高校ラグビーは選手の健康面を考慮して1日おきの開催であり、高校サッカーも準決勝の前には1日の休養日を設けている。大野の“残酷登板”が問題になった後、高野連の牧野直隆会長は、審査室会議後の記者会見の席で「1日の休養日という問題も含めて、スケジュールのあり方はいろいろと検討している」と明言した。しかし、一向に改善される気配はない。主催者側は、選手の健康管理について、いったいどういう提案を行っていくつもりなのか。
選手ではなく「選士」と呼ばれた。「打者は投手の投球を避けてはならない」と主催者側から厳命された。なぜなら「突撃精神に反する」からである。原則として選手交代も認められなかった。例外は選手がケガをした場合のみ。「選手は最後まで死力を尽くして戦え」。それがお上のメッセージだった――。
今年5月に引退した元プロレスラーの小橋建太が早くも復活した。しかもダンサーとして! なんと人気アイドルグループAKB48の新曲ミュージックビデオで、リングをバックにダンスを踊っているのだ。
ボクシングの元IBF世界バンタム級王者・新垣諭は「消されたチャンピオン」と呼ばれている。消された、と書くと何やら物騒だが、彼は実在する。ただ、日本ボクシングの表の歴史から未だに抹殺されたままなのだ。
二刀流ルーキー大谷翔平(北海道日本ハム)の右頬を打球が直撃したのは7月11日、Kスタ宮城での東北楽天戦の試合前の練習中のことだった。
大野のみならず、甲子園は毎年のように犠牲者を生み出している。第68回大会では、優勝した天理のエース、本橋雅央(早大−オリンパス光学工業)が右ヒジの負傷をおして力投を演じ、その痛々しいまでのマウンド姿が同情を呼んだ。結果的に甲子園でのピッチングが原因で、彼は野球生命を断たれることになる。
Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎(現日本サッカー協会最高顧問)が、「Jリーグのクラブは各県2つ。いずれ日本に100のJクラブがほしい」とブチ上げたのは、忘れもしない鹿島アントラーズのクラブハウスと練習グラウンドの完成を祝う記念式典でのことだから、Jリーグ開幕の4カ月ほど前である。
重要なのは誰を選ぶか、ではない。どう選ぶか、だ。ここをきちんと議論しない限り、永遠に球界のリーダー問題は解決しないだろう。 統一球の仕様変更問題で統治能力の無さを露呈した加藤良三コミッショナーに対し、さる19日、労組・日本プロ野球選手会が「不信任」を突き付けた。
「ラグビー界のiPhoneになる」 気の利いた言葉を口にしたのはラグビー日本代表ヘッドコーチのエディー・ジョーンズだ。 さる6月15日、世界ランキング5位のウェールズ代表を23−8で撃破した。 いくら若手主体のメンバーとはいえ、欧州シックスネイションズを連覇中の強豪。日本が世界の上位8カ国・地域の代表を下したのは1989年、宿澤広朗率いるジャパンがスコットランド代表に勝って以来の快挙だった。
今年の夏の甲子園は8月5日に開幕するが、長年、炎天下での連戦による選手の酷使が問題視されている。今春のセンバツでは準優勝した済美(愛媛)の2年生エースの安楽智大投手が、決勝までの5試合合計で772球をも投げ、投球過多ではないかとの論議を呼んだ。日本高校野球連盟は、1993年の夏から球児の肩肘検査を導入し、今大会からは準々決勝後の休養日を設ける措置を講じている。しかし、連投や球数に対する規定はなく、日程に関しても天候次第で休養日はなくなる。将来ある球児たちの負担を軽減する上で、根本的な解決策とは言い難い。14年前に“甲子園の弊害”を指摘した原稿で、この問題を再考しよう。
この6月に全面改装された静岡・草薙球場の正面にあるモニュメントには「澤村 ベーブ・ルース Memorial Stadium」との文字が刻まれている。今から79年前の1934年11月20日、「全日本」のエース澤村栄治は「米国大野球団」の強打者たちを切り切り舞いさせ、監督のコニー・マックをして「サワムラをアメリカに連れて帰りたい」と言わしめたことは、よく知られている。
中身は痛烈だが的を射ている。これくらいの荒療治をやらなければ、プロ野球は変わらないのではないか。 NPBが統一球の仕様を無断で変更した問題で労組・日本プロ野球選手会はNPBと、この問題を調査する第三者委員会に対し<統一球問題に関する当会の要望と見解>と銘打った文書を提出した。
競技用シューズづくりの腕と知見と経験において、厚生労働省が認定する「現代の名工」にも選ばれた三村仁司(ミムラボ主宰者)の右に出る者はいない。現役時代、あの瀬古利彦(現DeNAランニング・クラブ総監督)が「ランナーにとってシューズは命の次に大切なもの。それを教えてくれたのが三村さん」と語っていたことを思い出す。
1927年(昭和2年)に始まった都市対抗野球は、プロ野球よりも古い歴史を誇る。 都市対抗野球の特徴は補強選手制度だ。出場チームは予選敗退チームから最大で3名までを加えることができる。これによって「地区代表」としてのお墨付きを得るわけである。
五輪金メダリストvs.東洋太平洋王者――。ロンドン五輪でボクシングのミドル級を制した村田諒太のプロデビュー戦の相手が、柴田明雄に決まった。柴田は東洋太平洋同級王者であり、日本スーパーウェルター級の現2冠王者。デビュー戦としては異例のカードとなった。村田が勝利すれば、プロ2戦目にして日本タイトルに挑戦する可能性も出てくる。ただ世界のミドル級は激戦区で、これまで日本人で王者となったボクサーは竹原慎二(WBA)ひとりしかいない。1995年、竹原が日本スポーツ史に残る偉業を成し遂げた陰には、福田洋二トレーナーの存在があった。快挙の舞台裏に、16年前の原稿で迫ろう。
石原慎太郎と盛田昭夫が共著という体裁で出版した『「NO」と言える日本』がベストセラーになったのはもう四半世紀近く前のことだ。主に米国企業の欠点や技術立国ニッポンの優位性を論じたものだが、話は両国の国民性や文明論にまで及び、タイトルの刺激さも相まって多くの日本人が溜飲を下げた。後になって事実関係の誤りが指摘され、著書の価値は下げに転じたが、戦後の日本を貫いていた従米主義に一石を投じたことは間違いあるまい。
中日・谷繁元信にとって、今季は記録イヤーだ。 5月6日の2000本安打に続き、6月13日には1000打点を達成した。 過去、この2つの記録を達成した選手は谷繁を含め30人。重労働のキャッチャーに限ってみれば、野村克也、古田敦也に続いて史上3人目だ。
堀秀政という武将がいる。11月に公開予定の三谷幸喜監督の映画「清州会議」では人気俳優の松山ケンイチが演じることが決まっている。地味な武将に注目が集まるのではないか。 美濃で生まれた秀政は13歳で織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉の家臣となる。本能寺の変で主君・信長に弓を引いた明智光秀を討った山崎の戦いや九州征伐、小田原征伐などで武功をあげ、戦国時代の名将のひとりに数えられている。
上がり3ハロンは33秒5。他の馬が止まっているように見えた。 さる5月26日に行なわれた第80回日本ダービーを制したのは一番人気のキズナだった。鞍上は武豊。2005年のディープインパクト以来5度目のダービー制覇だった。観客数もここ10年では、05年の14万143人に次ぐ13万9806人を記録した。主役の帰還を多くのファンが待っていたのだ。
「ボールが消えた……」。三振を喫した直後、神宮球場の通路で大毎の主砲・山内一弘は、うつろな表情を浮かべて、つぶやいたという。当時、パ・リーグ事務局にいたパンチョこと伊東一雄から後年、聞いた話。 1961年の夏、浪商高を全国制覇に導き、17歳で同校を中退して東映に入団した尾崎行雄は巨人とのオープン戦で長嶋茂雄を切り切り舞いさせるなどして脚光を浴びていた。
中5日なら5日、中6日なら6日と、あらかじめ登板間隔が決まっているスターター(先発投手)と違って、セットアッパー(中継ぎ投手)は骨の折れる仕事である。 その日、出番があるかどうかは、ゲームが始まってみなければわからない。展開を読みながら黙々とブルペンで肩をつくり、名前がコールされる瞬間を待つ。 チームへの忠誠心と肉体、精神両面でのタフネス、そして何より投げることが好きでなければ、この仕事は務まらない。
FWの黒崎比差支は言う。 「ジョルジーニョがボールを蹴る時、インフロントかインステップかインサイドかを注意深く見るようにしています。要するに味方がシュートしやすいキックは何かということを彼は瞬時に判断しているわけです」
死者5人、逮捕者2千数百人。五輪開催予定都市から全土へと広がったデモは、鎮静化するまでに1週間を要した。 これは2020年夏季オリンピック・パラリンピック招致活動を行っているイスタンブールのことではない。12年夏季大会を成功させたロンドンのことだ。
「みなさん、ありがとぉー」 チーム最年長の遠藤保仁の甲高い声が、2度、埼玉スタジアム2002の夜空に響き渡った。
オリンピックの実施競技に非ざるものはスポーツに非ず――。このところ、そんな空気が蔓延してはいまいか。 2020年夏季五輪実施競技の最終候補として8競技の中からレスリング、野球・ソフトボール、スカッシュの3つが生き残った。スポーツの大会にたとえれば、やっとの思いで準決勝を勝ち上がったようなもの。決勝の舞台は9月8日、ブエノスアイレスで開かれるIOC総会だ。ここで28競技が正式決定する。