った。イチローの道具、すなわちバットやグラブへのこだわりは尋常ではない。
この日、クルム伊達公子はひとつの作戦を立ててゲームに臨んだ。シュテフィ・グラフが得意とするフォアハンドを封じるというものである。そのため伊達はいったんグラフのオープン・スペースにストロークを返し、バックハンドでしか対応できないスペースを作っておいて、そこに精度の高いバックハンドでのクロスやフォアハンドでのダウン・ザ・ラインを狙い打った。
日本女子テニス界にあって、クルム伊達公子を超える選手は、未だにひとりも現れていない。数多くの名勝負の中でも、とりわけ印象に深いのが1996年4月28日、日本対ドイツのフェドカップ・ワールドグループIの1回戦でシュテフィ・グラフと繰り広げた死闘である。
「まるでおとぎ話のようだ」 レースを制した英国人ドライバー、ジェンソン・バトンは顔を紅潮させ喜びを表現した。 「これ以上はない」 チームを率いるロス・ブラウン代表も、感慨深げに語った。 2009年フォーミュラワン(F1)開幕戦オーストラリアGPは、新規参入チームのブラウンGPが1、2位を独占するという衝撃的な結末だった。
高橋尚子は18キロ付近でいきなりペースを上げ、15人近い集団を壊しにかかった。ついてきたのは市橋有里、リディア・シモン(ルーマニア)、キム・チャンオク(北朝鮮)、エスタ・ワンジロ(ケニア)の4人。しばらくしてキム、ワンジロの2人が遅れ、トップ集団は高橋、シモン、市橋の3人となった。
トンネルをくぐると、そこには青空が広がっていた。春というより初夏を思わせる南半球の強い陽射しが、細身の日本人ランナーの凱旋を待っていた。
東北楽天・野村克也監督といえば“ボヤキ”が代名詞だ。勝っても負けてもなにかと話題を提供してくれる。 WBC開催期間中には日本代表の正捕手・城島健司(マリナー)のリードについて「城島の配球が悪い。相手がヤマを張って待っているところに、シュートで攻めてまたシュートじゃダメ」などと酷評した。
奈落の底で内藤大助は運命的な出会いを果たす。白井・具志堅ジムのトレーナー野木丈司だ。野木は高校時代、陸上部に所属していた。師は女子マラソンの名伯楽・小出義雄。
「3度目の正直」とはWBC世界フライ級チャンピオン内藤大助のためにあるような言葉だ。
盧廷潤といえば忘れられないエピソードがある。今から16年前、アメリカW杯最終予選での出来事。盧廷潤は苦戦を強いられていた日本の選手たちにキムチを贈ったのだ。 盧廷潤からのキムチはサンフレッチェ広島の同僚・森保一を介して全選手に配られた。異国での食生活に不満を感じていた日本の選手たちが突然の差し入れに小躍りしたことは言うまでもない。
試合前のミーティングで監督の野村克也は広島からやってきたばかりの小早川毅彦に、こんなアドバイスを送った。 「斎藤(雅樹)はワンスリーのカウントになると、決まって外角にヒュッと曲がるカーブを投げてくる。これを誰も打とうとせん」
4月29日に史上5人目となる監督通算1500勝を達成した野村克也が指揮を執ったゲームの中でも、とりわけ印象深いのが1997年の開幕ゲームだ。当時、野村はヤクルトで指揮を執っていた。
17年目のJリーグが開幕した。今シーズンからJ2に栃木SC、カターレ富山、ファジアーノ岡山の3クラブが加入し、J1、J2ともに18クラブ制となった。 プロ野球(NPB)の本拠地が11都道府県しかないのに対し、Jクラブは27都道府県にまたがる。Jリーグ創設の際に掲げた「地域密着」の理念は着実に根付きつつある。
「オレの背を見ろ」とプレーだけでチームを引っ張るのがキャプテンではない。神聖なる立場のレフェリーに対しても、言うべきことは言わなければならない。
完全試合を達成したピッチャーは、日本プロ野球史上15人しかいない。最後に大記録を達成したのが元巨人の槙原寛己である。
マイナー競技であるハンドボールに降って湧いたように、注目が集まったのは一昨年の暮れだ。2007年9月に行なわれた北京五輪アジア地区予選の判定が不可解だったとしてIHF(国際ハンドボール連盟)がAHF(アジアハンドボール連盟)に試合のやり直しを命じたのである。
オリンピック、世界選手権を通じて、陸上のトラック競技で日本人男子で初めて表彰台に上がった男――それが「サムライ・ハードラー」こと為末大である。
試合が終わってからも、テレビの前から立ち上がることができなかった。実況を担当した杉浦滋男アナウンサー(故人)の絶叫は、今も私の耳の奥にこびりついたままである。
「このスタジアムがこんなに興奮したのは久しぶりだ。88年のワールドシリーズ初戦でカーク・ギブソンが劇的なホームランを打って以来だろうか」 そう語ったのはロサンゼルス・タイムズのケビン・バクスター記者。WBC決勝の日本対韓国戦を見ての感想だ。最高の褒め言葉といっていいだろう。
日本テレビが今年3月末でプロレス中継を打ち切ることになった。同局がプロレス中継をスタートさせたのは開局翌年の1954年2月。「日本プロレス中継」「全日本プロレス中継」そして「プロレスリング・ノア」とタイトル名を変え、深夜枠に移行しながらも生き延びてきた。
19打数5安打、打率2割6分3厘。打数の少ない短期決戦では決して非難されるような数字ではない。しかし、この打率の主がイチローだとなると話は別だ。
241戦して232勝(228KO)5敗。勝率9割6分3厘。驚異的な数字である。“キックの鬼”と呼ばれた沢村忠が残したものだ。
若松の現役時代の実績については改めて説明する必要もあるまい。公称こそ身長168センチだが、実際には166センチしかなかったと本人が明かしている。 こんな小さな体で通算打率3割1分9厘をマーク。これは日本人選手としては歴代1位(4000打数以上)の数字だ。打率3割以上もプロ19年で12回マークしている。72、77年には首位打者にも輝いた。