愛媛のメッシと呼ばれている男がいる。 愛媛FCの背番号27、齋藤学だ。今季、横浜Fマリノスから期限付き移籍で愛媛にやってきた。ここまで(15節終了時)全9試合に出場し、3得点。彼の活躍もあって昨季まで得点力不足に泣いたチームが首位と勝ち点5差の8位につける原動力になっている。
日本タイトルへの挑戦失敗から5カ月。大村は再びリングに立っていた。2月14日、後楽園ホール。相手の藤沢一成(レパード玉熊)はノーランカーだった。格下相手に「きれいに勝ちたい」「倒したい」との思いはこれまで以上に強かった。
2010年9月4日、後楽園ホール。これまでのボクシング人生を賭ける一戦がやってきた。日本ライト級タイトルマッチ。大村にとってはプロ18戦目で初のタイトル挑戦だ。相手は荒川仁人(八王子中屋)。2度目の挑戦で日本王座を獲得したテクニシャンである。
デビュー戦でKO負け。どん底に叩き落された大村は次の試合までの4カ月間、悶々とした日々を過ごした。「今度こそ勝ちたい」と思えば思うほど、「今度負けたらどうしよう」との不安が頭をもたげてくる。2戦目の相手はプロのでの実績はなかったが、アマチュア経験の豊富な選手だった。映像で見ると、確かにボクシングはうまかった。
大村は4人兄弟の3男坊として生まれた。光矢という名前は「光る矢のようにボールを投げてほしい」との父の願いが込められたものだ。愛媛といえば野球王国。出身の西条市にある西条高は夏の甲子園で全国制覇の経験もあり、往年の名投手で巨人の監督も務めた藤田元司(故人)ら多くのプロ野球選手を輩出している。近年では阪神の秋山拓巳もそのひとりだ。野球好きの父は、プロ野球選手になる夢を息子たちに託していた。
倒されても倒されても立ち上がる男がいる。 日本スーパーフェザー級3位の大村光矢(三迫)だ。これまでの戦績は13勝(9KO)5敗1引き分け。昨年9月には、階級をひとつ上げ、荒川仁人(八王子中屋)の持つ日本ライト級王座に挑戦したが、2Rにダウンを喫し、5R54秒TKOでリングに散った。過去の試合でも序盤にダウンを奪われたことが5度もある。しかし、そのたびに立ち上がり、スイッチが入ったように相手に襲いかかった。そのうち2度は派手な逆転KOで勝ち名乗りを受けた。
1989年のプロ野球ドラフト会議といえば、史上最多の8球団から指名を受けた野茂英雄だ。クジ引きの結果、野茂の交渉権は仰木彬(故人)監督率いる近鉄が獲得。翌年、野茂は期待通りの活躍を見せた。しかし、この年のドラフトで1位指名を受けた選手、特にピッチャーは野茂の外れ1位も含め、翌年のルーキーイヤーから活躍した者が多かった。セ・リーグでは中日の与田剛と広島の佐々岡真司が激しいセーブ王争いを繰り広げれば、パ・リーグでは西武の潮崎哲也がセットアッパーとしてチームの優勝に大きく貢献した。そして忘れてならないのが、唯一先発として堂々と野茂との新人王争いに挑んだ日本ハムの酒井光次郎である。
「とんでもない相手とやることになったなぁ……」 松山商2年生エース・酒井光次郎は、準々決勝進出の喜びよりも、次戦の相手の方が気になっていた。1984年、初戦敗退を喫した春の雪辱を果たそうと、松山商は夏の地方大会を制し、再び甲子園へと乗り込んだ。1、2回戦を完封勝ちし、3回戦も打撃戦を制して15年ぶりに準々決勝へとコマを進めた。そして次戦の相手は、桑田真澄と清原和博の“KKコンビ”擁するPL学園だった。
大阪出身の酒井光次郎だが、高校は愛媛県の強豪・松山商に進学した。 「中学の先輩のお父さんが松山市出身で、そのおじさんにあたる方が松山商の窪田欣也監督だったんです。それで先輩を筆頭に、うちの中学からは毎年のように松山商に行く選手がいました。僕もその流れで行った一人ですね」 中学時代、何度か松山商の練習を見に行ったことがあったが、そのあまりの厳しさに度肝を抜かれた。しかし、同時に「ここで野球をやってみたいな」という憧れの念を抱いた酒井は、中学卒業後、大阪を離れて海を渡った。
1989年、プロ野球ドラフト会議で日本ハムから1位指名を受けたのが、酒井光次郎だ。彼は松山商時代、2年生エースとして春夏連続で甲子園に出場し、卒業後は近畿大へと進学。その近畿大では3年生からエースとなり、全日本大学野球選手権では初優勝の立役者となった。そして、“ドラ1”でのプロ入り――。ここまでは順風満帆な野球人生だった。だが、プロではわずか7年で現役生活に終止符を打った-。その後は台湾へ渡り、五輪代表、プロ球団のコーチを務める。横浜でのスカウト、スコアラーを経て今季、日本の独立リーグの一つ、BCリーグ・信濃グランセローズの投手コーチに就任した。わずか15歳で郷里を離れ、愛媛、東京、台湾、横浜そして長野へ――。波乱万丈とも言うべき酒井の野球人生を追った。
東海大男子柔道部の上水研一朗監督が、中矢を勧誘しようと思ったきっかけは、彼が高2で73キロ級を制したインターハイだった。 「あの時は会場の体育館が本当に暑くて座っているだけでも汗がしたたり落ちるくらいの悪条件だったんです。そんな中で、彼は初日の団体戦の予選から翌日の団体戦本戦、そして個人戦とこなしてもまったくバテたところをみせなかった。その粘り強さ、たくましさに感心したんです」
「体に力のある子だと思いました。懐に入っていなくても強引に力でねじ伏せることができましたから」 そう中矢の第一印象を振り返るのが、新田高柔道部・浅見三喜夫監督だ。娘の八瑠奈(山梨学院大)と同じ伊予柔道会に通っていたこともあり、小さい頃から、その柔道を見続けてきた。
中矢は兄の影響で幼稚園の頃から柔道を始めた。最初は半分遊びのつもりだったが、同い年の女の子に勝てないのが悔しかった。 「この子に勝つまではやめられない」 負けず嫌いな性格が幼い心に火をつけた。練習を重ねて力をつけ、その女の子を倒した。もう、この時にはすっかりやめられないほど柔道が好きになっていた。
人生を変えた大会だった。 2010年12月12日、東京体育館。柔道グランドスラム東京大会。男子73キロ級に出場した中矢力は大会前まで同階級のIJFランキングが68位で周囲の期待度は決して高くなかった。本人も入賞を目標に大会に臨んだ。「1、2回戦は固かったですね」。いつも緊張するという初戦、そして2戦目を乗り切ると、準々決勝、準決勝を勝ち上がり、決勝へとコマを進めた。
: メジャーリーグで4年間プレーした経験から、一番、日本野球に伝えたいと考えていることは? : 野球に対する考え方、価値観ですね。アメリカではベースボールはやっぱり家族があってこそできるっていう文化なんです。日本人はどうしても職場に奥さんや子どもが立ち入ってはいけないような雰囲気になっていますよね。
岩村明憲が日本に戻ってきた。 今季からクリムゾンレッドのユニホームに身を包み、杜の都でプレーする。星野仙一新監督の下、岩村らの加入で楽天がどう変わるのか。開幕が早くも楽しみだ。日本屈指の強打者へと成長を遂げたヤクルト時代、弱小レイズのワールドシリーズ進出に貢献したメジャーリーガー時代と、節目節目でインタビューを試みてきた当HP編集長の二宮清純が日本球界復帰にあたっての心境を訊ねた。
: 斎藤佑樹投手(北海道日本ハム)、大石達也投手(埼玉西武)とともに早大ドラフト1位トリオとして注目されていますが、心の中では「オレが一番」との思いもあるのでは? : いや。斎藤と大石が一番でしょう。
斎藤佑樹(北海道日本ハム)をはじめ大学出身のルーキー投手が注目を集める今季、カープの赤いユニホームに袖を通したのが、早大から入団する福井優也だ。ドラフト時には斎藤、大石達也(埼玉西武)とともに早大ドラ1トリオとしてメディアでも大きく紹介された。だが、福井は1年間の浪人生活を経ており、年齢は彼らよりも1歳上。3人の中では一番の苦労人だ。プロ1年目のシーズンを前に、これまでの野球人生と、仲間であり、ライバルにもなる同級生たちについて当HP編集長・二宮清純が訊いた。
大学生活も2年が過ぎようとしている。4月から3年生になる多木裕史は上級生だ。これまでとは違い、主戦としての活躍、結果を当然のように求められる。そのことを多木自身も十分に理解しているようだ。 「本当にあっという間の2年間でした。いろいろな経験をさせてもらったので、それを活かしてチームを引っ張っていけたらと思っています」 表情はクールだが、胸に秘めているものはあるようだ。
多木裕史には今でも忘れられない試合がある。4年前の夏、坂出高校は初の甲子園出場まであと2勝と迫っていた。準決勝の尽誠学園戦も2点リードで最終回を迎え、いよいよ決勝へというところまできていた。1点を返されたものの、なんとか2死までこぎつけた。決勝まであとアウト一つ。ところが、そのアウト一つが坂出にはあまりにも遠かった。
多木裕史は両親ともに高校の体育教諭というスポーツ一家に生まれた。父親は坂出高校の野球部監督でもある。そんな環境に生まれ育った多木が野球への道を進んだのはごく自然なことだったに違いない。小学1年からソフトボールを始めた彼は、父親の「そろそろ」というすすめもあり、小学4年から軟式野球チームに入った。そこで彼は“親友”に出会った。
2009年6月、法政大学が全日本大学野球選手権を制し、14年ぶりに日本一の栄冠を手にした。富士大との決勝戦は7回まで相手エースにわずか1安打に抑えられたが、8回に犠牲フライで同点に追いつくと、9回には5安打4得点の固め打ち。一気に試合を引っくり返し、最後はエース二神一人(阪神)がきっちりと三者凡退に切ってとった。最後の打者の打球が中堅手のグラブに収まると、選手たちはマウンドへと一目散に駆け寄り、「No.1」ポーズで喜びを分かち合った。その最高の瞬間を、1年生では唯一グラウンドで迎えた選手がいた。多木裕史だ。四国・香川から上京して、まだ半年にも満たない19歳のルーキーはその年、鮮烈なデビューを果たしていた。
12月21日から23日にかけて代々木第2体育館で天皇杯全日本レスリング選手権大会が行われ、男女あわせて21の階級で今年のレスリング日本一が決定した。村田が挑戦したのは最終日の女子55キロ級。14名の選手が参加し、第1シードには04年アテネ、08年北京五輪金メダリストの吉田沙保里が入った。村田は順調に勝ち上がれば、準決勝で吉田と対戦する組み合わせとなっていた。
国内外問わず、年代別の大会で次々と好成績をあげる村田は、一つの挫折を味わっている。今年5月、ユース五輪出場を懸けたアジア予選がウズベキスタン・タシュケントで行われた。60キロ級で村田は見事に優勝し、アジアの頂点に立つ。しかし、46キロ級ではエリートアカデミーの1期生であり、高校でも一緒にトレーニングしている宮原優が優勝を飾る。ユース五輪は全階級を通して、女子の代表選手は各国一人ずつしか出場できない。日本レスリング協会理事会はこれまでの経験や実績を考慮して、宮原を8月にシンガポールで行われたユース五輪に派遣した。その宮原は見事、ユース五輪で優勝し、脚光を浴びた。
オリンピックや各競技の世界選手権勝つためには、選手個人の力だけではどうしようもない点がある。それは環境整備の問題だ。今日、世界各国で育成年代の強化やトレーニング施設に莫大な資金が投入され、五輪メダルを巡る争いは激しさを増している。もちろん、日本も例外ではない。各競技団体や国が連携しながら様々な施策が講じられ、ハード・ソフトの両面から充実が図られている。その中でもアマチュアスポーツ界の拠点となっているのが東京都北区にある味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)だ。そして、この施設を中心に育成に力を入れ、未来の五輪メダリストを育成するシステムが、JOCエリートアカデミーである。