「ボールが消えた……」。三振を喫した直後、神宮球場の通路で大毎の主砲・山内一弘は、うつろな表情を浮かべて、つぶやいたという。当時、パ・リーグ事務局にいたパンチョこと伊東一雄から後年、聞いた話。 1961年の夏、浪商高を全国制覇に導き、17歳で同校を中退して東映に入団した尾崎行雄は巨人とのオープン戦で長嶋茂雄を切り切り舞いさせるなどして脚光を浴びていた。
中5日なら5日、中6日なら6日と、あらかじめ登板間隔が決まっているスターター(先発投手)と違って、セットアッパー(中継ぎ投手)は骨の折れる仕事である。 その日、出番があるかどうかは、ゲームが始まってみなければわからない。展開を読みながら黙々とブルペンで肩をつくり、名前がコールされる瞬間を待つ。 チームへの忠誠心と肉体、精神両面でのタフネス、そして何より投げることが好きでなければ、この仕事は務まらない。
FWの黒崎比差支は言う。 「ジョルジーニョがボールを蹴る時、インフロントかインステップかインサイドかを注意深く見るようにしています。要するに味方がシュートしやすいキックは何かということを彼は瞬時に判断しているわけです」
死者5人、逮捕者2千数百人。五輪開催予定都市から全土へと広がったデモは、鎮静化するまでに1週間を要した。 これは2020年夏季オリンピック・パラリンピック招致活動を行っているイスタンブールのことではない。12年夏季大会を成功させたロンドンのことだ。
「みなさん、ありがとぉー」 チーム最年長の遠藤保仁の甲高い声が、2度、埼玉スタジアム2002の夜空に響き渡った。
オリンピックの実施競技に非ざるものはスポーツに非ず――。このところ、そんな空気が蔓延してはいまいか。 2020年夏季五輪実施競技の最終候補として8競技の中からレスリング、野球・ソフトボール、スカッシュの3つが生き残った。スポーツの大会にたとえれば、やっとの思いで準決勝を勝ち上がったようなもの。決勝の舞台は9月8日、ブエノスアイレスで開かれるIOC総会だ。ここで28競技が正式決定する。
昨季のパ・リーグ首位打者で、先のWBC日本代表にも選ばれた千葉ロッテの角中勝也は逆境に強い男である。
「左足のアウトサイドの使い方が抜群に巧いんです」 再度の取材で、都並は驚くべきことを言った。左サイドで働くプレーヤーの左足アウトサイドといえば、タッチラインに向いているのが普通である。その部分を使って、どうやって自らの右に位置しているプレーヤーにパスを出すというのか。日本人なら並の選手でインサイド、巧い選手でもインフロントの部分を使うのがせいぜいである。
成熟した大会として高い評価を得た2012年ロンドン五輪・パラリンピック。招致委員会会長を務めたのは、陸上の男子1500メートルで80年モスクワ、84年ロス大会を連覇した世界的な中距離走者セバスチャン・コーだった。旧ソ連のアフガン侵攻に抗議し、西側諸国の多くが背を向けたモスクワ大会にも「政治とスポーツは別」との信念を貫き通した。
開幕して20年を迎えたJリーグ最大の立役者が初代チェアマン・川淵三郎であることは言を俟たない。 その川淵は、1年目のシーズンが終わった直後に私が行ったインタビューで、将来のリーグ像について、こう語っている。 「日本における選手の供給源の事情を考えると、トップが16で、2部が16、合計32クラブのプロ制が望ましいと思っている」
Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎(現日本サッカー協会最高顧問)には、リーグ誕生前から折に触れてインタビューを行ってきた。1年目のシーズンが終わった直後だから93年の冬だ。「20年後、Jリーグはどうなっているでしょう?」と問うた。川淵は「20年後? フッフッフッ」と含み笑いを浮かべ、遠くに視線を投げるようにしてこう答えた。「まぁ日本における選手の供給源の実情を考えるとトップが16で2部が16、合計32チーム。これが望ましい姿かな」
2000本安打&1000打点を達成した選手は、過去に28人しかいない。キャッチャーでは野村克也と古田敦也だけだ。 3人目の快挙にリーチをかけているのが中日の谷繁元信だ。激務に耐えながら、こつこつと記録を積み重ねてきた。
この15日で20歳となったJリーグを実力面でリードしてきたクラブは、鹿島アントラーズだ。これまで獲得した主要タイトル16冠はJクラブ史上最多である。初のJリーグ王座に輝いたのが、96年。ブラジル代表のアメリカW杯優勝にも貢献したレオナルド、ジョルジーニョを擁して、頂点に立った。特にレオナルドのテクニックは異彩を放ち、95年の横浜フリューゲルス戦でのボレーシュートは観る者に衝撃を与えた。リフティングで完全に相手を翻弄して決めた得点は、Jリーグが17日に発表したベストゴールでも1位に輝いた。鹿島が迎える黄金期の旗頭となったブラジル人助っ人を、18年前の原稿で紹介する。
桃から生まれた「桃太郎」ほど日本人に愛され、親しまれているおとぎ話は他にあるまい。道中で遭遇したイヌ、サル、キジを従え鬼ケ島に鬼退治に行き、颯爽と宝物を持ち帰る。絵に描いたような勧善懲悪の物語である。
5月5日のこどもの日。長嶋茂雄&松井秀喜の国民栄誉賞授与式が行われた東京ドームの4万6000人には及ばなかったが、6キロ近く離れた国立競技場にも1万5000人の観客が訪れた。
「これは僕の人生観なんだけどな」。根本陸夫はギロッと目をむき、未熟なインタビュアーの表情が強張っていると見るや、一転、険しい視線を解いて諭すように言った。「人間、墓場には何も持っていくことができない。だったら次々と高い次元を目指して挑戦していった方が、どれだけ楽しいか。死ぬ前に“オレの人生も悪くなかった”と思えれば、もうそれで十分だよ」
今季からアスレチックスでプレーする中島裕之は、メジャーリーグでダルビッシュ有(レンジャーズ)との対戦を、何よりも楽しみにしている。 年齢は中島の方が4つ上。元北海道日本ハムのエースと元埼玉西武の主砲は7年間に渡って18・44メートルをはさんで火花を散らし合ってきた。
私はその時の気持ちを、おおよそ以下のような内容で本誌にも書いている。 ――ミスターは普通のノッカーがそうするように右手でボールをトスしない。左手でトスし、素早くその手でグリップエンドを握るのだが、この時のトップの位置が恐ろしいほどピタリと決まるのだ。 さらにスイングした瞬間、右肩から左腰にかけてユニホームに流線型のシワが寄る。このシワこそは動的な美しさのシンボルであり、まさにバットを振り抜いたその直後、私たちの目は背中の「3」に釘付けになる。
伊東浩司が10秒00を叩き出したのは1998年12月のことだ。バンコクアジア大会準決勝が、その舞台だった。実はフィニッシュ直後のゴールタイマーが示した数字は「9.99」。会場がひとしきり沸いた直後に発表された正式タイム […]
政府から国民栄誉賞を授与されることが決定した長嶋茂雄と松井秀喜の出会いは21年前に遡る。 92年のドラフト会議、4球団の指名が重なる中、“当たりくじ”を引き当てたのが当時の巨人監督・長嶋だった。
清原和博が西武からFA宣言した時のことだ。当時、阪神の監督だった吉田義男は、交渉の席で「縦じまのユニホームを横じまに変えるぐらいの意気込みで来ている」と力説して、虎党の一部からヒンシュクを買った。 吉田にすれば、巨人入りを阻止するための“殺し文句”だったわけだが、少々、言葉が過ぎた。縦じまはタイガースのアイデンティティーそのもの。もし清原が「じゃあ、横じまでお願いします」と返したら、球団は、いったいどうしていたのだろう。シマウマのようなユニホームでは、戦闘意欲も湧くまい。
金メダルの威光は、かくも凄いものなのか。ロンドン五輪ボクシング男子ミドル級金メダリストの村田諒太がプロに転向した。 転向表明の記者会見会場となった都内のホテルには約100人の報道陣が駆け付けた。テレビカメラは11台。ボクシングにおいては世界戦の調印式でも、これほど多くのメディアが集結することはない。4月16日のプロテストの模様は地上波でゴールデンタイムに放送された。
長嶋茂雄と松井秀喜。5月5日、日本プロ野球界に偉大な足跡を残した師弟が揃って、国民栄誉賞を受賞する。長嶋は、超高校級スラッガーと騒がれた松井の指名権をドラフト会議の抽選で引き当て、プロ入り後は、付きっきりの指導で球界を代表する4番打者に育て上げた。その中で生まれた師弟愛は、昨年末の松井の引退会見でのコメントからも明らかだ。松井は、一番の思い出に「長嶋監督と一緒に素振りした時間」をあげている。ミスタージャイアンツの存在は、松井にとっても特別なものだった。戦後最大のヒーロー・巨人の背番号3の実像を、12年前の原稿で映し出そう。
チャールトン・ヘストン主演の「パニック・イン・スタジアム」はスポーツ愛好家にとっては“白昼の悪夢”とでも呼ぶべき後味のよろしくない映画である。 とある日曜日。場所はロサンゼルスのメモリアル・コロシアム。10万人の大観衆をのみ込んだNFLのラムズ対コルツの試合中にひとりのテロリストが侵入する。ライフルを乱射するテロリスト。パニックと化すスタジアム。無慈悲な銃口の前に、人々は為す術がない。阿鼻叫喚の地獄絵図とは、このことだ。
いささか旧聞に属する話だが、12年ぶりの日本一を目指す東京ヤクルト・小川淳司監督は、キャンプ中、元監督の野村克也にミーティングの講師を依頼した。昨秋に続いて2回目の講義だった。