「死にもの狂いでやろうと決めています」 2014年シーズンがスタートし、湯浅剛は今年にかける強い思いをそう口にした。 「車椅子バスケットを始めて3年目の今年は、もう甘えてられません。ヘッドコーチからも『今年だぞ』というふうに言われていますし、自分としても勝負の年だと思っています」 主力にベテランが多いチームにとって、26歳の湯浅は待ち望んでいた若手のホープと言っても過言ではない。自らの成長がチームの底上げとなる。湯浅はそのことをしっかりと自覚している。
「一番驚いたのは、パスセンスの高さですね」 天理大の小松節夫監督は立川理道に初めて会った時の衝撃をこう振り返る。立川のパスを小松は「球持ちがいい」と評する。相手のプレッシャーをギリギリまで引きつけ、よりベストな選択のパスを通す、という意味だ。 「パスを放る瞬間までボールが手に張り付いている。単純にパスの精度が高く、遠くに放れる選手はいますが、立川のように球持ちのいい選手はそうはいません。これは教えてもなかなか身につかないものですからね」
日本ラグビー界の宝と言われる選手がいる。24歳の立川理道だ。ポジションは司令塔・スタンドオフ(SO)およびセンター(CTB)。長短のパスで攻撃をかたちづくり、時には力強いランで自ら突破口をつくる。トップリーグのクボタスピアーズに所属し、今では日本代表にも定着した。昨年6月に歴史的初勝利を挙げたウェールズ戦に先発で出場し、15年のイングランドW杯で主力としての活躍が望まれている。
石川県七尾市にある「松平スポーツ」に隣接する卓球場。ここが松平健太の原点である。「松平スポーツ」は両親が経営する卓球用品店。店の隣りの卓球場では、国体選手だった父親の指導の下、卓球教室が開かれていた。そこに健太は5歳から通い、既に卓球を始めていた2人の兄とともに、技術を磨いていった。松平兄弟にとっては、学校帰りに卓球場へ向かうコースが、遊び場のひとつだった。
「天才は卓球界にいっぱいいます。それに僕より努力している人もいっぱいいる。だから僕はどちらの面においても中途半端なんです」 そう自分を分析するのは、卓球全日本代表の松平健太(早稲田大学)だ。今年5月、フランス・パリで行われた世界卓球選手権大会の男子シングルスで元世界ランク1位の2人を撃破し、ベスト8にまで上りつめた。準々決勝で当時の世界ランク1位に敗れ、日本勢34年ぶりのメダル獲得はならなかったが、「松平健太」の名を世界に轟かせた。大会前は58位だったITTF世界ランキングは現在、自己最高の15位にまで浮上している。
「2年目のジンクス」――昨年、プロ2年目を迎えた内山靖崇は勝てない試合が続き、自信を失いかけていた。前半は好調だった。春は亜細亜、筑波とフューチャーズで2回優勝し、地元開催の札幌フューチャーズではテニスを始めた時からの憧れだった同郷の先輩、鈴木貴男を準々決勝でストレートで破り、そのまま決勝へ進出。優勝こそならなかったものの、大きな手応えをつかんでいた。順調にランキングも上がり、内山は夏以降、フューチャーズよりもワンランク上のカテゴリーの大会、チャレンジャーにも出場するようになった。ところが、途端に負けが混むようになったのだ。しかも、1、2回戦での敗退が続いた。 「なんとかして勝ちたい……」 焦りばかりが募り、もがけばもがくほど、内山はトンネルの奥へと迷い込んでいった。
小学5年で松岡修造に類稀な才能を買われ、中学1年からの4年間は錦織圭と同じIMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーに留学。世界各国から選ばれた凄腕のプレーヤーたちとともに腕を磨いた。14歳で同世代の強豪が集うエディー・ハー大会で日本人選手初の優勝達成。18歳の時には4大大会などと並ぶ最高グレードの大会である世界スーパージュニアでシングルス、ダブルスの2冠を獲得。こうした輝かしい実績を手に、2011年にはプロに転向した。錦織に続く若きホープとして、将来を嘱望されている。それが内山靖崇だ。
「最悪のシナリオでした」 長澤和輝がこう振り返ったのは、主将になって迎えた2009年の全国高校総体千葉県予選1回戦、幕張総合高校との試合だ。終始八千代高校が攻め込んだものの、終了間際にカウンターからゴールを奪われ、0−1で敗れた。全国の切符を逃した悔しさももちろんあっただろう。しかし、3年夏の総体は、多くの高校サッカー選手にとって将来を占う意味でも重要な大会だった。というのも、サッカーで強豪といわれる大学は、3年夏までの実績を考慮して新入生を採用することが多い。だが、長澤はそれまで各全国大会の出場経験がなかった。国民体育大会などへの選抜歴もない長澤にとって、大学に自身をアピールするには3年夏の総体が最後のチャンスだったのだ。
大学サッカー関東1部の専修大学は今季、史上4校目のリーグ3連覇に挑んでいる。その王者・専修大を、エース、そして主将として牽引しているのが攻撃的MFの長澤和輝だ。昨季は高いパフォーマンスで12ゴール、17アシストという驚異的な成績を残し、リーグ連覇に貢献。現在、複数のJクラブから熱視線を送られているプレーヤーだ。
数々のタイトルを手にし、順風満帆だった高校生活を終え、野々村笙吾が進学先に選んだのは順天堂大学だった。五輪出場選手を多数輩出している名門校で、野々村が入学する前年の全日本学生選手権(インカレ)でも優勝を収めるなど、大学体操界をリードしていた。強豪校でありながら指導方針は選手の自主性を尊重しており、彼の通っていた市立船橋高校と同じだったことも魅力のひとつだった。そして、何より野々村が順大を選んだのには、憧れの冨田洋之がコーチでいたからだ。
世界の頂点を知る者たちが、「彼」の才能を賞賛している――。近年、日本が生んだ世界に誇れる体操選手といえば、冨田洋之(順天堂大学体操競技部コーチ)と内村航平(KONAMI)である。その2人が自らを超えるべき選手と期待を寄せているのが、順大体操競技部の野々村笙吾だ。20歳になったばかりの大学2年生は、3年後のリオデジャネイロ五輪で、北京、ロンドンと2大会連続で逃した団体金メダル獲得のキーマンとして、目されている。
是枝亮がエアロビック競技に出合ったのは小学2年の時だった。7歳上の姉が通っていた教室に母親と観に行った時、先生に「一緒にやってみない?」と声をかけられたことがきっかけで始めた。 「最初はマット運動がメインだったのですが、それが僕には楽しいと思えたんです」 野球やサッカーには目もくれず、是枝はエアロビック競技の世界にのめりこんでいった。
2013年5月、ブルガリアの地で是枝亮は、これまで一度も経験したことのない感覚を味わっていた――。 今年、是枝は初めてシニアの男子シングル部門でのFIGワールドカップに参戦した。4月の東京大会に続いて出場したのが、シングルでは初の海外となったポルトガル大会。是枝はそこで銅メダルを獲得した。さらにその1週間後のブルガリア大会では銀メダルに輝く。FIGワールドカップで2大会連続でのメダル獲得は、日本人男子初の快挙だった。だが、結果以上に是枝にとって大きかったのは、ブルガリアの決勝でつかんだ“自信”と“手応え”だった。
浦野博司が野球を始めたのは小学3年の時。地元のスポーツ少年団に入った。きっかけは偶然が重なったものだった。浦野には2歳上の兄がいる。その兄に浦野はいつもライバル心を燃やしていた。サッカーチームに入っていた兄は、弟から見ても巧かった。「サッカーでは勝てない」。幼心にそう悟った浦野は、兄とは違うスポーツをやろうと思った。そこで祖父が勧めた陸上への道を考えていたという。一方、父親は息子に野球チームに入るよう促していた。
「よし、今日はいける」。セガサミー野球部のエース浦野博司は、マウンド上で静かに自らのピッチングへの手応えを感じていた。 6月2日、第84回都市対抗野球大会東京都2次予選・第2代表決定戦。この試合に勝てば、セガサミーの都市対抗本戦出場が決まる大事な一戦だった。相手は今年のドラフト上位候補の吉田一将擁するJR東日本。同じくドラフト上位候補の浦野とのエース対決は、プロ6球団のスカウトが視察に訪れるほど高い注目を浴びた。そんな中、浦野は初回の先頭打者を三振に切ってとった。4日前とは違う自分を浦野は感じていた。
インタビュー中、19歳とはおよそ想像がつかないほどの落ち着きぶりを見せていた長岡萌映子。ほとんど表情を崩さなかった彼女が、一度だけ感情を表に出した時があった。彼女が今でも尊敬してやまない恩師の話に及んだ時だった。札幌山の手時代のコーチである上島正光だ。高校3年間、叱られたことは数えきれないほどあるが、褒められた記憶は皆無に等しい。だが、そんな上島に長岡は一度だけ握手を求められたことがあった。
高校2年時にはインターハイ、国民体育大会、ウインターカップの三冠を達成。翌年には17歳で日本代表入りし、ロンドン五輪アジア最終予選に出場。同年、ウインターカップで連覇達成――長岡萌映子は、これまで数々の栄光を手にしてきた。将来は日本の女子バスケットボール界を背負って立つ存在として、大きな期待が寄せられている。実業団1年目の昨シーズン、彼女は全試合に出場し、チーム一のポイントゲッターとして活躍した。全チームのヘッドコーチおよび報道関係者からの投票で決まる「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」にも輝いた。しかし、彼女にとっては決して満足のいくシーズンではなかった。高校時代とは違う、実業団の厳しさを痛感した1年だった。
ある日、2歳上の兄が陸上の大会で入賞し、賞状をもらって帰ってきた。小学校3年の山縣亮太の目には、それはとても大きく見え、そして眩しく映った。「来年は僕が賞状をもらう!」。そう決意した。そして1年後、山縣は広島スポーツ交歓大会の小学校4年生の部の100メートルに出場し、ぶっちぎりで優勝。ひときわ小さな少年の圧勝劇に会場はどよめいたという。山縣は賞状どころか、メダルまで獲得した。1年前、兄の背中を追いかけ始めた弟は、その兄を一気に追い越したのだった。
「そこに壁を感じているわけではないですし、自分の中でのゴールではない」 慶應義塾大学体育会競走部に所属する山縣亮太は、100メートルを9秒台で走ることを「あくまでも通過点」と言い切る。20歳の彼が頭角を現したのは、昨夏のロンドン五輪だ。男子100メートルで日本人として3大会ぶりに準決勝進出を果たした。予選で叩き出した10秒07の自己ベストは、日本歴代4位タイ(当時)であり、五輪に限れば日本人の最高記録だった。
「なんでこのタイミングなんだろう……」 眞田卓は、そう思わずにはいられなかった。昨年5月、眞田は正式にロンドンパラリンピックの代表選手となった。ところがその直後、韓国で行なわれたチームカップで、右手首を痛めてしまったのである。パラリンピックを目指し始めた1年目、2011年から痛みが発症していた右肩をカバーしていたこともその要因として考えられた。パラリンピック開幕まで、残り約3カ月。本来であれば、本番に向けて身心ともにギアを上げていかなければならない大事な時だった。しかし、その時の眞田は“エンスト”を起こさないよう、ケガとの折り合いをつけることの方を優先せざるを得なかったのである。
あの衝撃は、半年以上経った今も少しも薄れてはいない。2012年ロンドンパラリンピック、男子ダブルス1回戦。そこで目にしたのは、車いすテニスではそれまで一度も目にしたことのないパワーショットだった。フォアハンドから繰り出されるそのショットは、とても小柄な日本人選手のそれとは思えないほどのスピードと威力があった。 「こんなすごい選手が日本にいたんだ……」 大会前に取材しなかったことが悔やまれた。そして、彼が次のリオデジャネイロ大会を目指すことを強く願った。どうしても取材をしたい衝動に駆られていたのだ。そのプレーヤーこそが、眞田卓だった。
「ラグビーをやっている限り、忘れたくないというか、忘れられないキックですね」 そう中村が振り返るワンプレーがある。 4年前、2009年冬の出来事だ。全国高校ラグビー1回戦、鹿児島実−国学院栃木。中村は鹿実のSOとしてグラウンドに立っていた。
「大学レベルでは突出している。国際レベルの選手として、今後の進歩を興味深く見守っていきたい」 日本代表を率いるエディー・ジョーンズヘッドコーチ(HC)が、そう名前をあげて期待を寄せる選手がいる。帝京大学ラグビー部のSO中村亮土だ。先の大学選手権で史上初の4連覇を達成した原動力となった3年生である。このほど発表された日本代表メンバーにも名を連ねた。
「もう絶対に負けられない。新人王を獲る!」 齊藤裕太がこう決意したのは2011年7月3日。長男の太一君が誕生した日である。3戦目を2ラウンドTKOで勝利し、7月29日の東日本新人王1回戦に向けて練習を積んでいた時だった。試合前ということもあり、深夜の出産には立ち会えなかったが、報告を受けて病院に飛んでいった。齊藤は「いやぁ、もう感動しました」と愛息との初対面の瞬間を笑顔で振り返った。
話している時の表情は柔和で、とても命を懸けて戦っている男とは思えない。だが、グローブをつけると、一転してその目は鋭くなる。プロボクサー・齊藤裕太、25歳。北澤ボクシングジム(以下北澤ジム)所属の2012年スーパーフライ級全日本新人王である。