サーブにも驚くような工夫がなされている。 現在、FIVB(バレーボール国際連盟)主催の全大会ではM社製のボールが使用されている。 このボールは青と黄の2色がスイカの縞のように入り混じっている。しかしヘソの部分は一方が青一色で、一方が黄一色だ。
2010年のスポーツを振り返るうえで、忘れてはならないのが女子バレーボールの復活である。秋に行なわれた世界選手権で32年ぶりとなるメダル(銅)を獲得したのだ。 女子バレーボールは1964年の東京五輪で、球技としては初めて金メダルを獲得した。監督の大松博文率いるチームは「東洋の魔女」の異名をとった。
厳しい稽古とちゃんこで、舞の海の体は徐々に大きくなっていった。それでも、やっと100キロに達する程度。280キロを超える小錦、約230キロの曙や武蔵丸と比べたら、子供と大人である。
小よく大を制す――。 現役時代、それを地で行く相撲を取ったのが、元小結の舞の海だ。 相撲はボクシングや柔道のように体重別の階級が設けられていない。300キロの巨漢力士も100キロの小兵力士も同じ条件下で戦わなければならないのだ。
西村の成功はバレンタインの下で働きながら、見習うべき点、改めるべき点をきちんと仕分けしていたことに依る。 「コーチ時代に“べからず集”をつくったことがある」 かつて、こう語ったのは1998年、横浜で38年ぶりの日本一を達成した権藤博だ。
敵地・福岡でソフトバンクを破り、日本シリーズ出場を決めると、千葉ロッテの西村徳文監督以下全員がレフトスタンド前に出向き、肩を組んでファンとともに応援歌を合唱した。 西村の挨拶もファンを意識したものだった。 「皆さんの熱い声援のおかげでここまで来られました。日本シリーズもあります。もう少しだけ力を貸してください」
マエケンが自らのやり方を曲げなかったのは次のような信念に依る。 「僕は投げ込まなくても、もうフォームは固まっているという考え方なんです。一応、プロ野球選手なので(笑)。12月と1月、たった2カ月ピッチングをしなかったくらいでフォームを忘れるようなら(そういう選手は)プロじゃないと思います」
最多勝、最優秀防御率、最多奪三振。 セ・リーグ投手部門における3つのタイトルを独占したのが広島カープの若きエース前田健太である。
出場停止となりディスコに入り浸る日々。サッカーができない悔しさを遊びで紛らわせた。 しかし、それだけでは気持ちは晴れない。
仕事で異国に行く。それも、たったひとりで。しかも納得のできない理由で丸1年間干されたとする。あなたは耐えられるか。 私なら「この国はオレには合わない」と捨てゼリフのひとつも残して、さっさと帰国の途につくだろう。
ドッジボールからヒントを掴んだステップシュートだけではない。大男たちを翻弄するフェイントはボクシングから得たものだ。
世界最高峰のプロリーグ、リーガ・エスパニョーラ。といってもサッカーの話ではない。今回はハンドボールの話である。
プロ野球は身分社会である。実績のない2軍選手が1軍の監督と口をきく機会なんて、そうそうあるものではない。ならば、年賀状しかない。青木はそう判断したのだ。
東京ヤクルトスワローズの青木宣親といえば、日本代表の3番を任されるほどの巧打者である。足も速く、口にこそ出さないが、本人はメジャーリーグでのプレーも視野に入れているようだ。
プロに蹴られた古田は社会人野球の強豪トヨタ自動車に進み、ソウル五輪にも出場した。 当時の日本代表には野茂英雄、潮崎哲也、石井丈裕、渡辺智男、佐々岡真司、与田剛ら錚々たるメンバーが名を連ねていた。彼らのワールドクラスのストレートや変化球を受けることで古田はキャッチャーとしての腕を上げていった。
東京ヤクルトの監督も務めた古田敦也といえばキャッチャーでは野村克也以来、2人目の2000本安打を達成した名選手である。 強肩、強打、頭脳派のキャッチャーとしてヤクルトの5度のリーグ優勝、4度の日本一に貢献した。
先に「自己を犠牲にして他者を生かす」と述べたが、川相はいぶし銀の技術を身につけることで非力だった自らをも生かしたのである。
これだけは誰にも負けない――。そう言い切れる技術を持つ選手は、そう簡単には淘汰されない。 その典型が現在は中日ドラゴンズで2軍監督に就いている川相昌弘だ。
CS進出を巡り、シーズン終盤、本拠地の神宮球場には多くの観客が詰めかけた。阪神との3位争いは、まるで優勝争いのような熱気をはらんでいた。球団にすればタナボタ式の“臨時収入”だった。
東京ヤクルトのサウスポー石川雅規は昨オフ、球団と総額8億円以上の4年契約を結んだ。 昨季、石川は自己最多の13勝(7敗)をあげた。30歳という年齢を考えれば、まだ4、5年は十分、第一線で活躍できる。“シブチン”といわれる球団がポンと8億円を積み上げたのも当然といえば当然か。
現ファイターズ2軍投手コーチの吉井理人は5年間、メジャーリーグでプレーし、通算32勝(47敗)をあげた。メジャーリーグではメッツ、ロッキーズ、エクスポズ(現ナショナルズ)と、いずれもナショナル・リーグの球団に所属した。
福岡でのレース前、ある記者が中山に問うた。 「(ケガをしていた場合、)中山君なら、どうする?」 胸を張って中山は答えた。 「僕なら這ってでも出ますよ」
1980年代、男子マラソンを牽引してきた2人の男が“和解”したとスポーツメディアが伝えていた。 2人とは瀬古利彦と中山竹通。当時はエリートと雑草の代表格、“宿命のライバル”と呼ばれたものだ。
長いこと、この仕事をしているが、大変不思議に思うことがある。なぜプロ野球の監督はキャンプ中、敵地に足を運ばないのか――。
私は長谷川のことを「神の距離感を持つ男」と呼んでいる。当たり前のことだが、相手を倒す距離の中に身を置くということは自らも倒されるリスクを負う。