多木裕史(法政大学野球部/香川県丸亀市出身)第3回「野球は9回2死から」

 多木裕史には今でも忘れられない試合がある。4年前の夏、坂出高校は初の甲子園出場まであと2勝と迫っていた。準決勝の尽誠学園戦も2点リードで最終回を迎え、いよいよ決勝へというところまできていた。1点を返されたものの、なんとか2死までこぎつけた。決勝まであとアウト一つ。ところが、そのアウト一つが坂出にはあまりにも遠かった。

多木裕史(法政大学野球部/香川県丸亀市出身)第2回「父、親友とともに」

 多木裕史は両親ともに高校の体育教諭というスポーツ一家に生まれた。父親は坂出高校の野球部監督でもある。そんな環境に生まれ育った多木が野球への道を進んだのはごく自然なことだったに違いない。小学1年からソフトボールを始めた彼は、父親の「そろそろ」というすすめもあり、小学4年から軟式野球チームに入った。そこで彼は“親友”に出会った。

多木裕史(法政大学野球部/香川県丸亀市出身)第1回「奇跡の春」

 2009年6月、法政大学が全日本大学野球選手権を制し、14年ぶりに日本一の栄冠を手にした。富士大との決勝戦は7回まで相手エースにわずか1安打に抑えられたが、8回に犠牲フライで同点に追いつくと、9回には5安打4得点の固め打ち。一気に試合を引っくり返し、最後はエース二神一人(阪神)がきっちりと三者凡退に切ってとった。最後の打者の打球が中堅手のグラブに収まると、選手たちはマウンドへと一目散に駆け寄り、「No.1」ポーズで喜びを分かち合った。その最高の瞬間を、1年生では唯一グラウンドで迎えた選手がいた。多木裕史だ。四国・香川から上京して、まだ半年にも満たない19歳のルーキーはその年、鮮烈なデビューを果たしていた。

村田夏南子(JOCエリートアカデミー/愛媛県松山市出身)最終回「憧れの存在と3分間の真剣勝負」

 12月21日から23日にかけて代々木第2体育館で天皇杯全日本レスリング選手権大会が行われ、男女あわせて21の階級で今年のレスリング日本一が決定した。村田が挑戦したのは最終日の女子55キロ級。14名の選手が参加し、第1シードには04年アテネ、08年北京五輪金メダリストの吉田沙保里が入った。村田は順調に勝ち上がれば、準決勝で吉田と対戦する組み合わせとなっていた。

村田夏南子(JOCエリートアカデミー/愛媛県松山市出身)第3回「乗り越えなければいけない壁」

 国内外問わず、年代別の大会で次々と好成績をあげる村田は、一つの挫折を味わっている。今年5月、ユース五輪出場を懸けたアジア予選がウズベキスタン・タシュケントで行われた。60キロ級で村田は見事に優勝し、アジアの頂点に立つ。しかし、46キロ級ではエリートアカデミーの1期生であり、高校でも一緒にトレーニングしている宮原優が優勝を飾る。ユース五輪は全階級を通して、女子の代表選手は各国一人ずつしか出場できない。日本レスリング協会理事会はこれまでの経験や実績を考慮して、宮原を8月にシンガポールで行われたユース五輪に派遣した。その宮原は見事、ユース五輪で優勝し、脚光を浴びた。

村田夏南子(JOCエリートアカデミー/愛媛県松山市出身)第2回「松山から単身、エリートアカデミーへ」

 オリンピックや各競技の世界選手権勝つためには、選手個人の力だけではどうしようもない点がある。それは環境整備の問題だ。今日、世界各国で育成年代の強化やトレーニング施設に莫大な資金が投入され、五輪メダルを巡る争いは激しさを増している。もちろん、日本も例外ではない。各競技団体や国が連携しながら様々な施策が講じられ、ハード・ソフトの両面から充実が図られている。その中でもアマチュアスポーツ界の拠点となっているのが東京都北区にある味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)だ。そして、この施設を中心に育成に力を入れ、未来の五輪メダリストを育成するシステムが、JOCエリートアカデミーである。

村田夏南子(JOCエリートアカデミー/愛媛県松山市出身)第1回「オリンピックを目指す17歳」

 ニッポンのお家芸――。オリンピックなどの国際大会で、この言葉が冒頭に用いられる競技といえば、真っ先に思い浮かぶのは柔道だ。日本発祥のスポーツであり、東京オリンピックで正式種目となってから46年、オリンピックでの金メダル獲得は34個を数える。  もうひとつ、柔道と並ぶ日本の得意競技がある。それはレスリングだ。過去の五輪で、柔道に次ぐ22個の金メダルを獲得している。中でも2004年アテネ大会から正式種目となった女子フリースタイルは4階級中2階級で吉田沙保里、伊調馨が連覇を達成し、さらに伊調千春が銀2個、浜口京子が銅2個と出場選手全員がメダルを獲得している。近年、オリンピックを観戦している若いファンにとっては、女子レスリングこそまさに“ニッポンのお家芸”と言えるのではないか。

浅見八瑠奈(山梨学院大柔道部/愛媛県伊予市出身)最終回「講道館杯優勝でみせた涙」

 11月21日、講道館杯全日本体重別選手権大会最終日(千葉ポートアリーナ)。  浅見は女子48キロ級にエントリーし、3年ぶりの優勝を狙っていた。世界柔道の決勝で破った世界ランキング1位の福見友子(了徳寺学園職)はアジア大会出場のため欠場。ライバルと目されるのは世界ランク3位の山岸絵美(三井住友海上)、そして同9位で同学年の近藤香(帝京大)だった(ランキングは講道館杯開幕前時点)。

浅見八瑠奈(山梨学院大柔道部/愛媛県伊予市出身)第4回「打倒・福見への秘策」

 ここであらためて世界の頂点に立った9月の世界柔道を振り返りたい。  浅見は1回戦から準決勝までをオール一本で勝ちあがった。決勝の相手は世界ランク1位の福見友子(了徳寺学園職)。予想通りの顔合わせだった。福見は、この階級で第一人者の谷亮子に2度土をつけた唯一の選手だ。前回大会に続く連覇を狙っていた。

浅見八瑠奈(山梨学院大柔道部/愛媛県伊予市出身)第2回「谷亮子に勝ちたかった」

: 山梨学院大に進学したきっかけは? : 実は最初、山梨学院大に柔道部があるなんて知らなかったんです(苦笑)。でも西田(孝宏)先生と山部(伸敏)先生に「1回、練習に来てみないか?」と声をかけていただきました。その時は軽い気持ちだったんですけど、実際に行ってみるとすごく練習内容が濃かった。西田先生からは「日本一にしてやるぞ」とも言われました。みんな一生懸命練習していたので、「本当にここでやったら日本一になれるんじゃないかな」と思ったんです。

浅見八瑠奈(山梨学院大柔道部/愛媛県伊予市出身)第1回「柔道一家に生まれて」

 日本の3番手から世界の頂点に立った。  9月に開催された世界柔道選手権。女子48キロ級に出場した浅見八瑠奈は、初戦から準決勝までをオール一本で突破する快進撃をみせる。決勝の相手は前回大会の覇者であり、ランキング1位の福見友子(了徳寺学園職)。積極的に攻め続けた浅見は相手から指導2つを奪い、初出場で初優勝をおさめた。20年近く第一人者だった谷亮子(現参議院議員)が引退し、48キロ級は強豪がひしめく大激戦区になっている。2年後のロンドン五輪出場へ名乗りをあげた22歳に、当HP編集長・二宮清純が話を訊いた。

北原郷大(亜細亜大学野球部/徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身)第4回「これからも続くプロへの挑戦」

 2007年9月17日、東都大学野球リーグ秋季リーグ。大学野球の聖地・明治神宮球場のマウンドには初先発で初完封を成し遂げた北原郷大が立っていた。 「入院している時は野球がまたできるなんて考えられなかった」  息子の奇跡のような復活劇に父親は驚きを隠せなかった。それもそのはずだ。約半年前、彼は病院のベッドでギランバレー症候群という病魔と闘い、激痛に苦しんでいたのだ。そんな彼が強豪相手に完封劇を成し遂げるなどということを誰が想像できただろうか――。

北原郷大(亜細亜大学野球部/徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身)第3回「病魔との闘い」

 北原郷大が「ギランバレー症候群」と診断されたのは、2008年1月のことだった。前年、1年生ながらリーグ戦で登板し、秋には1勝を挙げるなど結果を残していた北原。それだけに、周囲はもちろんのこと、彼自身も今後の活躍を期待していたことは想像に難くない。病魔に襲われたのはそんな矢先のことだった。

北原郷大(亜細亜大学野球部/徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身)第2回「“ミスター五輪”からのアドバイス」

 北原郷大が野球を始めたのは小学1年の時。2人の兄がいた地元の軟式野球チームに入った。しかし、父親曰く、野球に熱中した2人の兄とは違い、北原の関心は野球だけにとどまらなかったという。 「とにかく活発で、よく遊ぶ子でしたよ。チームに入っても、いわゆる野球少年ではなかったですね。野球以外にもいろいろと興味を示す子だったんです。バッティングセンターに行っても、上の2人は一心不乱にバットを振って練習しているのに、郷大だけは1、2球打ったら、今度はバントをしてみたり……。一つのことに執着するというタイプではなかったですね」  しかし、実力は兄2人に決して劣ることはなかった。

北原郷大(亜細亜大学野球部/徳島県美馬郡つるぎ町(旧半田町)出身)第1回「無名からの挑戦」

 東都大学野球リーグは、今や大学野球で最もレベルの高いリーグと言っても過言ではない。最近5年間では、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会のどちらかで毎年優勝校を出している。その同リーグの一角を担っているのが、亜細亜大学だ。多くのプロをも輩出している同大学には当然、甲子園常連校から優秀な選手たちが集結する。その名門校に3年前、甲子園に一度も出場したことのない小さな公立校から一人の投手が入ってきた。徳島県立穴吹高校出身、北原郷大だ。

藤本主税(大宮アルディージャ/徳島市立高校出身)最終回「負けたくないライバルの存在」

 大宮アルディージャで迎える6年目の今シーズン、藤本は大きな決断を迫られた。3月20日、第3節の鹿島アントラーズ戦で左足ヒザを負傷し途中交代。これまで大きなケガとは無縁だった藤本にとって、初めての長期離脱を余儀なくされた。 「最初は手術をしないで治すことを考えたんですが、結局ダメでしたね」  負傷から2カ月後に人生で初めてヒザにメスを入れた。結果は成功。直後にワールドカップ期間に入りJリーグは中断した。藤本はこの間に懸命のリハビリを経てリーグ再開となる第11節川崎フロンターレ戦で復帰を果たした。全治2カ月と診断を受けたものの、予定よりも大幅に早いカンバックとなった。 「大きな手術は初めてだったけれど、本当にメディカルスタッフのみんなのおかげで順調に復帰できたし、とても感謝しています」

藤本主税(大宮アルディージャ/徳島市立高校出身)第3回「多くの経験と財産を胸に、大宮へ」

 99シーズンに在籍したサンフレッチェ広島ではリーグ年間順位こそ8位に留まったが、年末の天皇杯では準優勝の成績を収めた。4シーズン過ごした後、2003年に藤本は名古屋グランパスへ移籍する。23試合に出場したものの、さらなる出場機会を求めて翌年にはヴィッセル神戸へ。4つのクラブを渡り歩いた藤本にとって大きな財産になっていることがある。それは人との出会いだ。

藤本主税(大宮アルディージャ/徳島市立高校出身)第2回「キャプテンシーを学んだ国立での出来事」

 アビスパ福岡でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた藤本はプロの世界で結果を残すのに3年の年月を要した。  特に2年目のシーズンは藤本にとって厳しいものだった。前年に最下位に終わった福岡は97シーズン、カルロス・オスカール・パチャメを監督として迎えた。藤本はこのアルゼンチン人指揮官との相性が悪く衝突してしまい、まるで干されたような状況におちいる。1年目は10試合に出場していたものの、翌年のリーグ戦出場はわずか1試合。それどころか練習中の紅白戦にも出場させてもらえない日々が続いたのだ。

藤本主税(大宮アルディージャ/徳島市立高校出身)第1回「大宮を熱くする“背番号11”」

 徳島の夏の風物詩といえば、400年以上の歴史を誇る『阿波踊り』だ。“躍る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々”。毎年8月中旬に行われる伝統の祭りでは10万人が踊り、140万人が見物する。 “阿波踊り”と聞いて、多くのサッカーファンはこの男を思い浮かべるに違いない。大宮アルディージャの藤本主税だ。ゴール後に阿波踊りパフォーマンスを披露し人気者になった藤本は、プロ15年目になった今季も第一線で活躍を続けている。12シーズン連続でゴールを決め、通算50ゴールにも到達する勢いだ。高校時代から全国の舞台で戦い、Jリーグでも走り続ける男は、現在、オレンジのユニフォームを身に纏い、左腕にはキャプテンマークを巻いている。尊敬してやまない選手と同じ“背番号11”を背負いピッチに君臨する藤本は、多くのサポーターに愛される絶対的な存在だ。

森孝久(南アW杯日本代表チームドクター/愛媛県松山市)最終回「愛媛をアスリートサポートの拠点に!」

 松山空港から車で6分。空港から松山市内に伸びる大通りから少し入ったところに森が院長を務める「整形外科つばさクリニック」はある。まだ新しいクリニックの中には診察室や処置室のみならず、奥の部屋ではトレーニングマシンが所狭しと並んでいる。2階に上がると、ボールを投げたり、蹴ったりできるほどのスペースも用意されている。これだけを見れば、まるでどこかのスポーツクラブの練習施設のようだ。

森孝久(南アW杯日本代表チームドクター/愛媛県松山市)第4回「縁でつながった日本代表への道」

「もうちょっと違う治療があるはず。絶対、治る方法があるんじゃないか」  右大腿直筋断裂で大好きなサッカーを続けられなくなった森には大きな疑問が生じていた。それは消えるどころか、ますます頭の中で膨らんでいく。 「自分で治せるようになりたい」  整形外科医という新たな夢が生まれたのはその時だ。高校卒業後、2年間の浪人生活を経て、地元の愛媛大学医学部へ。27歳で同付属病院の研修医としてドクターとしての第一歩を踏み出した。

森孝久(南アW杯日本代表チームドクター/愛媛県松山市)第3回「絆創膏購入にパトカー出動!?」

 サッカー日本代表のベスト16入りは、最悪の状況をも想定したスタッフたちの“準備力”の勝利だった。と同時に、南アフリカでの充実したサポートも大きかったと森は振り返る。 「結論から言うと、ヨーロッパの遠征に非常に近い環境だったのではないでしょうか。水や食事では苦労しなかったんです。日本から帯同した2人のシェフやホテルスタッフが、安全な食料を調達してくれましたから。生野菜は毎食食べられましたし、お米にしても日本から持ってきた分が途中でなくなったのですが、現地で韓国米を見つけて使っていました。すごくおいしくて好評でしたよ」

森孝久(南アW杯日本代表チームドクター/愛媛県松山市)第2回「岡田ジャパン躍進、本当の理由」

 南アフリカにチームドクターとして帯同することが決まったのは今年の2月。しかし、W杯に向けた準備はそのずっと前から始まっていた。「チームドクターって、23人の代表メンバーが全員、いつでも試合に出られるようにコンディションを整えるのが大前提なんです。だからキックオフの前に仕事の大部分は終わっている。試合が始まってしまえば、こちらができることはケガ人の対応とか限られていますからね」

森孝久(南アW杯日本代表チームドクター/愛媛県松山市)第1回「ロッカーで号泣した今野」

 あの南アフリカでの興奮から、早いものでもう1カ月が経つ。サムライブルーのユニホームに身をまとって戦った選手たちも、ある者は新天地に飛び、また、ある者は所属クラブに戻り、日々のリーグ戦に臨んでいる。非日常の世界から日常の世界に戻ったのは、プレーヤーばかりではない。松山市にある整形外科「つばさクリニック」の院長、森孝久もそのひとりだ。森は今大会の日本代表チームドクターとしてベスト16入りを陰で支えた。

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