オリンピックには魔物が棲んでいる――。修羅場をくぐり抜けてきたトップアスリートでさえ、4年に1度の大舞台に飲み込まれてしまうことがある。バンクーバー五輪に臨んだ若干20歳の桜井美馬にとってもそうだった。彼女が憧れの場所に立ち、味わった経験は、甘美なものではなかった。長野五輪でヘッドコーチ、ソルトレイクシティ、トリノ五輪では監督を務めた川上隆史はこう語る。「私はオリンピックを3回経験させてもらいましたが、私自身もわからないんですよ。“オリンピックってなんだろう?”って。やっぱり1回じゃ、わからない。2回目以降でようやくわかって、勝負かなって思うぐらいです。初めてのオリンピックは舞い上がりますから」
身長152センチと、小柄ながらスケートリンクの上では大きな存在感を放つ。その一方で氷上から離れれば、人懐こい笑顔で周囲の空気を和らげる。桜井美馬(早稲田大学)、スケートのショートトラック日本代表である。1周111.12メートルのトラックを4人から6人が滑り、速さを競うショートトラック。1周400メートルのスピードスケートに比べて、コーナーを回る頻度が多いのが特徴だ。加えて1度に滑る人数が多いため、接触や転倒が頻繁に起き、“氷上の競輪”と呼ばれる駆け引きが魅力の競技だ。日本のショートトラック界は、長野五輪以降、メダリストが生まれていない。女子に限って言えば、未だゼロである。2014年、ロシアで行われるソチ五輪で、それを打破できそうなのが、女子3000メートルリレーだ。桜井はその中心メンバーのひとりである。
来る2013年は女子ラグビーにとって重要な1年になる。まず2月には今季から新設されたセブンズのワールドシリーズに参加するため米国へ渡る。続く3月は15人制で14年に開かれる女子W杯フランス大会に向けたアジア地区予選。日本は前回、前々回と出場を逃しており、ここで3大会ぶりの本戦行きを狙う。そして6月はモスクワでのセブンズのW杯だ。初開催となる前回大会、日本は4戦全敗に終わった。4年後のリオデジャネイロ五輪へ弾みをつけるためにも世界と対等に戦えるところを示したい。
名実ともに日本女子ラグビーの顔になり得る選手だ。 7人制ラグビーが2016年リオデジャネイロ五輪から正式種目に採用され、女子ラグビーにスポットライトが当たりつつある。五輪出場へ向け、中心メンバーとして期待されるのが、23歳の鈴木彩香である。
水泳、ラグビー、サッカー、野球――小学生の頃から金子侑司の生活は、まさにスポーツ漬けだった。当時、最も熱中していたのは野球ではなく、ラグビーだった。 「思い切り走り回れて、スピード感のあるラグビーが一番楽しかったですね」 ところが、中学に入る際に彼が選択したのは野球だった。理由は自分自身を冷静に見つめてのことだった。 「その頃の僕は体が小さくて、細かったんです。だからラグビーではよく骨折したりしていました。それで中学に入る時に『もう、ラグビーでやっていくのは無理やな』と。自分には野球の方が向いていると思ったんです」 12歳の少年が下した決断が、10年後、プロ野球への扉を開く第一歩となったのである。
2012年10月25日。金子侑司にとって、運命の日が訪れた。プロ野球新人選択会議。いわゆる「ドラフト会議」である。意外にも前日まではさほど緊張していなかったという金子だが、さすがに当日は会議の時間が近づくにつれて、徐々に緊張感が増していった。そして17時、会議がスタートした。金子は高鳴る鼓動をどうすることもできないまま、ただただ、見守るしかなかった。そして、待つこと約1時間半後、ついに“その時”が来た。 「埼玉西武 金子侑司 内野手 立命館大学」 待ち焦がれたプロへの扉が開かれた瞬間だった。
「何をやってもうまくいきませんでした」 鍛代元気は悩んでいた。P.S.T.C. LONDRINA時代から積み重ねてきた自分のプレースタイルは、Fリーグでも通用するのか。練習で思い通りのプレーができず、開幕戦、第2節はベンチに入ることさえできなかった。第2節終了後、彼は「自分のプレースタイルがわからない」と、監督の相根澄に相談した。すると、相根からあるフットサル選手のプレーが収められたDVDを手渡された。
幼少時代から鍛代元気の生活にはベルマーレがあった。試合の日はサポーターである両親に連れられ、平塚のスタジアムに足を運んだ。 「ものごころついた時から、ベルマーレのユニホームを着て、立見席で跳ねて応援するのが当り前でした」 小学校に入ると、地元のチームでサッカーを始めた。当時の夢はプロサッカー選手になってベルマーレでプレーすること。その“少年”は今年、Fリーグ(日本フットサルリーグ)所属の湘南ベルマーレの一員になった。競技こそサッカーではないものの、彼は今、憧れのクラブでプレーできる幸せを噛みしめている。
「日本のキックボクシングはムエタイのことを分かっていないんですよ」 ムエタイの本場タイで頂点を目指す梅野ははっきりと、そう口にする。 同じムエタイでも日本とタイとでは大きく異なる。日本では純粋なスポーツであるが、タイのムエタイはギャンブルの性格も持つ。観客がどちらが勝つかを賭けて楽しむのだ。
「軽量級のエース候補と期待している」 10月に日本で初めての大会となる「K-1RISING WORLD GP FINAL 16」が開催される新生K-1。そのイベントプロデューサーを務める魔裟斗が熱い視線を送る選手がいる。梅野源治(PHOENIX)、23歳。ムエタイを始めて5年にして、既に4つのタイトルを獲得。本場タイの強豪を次々と倒し、フェザー級では日本人で初めてルンピニースタジアムのランキングに名を連ねた。タイの国技とも言える同競技で頂点を狙える逸材である。今回、梅野はK-1初参戦が決まった。
トップアスリートには、何かをきっかけにして飛躍的に能力が伸びる、そんな覚醒するターニングポイントがある。高校時代の岸本鷹幸もまた然りであった。大湊高校の顧問・舘岡清人はこう証言する。「“変化率”のケタが違いましたね。同じ練習をしていても、他の子が10伸びるところを、岸本は100伸びました」。そのきっかけは、敗戦にあった。負けることで自分に足りないものを冷静に判断し、補う作業を続けてきた。さらに強い相手、高い壁が立ち塞がる度に、彼の内に秘めた闘志は燃え上がる。幼き頃から変わらぬ性格。これは青森県むつ市で育った“鷹”の本能だ。
日本が陸上のトラック種目の中で、世界との距離が一番近いとされるのが400メートルハードルだ。現在、同種目の日本のエースは、今夏のロンドン五輪に出場した法政大学陸上部の岸本鷹幸である。これまで苅部俊二、山崎一彦、斎藤嘉彦、為末大、成迫健児ら、数々の日本人ハードラーが世界に挑んできた。世界陸上選手権では山崎がイエテボリ大会(1995年)で7位入賞、為末はエドモントン(2001年)、ヘルシンキ大会(05年)で銅メダルを獲得した。だが、五輪においては、今までファイナルへと辿り着いた者はいなかった。その先輩たちが超えられなかったハードルを、ロンドンで挑んだのが岸本だった。
「オマエ、すっごいな! えらいよ!」。 2008年9月、北京パラリンピックに出場した木村は、最も苦手としていた100メートル自由形で、予選で自己ベストを4秒更新。決勝でもさらに1秒縮め、合計5秒も更新するという驚異的な泳ぎを見せた。すると、普段はほとんど褒めることのない恩師の寺西真人が涙を流しながら喜びを爆発させていた。 「初めて先生に褒められましたね。記録が更新できたこと以上に、先生が喜んでくれたことに驚きました。でも、それがとても嬉しかったんです」 メダルを狙っていた平泳ぎではトップと5秒差をつけられ、惨敗の5位。悔しさだけが残った。だが、自由形での5位は可能性の大きさを感じさせるものだった。だが、その時の木村はまだ、そのことに気づいていなかった。
「パラリンピックに出る人たちって、こんなに速く泳ぐのか……。怪物みたいな人たちだな」 初めて代表合宿に参加した中学2年の木村敬一は、大きな衝撃を受けていた。アテネパラリンピックを控えていた当時、合宿には日本における視覚障害者競泳の第一人者で、1996年アトランタ、2000年シドニーで連続2冠に輝いた河合純一や、数カ月後のアテネで初出場ながら銀メダルを獲得した秋山里奈など、世界で活躍する選手たちが参加していた。 「『この選手たちはパラリンピックを目指しているんだよ』と聞いて、初めてパラリンピックという世界の舞台があることを知ったんです。一緒に練習していて、河合さんたちがどれくらい速いかはわかりましたから、とてもじゃないけど、自分にはパラリンピックは無理だと思いました」 4年後、自分が “怪物”と同じ舞台の上に立つとは、14歳の少年は予想だにしていなかった。
好調時の鈴木雄介はレース中に周りがよく見え、途中の景色を鮮明に覚えているという。2011年の世界陸上テグ大会に至っては「今でも誰がどこで応援してくれていたか、覚えています」と語るほどだ。 「テグではレース当日に自分の一番のパフォーマンスができるようにピークを持って行くことができた」 その言葉通り、鈴木は最高の状態で臨んだ大一番で、周囲を驚かせるレースを展開した。
「走っている時よりも、速く感じる」 こう語るのは富士通陸上部に所属し、競歩選手として活躍する鈴木雄介(24歳)だ。100メートルを“歩く”スピードは、調子がいい時には17秒を切るという。ただし、鈴木が専門とするのは20キロ競歩のため、レースでは100メートルを24秒前後、1キロ4分ペースで歩く。 「レースの時は、もうグイグイ進んでいる感じです。自分の体をすごく速く動かせていると実感できるところが、この競技の一番の魅力だと思います」
日本女子カヌースプリント界の第一人者・北本を評する時、多くの人は「気持ちの強さ」を特徴としてあげる。代表入りした10年ほど前から彼女を見続けている日本カヌー連盟の古谷利彦強化部長はこう語る。 「どんな時にも妥協しない。自分に対して厳しい。最初に会った頃から、将来は楽しみな選手になると感じましたね」
日本カヌー界悲願のメダルへ、もっとも近い選手がいる。3度目の五輪出場となる北本忍だ。過去の2大会では、アテネでカヤックフォア500メートル9位、北京は同フォア6位、ペア500メートル5位と着実に成績を上げてきた。
パーン! バシン! ミットを叩く乾いた音が体育館に鳴り響く。大東文化大学テコンドー部の笠原江梨香は今、8月のロンドン五輪に向けて、日々特訓を重ねている。5月には大舞台への試金石となる2つの国際大会(アジア選手権、世界大学選手権)が控えており、まずはそこに照準を合わせている。彼女を指導する同大テコンドー部監督の金井洋は、ミットを構えながら、様々な攻守のパターンを要求する。試合における多種多様な場面を想定して、その対処法を体に叩き込ませているのだ。
凛とした立ち姿が、ひとり際立っていた。今年2月26日、全日本選手権の開会式を控え、その表情はリラックスしつつも、彼女の背筋はピンと真っすぐ伸びていた。大東文化大学テコンドー部の笠原江梨香。ロンドン五輪の女子49キロ級日本代表に内定し、シドニー以来のメダル獲得が期待されるテコンドー界のニューヒロインである。
「今の僕があるのは、骨肉腫という病気になったからこそだと思っています」 そう屈託のない笑顔で語るのは、車いすテニスプレーヤー三木拓也だ。若干22歳。まだ、あどけなさの残る表情とは裏腹に、言葉の端々に大人の顔をのぞかせる。 「周囲の人に応援してもらい、支えてもらいながら、今、しっかりと自分で決めた道を歩くことができている。もちろん、そこには責任も伴いますから、プレッシャーもあります。でも、そことしっかりと向き合ってこそ、人としてさらに成長することができるんじゃないかと思うんです」 冷静な言葉の裏側に、生きることへの情熱が垣間見えた。自らの人生と真正面からぶつかっている三木。さまざまな人との出会いが、今の彼の“素”となっている。
2008年の北京パラリンピックで金メダルを獲得するなど、世界の頂点を極めた車いすテニスプレーヤー国枝慎吾。その国枝が発掘した原石が今、ロンドンパラリンピック出場を目指して戦っている。彼の名は「三木拓也」。日本車いすテニス界のホープだ。昨年から大きな躍進を遂げ、日本男子テニス界を牽引する錦織圭とは、奇しくも同じ島根県出身の22歳だ。 「まさに“飛ぶ鳥を落とす勢い”とは、彼のことですよ」 車いすテニス日本代表コーチを務める丸山弘道も、彼の成長速度の度合いには目を見張る。果たして三木拓也とはどんなプレーヤーなのか――。
“失格による記録無し”――。糸数2度目の世界選手権(2010年、トルコ)はまさかの結果に終わった。ウエイトリフティングは「スナッチ」もしくは「クリーン&ジャーク(略してジャーク)」のどちらかを3回連続で失敗すると失格となる。糸数は後半のジャークを3回連続で失敗してしまった。競技を始めてから、初めての失格だった。
ガシャン! ガシャン! バーベルが床に落ちる音が練習場に響き渡る。声にならない声を出し、シャフトがしなるほどのウエイトをつけたバーベルを頭上に挙げていたのは、157センチの小さな体だった。2011年ウエイトリフティング世界選手権62キロ級日本代表の糸数陽一(20歳)。ロンドン五輪出場を目指す若きリフターだ。
これまで133試合のキャリアを誇る村田の両拳はナックルの部分が大きく膨らんでいる。これこそが激戦を乗り越えてきた何よりの証だ。よく見ると右手の中指は第一関節は中へ折れ曲がったままになっている。 「2年前に試合で痛めました。腱が切れてしまって指が真っすぐにならなくなってしまったんです」 さらに中指の甲に近い関節は一部が凹んでいた。こちらは高校時代、骨折したことによるものだという。骨が折れたまま試合に出たため、変形してくっついてしまった。