2000年8月2日、全国高校総体第2日、陸上女子100メートル障害予選。9組スタートの木村志穂はもてる限りの力を出し、走りきった。しかし6位で予選落ち。彼女は陸上界から身を引くことを決意した。 「陸上は頑張った結果、日本一になることができなかった。自分の限界を感じたんです。テコンドーならもっと大きな舞台に行けるチャンスがあるのかなと」 やるからには頂点を極めたい。木村は自分の能力を開花させる場所は、陸上ではなく、やはりテコンドーだと感じていた。しかし、約1年半のブランクは決して小さくはなかった。2年ぶりに出場した全日本選手権。それまでは必ず決勝に進出していた木村が、まさかの初戦敗退。それも完敗だった。
「テコンドー」と「陸上」。それが高校時代、木村志穂の生活の基盤だった。彼女はテコンドーでは世界一を、そして陸上では高校日本一を目指し、学校と道場に通う毎日を送った。タイプの全く異なる競技だが、「メンタル面で大きく左右されるという部分はテコンドーも陸上も同じ」と木村は言う。陸上のトレーニングで身についた瞬発力がテコンドーに生かされたとも感じている。だが、やはり二足のワラジをはくのは想像以上に困難を極めた。
2009年10月、ロシア・サンクトペテルブルクでテコンドーの世界選手権が開催された。そこで堂々の銀メダル(女子型三段の部)に輝いたのが木村志穂である。4年前の05年、木村は世界選手権で初めて表彰台(銅メダル)に上がった。世界一の座がいよいよ見えてきたと思ったのも束の間、ヒザの靭帯を断裂。2度の手術を乗り越え、今年再び世界の舞台へと戻ってきた木村。今度こそ世界の頂点を極めようと、仕事と両立させながら、練習の日々を送っている。
大原学園JaSRAから浦和レッズレディースに移籍したのは2007年3月。1部昇格を決めた後の移籍だったが、土橋の心の中には少しだけわだかまりがあった。 土橋にとって浦和レッズレディースといえばかつてのライバルチームである。TASAKIペルーレFC時代では毎年優勝争いを繰り広げてきた相手への移籍なのだ。一方、前年2位のレッズは優勝した日テレ・ベレーザと差を埋めるべくDF陣の強化に乗り出していた。クラブは日本代表の矢野喬子らとともに、経験豊富な土橋の力を必要とした。土橋もその熱意に押され、赤いユニフォームに袖を通すこととなった。
大阪体育大学を卒業後、土橋が籍をおいたのはTASAKIペルーレFCだ。ペルーレは総合宝飾品メーカーの田崎真珠がバックアップし、神戸に本拠地を置くチーム。土橋は社会人生活を送りながらサッカーを続けることとなった。
高校卒業後、大阪体育大学へと進学した土橋は女子サッカー部に入部した。大体大は大学女子チームにとって最大目標となる全日本大学女子サッカー選手権で優勝経験のある強豪チームだ。しかし、土橋にとって大体大を選んだ最大の目標は、教員免許を取得すること。学校の先生への道を模索しての選択だった。
土橋が運命の出会いを果たしたのは、小学2年生の時だった。 地元・阿南市の少年サッカーチームFCソシオスのコーチを務める父・克彦とともに、練習グラウンドへ見学にいったことがきっかけだった。 「私はサッカーをやるつもりはなかったんですけど、気付いたらソシオスに入っていた感じです(笑)」 何気なく通っていた地元のサッカークラブ。ここから土橋のサッカー人生はスタートした。
昨年の北京オリンピックで、女子サッカー日本代表がベスト4に進出し大きな話題となった。“なでしこジャパン”の活躍は近年の日本サッカー史で、最も世界の頂点に近づいた快挙ともいえる。そのなでしこジャパンの選手の多くは、女子サッカーリーグである“なでしこリーグ”に所属し、熾烈な戦いを繰り広げている。
浜口京子との初対決で本物のレスリングを教えられた佐野だったが、しばらくは柔道をベースにしたスタイルを続けていた。レスリングへの転向を勧めた女子レスリング班の藤川健治監督は、まず長所を伸ばそうと試みたのだ。 「最初は“柔道レスリング”でいいと明日香には言っていました。彼女は体力も瞬発力も兼ね備えている。格闘技のセンスもあった。72キロは選手層が薄いので、全日本のトップクラスになれる能力はあると最初からみていました。相手からしてみれば、柔道の足技や投げで一発で返されるのは怖いもの。レベルが高くなれば、課題は自然と出てくる。だから柔道でやってきたことをリセットしなくていいと伝えていました」
社会人でも柔道を続ける決意を固めた佐野にアクシデントが起きたのは、自衛隊体育学校に入る前の2005年秋のことだった。練習中に足をかけられた際、左足一本でけんけんをしながら後退した。その瞬間、負荷がかかったヒザに激痛が走った。 「でも痛みが治まったら、普通に歩けたんでテーピングを巻いて練習に参加しました。ところがヒザに力が入らず、ガクッと崩れてしまう。投げ込みもできなくなってしまったんです」
佐野のアスリートとしての原点は小学校1年生から続けてきた柔道にある。友達の誘いで始めたものの、最初は決して乗り気ではなかった。「始めて3日で後悔しました。でも母親が柔道着を一式買ってきて辞めたいって言えなかったんです」 何かと理由をつけては、練習を休もうとしていた。19時からの練習開始時刻に先生が練習場に現れないと、「先生が来なかったから」と言って、さっさと帰ったこともある。
“ポスト浜口”を世界の舞台でアピールすることはできなかった。 9月21日からデンマークのヘルニングで行われたレスリングの世界選手権。女子72キロ級に出場した佐野明日香は1回戦でディナ・イワノワ(アゼルバイジャン)に敗れた。 「“結局、世界選手権は浜口じゃないと勝てないんだ”と思われるのがイヤでした。絶対にメダルを獲って、“佐野でもできるんだ”とみせたかったんですけど……」 世界選手権初挑戦の27歳は唇をかみしめた。
2006年、二神一人は法政大学に進学した。法大野球部といえば、言わずも知れた大学野球の名門。六大学リーグ優勝43回、全日本大学野球選手権大会優勝8回はいずれも最多を誇る。また、OBには古くは鶴岡一人(故人)、根本陸夫(故人)、黄金時代を築き上げた田淵幸一、山本浩二、富田勝の“法政三羽烏”や、六大学史上唯一の完全優勝での4連覇の立役者・江川卓……と日本野球界を代表する名がズラリと顔を揃える。もちろん、現在も全国から優秀な選手が集まり、レギュラー争いの厳しさは想像に難くない。やはり、入学当初はそのレベルの高さに驚いたのではないか――。ところが、二神の口からは意外な答えが返ってきた。 「不安ということはほとんど感じなかったですね。それよりも自分は高知高校、高知県の出身者として頑張りたいという気持ちでした。特に自信があったわけではありませんが、大学にもなると本当にうまい選手は1年生からレギュラーになるし、それが決して珍しいことでもありません。だから自分も4年間、主力として活躍できるように頑張ろうという気持ちでいました」 その言葉通り、二神は1年秋にベンチ入りを果たした。そして今、エースとして君臨し、チームの“顔”となっている。
2005年8月4日。その日、二神一人は次なるステージ、法政大学のセレクションを受けるため、夜行バスで東京へと向かうことになっていた。寮で一人準備をしていると、突然、驚愕のニュースが舞い込んできた。 「明徳義塾、甲子園出場辞退」 二神は耳を疑った。聞けば、明徳と入れ替わり、自分たちが代替出場するという。あまりの突然の出来事に事情をうまくのみこむことができなかった。午後、選手全員に招集がかかり、改めて監督から代替出場することが説明された。選手たちは皆、困惑の表情を浮かべていた。だが、二神たちに驚いている暇はなかった。甲子園開幕までわずか2日しか残されていなかったのだ。
二神一人は実家のテレビを食い入るように見ていた。そこには白にえんじ色のアンダーシャツとソックス。胸に「KOCHI」の文字が入ったユニホーム姿の球児たちが、甲子園球場で躍動していた。なかでも二神の目を釘付けにしたのはエースの福山雄(JR北海道)だった。二神の地元・大月町の隣町、土佐清水市出身の福山は初戦、相手打線を4安打1失点に抑えて完投し、勝利の立役者となった。隣町のヒーローの勇姿は少年の決意をかためさせた。 「高知に入って甲子園を目指したい」 二神一人、14歳。中学2年の夏のことだった。
2009年6月14日、全日本大学野球選手権・決勝。法政大学(東京六大学)が富士大学(北東北大学)を5−1で下し、14年ぶりの日本一に輝いた。マウンドでは優勝の立役者となったエースが仲間とともに喜びを爆発させていた。エースの名は二神一人。今秋のドラフトでは上位での指名が予想され、大学生投手陣では今最も注目されている大型右腕だ。
4年前の2005年。大学からプロに入る前、松家は「これからについて、不安が8割」と口にしている。1年目のシーズンが進むにつれ、その不安は6割にまで減った。プロに入りまず取り組んだことはファームを安定させること。それにより球速も増していった。確かな手応えをつかみつつ、着実に不安は少なくなっていった。その後3年冠はファームでの生活が続いたが、現在、松家はプロ野球選手として、どのような心境にいるのだろうか。
東京6大学野球では、東大の2年生エースとして秋季大会から神宮のマウンドに立った。その頃はいわゆる“松坂世代”が4年生にいる時期。後にプロの一線級で戦うことになる選手たちがレベルの高い争いを繰り広げていた。
プロ初登板の舞台となったのは北海道の札幌円山球場だった。1軍行きを告げられてから4日後の6月10日、対北海道日本ハム第3回戦で松家にチャンスが回ってきた。3点を追う8回裏、プロ野球生活5年目にして初めて松家は1軍のマウンドに登った。
東京大学から5人目のプロ野球選手として、横浜ベイスターズに入団した松家卓弘だが、ルーキーイヤーに1軍に登録されたものの、登板機会は巡ってこなかった。そして2年目以降はファームでの生活が続いてしまう。高校卒業時には通用しないと思ったプロの世界。東京六大学を経てドラフト9巡目で指名を受けたが、プロ入団後もなかなかチャンスをつかむことはできなかった。
北海道日本ハム・小谷野栄一が放った打球は快音を残してライト方向に飛んだ。その瞬間、マウンド上にいた松家卓弘は肝を冷やした。 「しまったっ!」。平常心で投げているつもりでも、球は本来の力をもっていなかった。 打球はかろうじて右翼を守る吉村裕基の正面をつき1アウトを奪う。 「しっかりと放れっ! こんなことでは打たれてしまうぞ」
「初めて見たのは、彼が中学3年のとき。既にセレクションは終わっていたのですが、一人、僕ら(明徳義塾高校)の練習に参加したんです。最初に思ったのは、とにかくでっかいやつだなぁと(笑)。でも、バッティングを見たら、レギュラーの選手よりもヘッドスピードが速くてビックリしたことを覚えています」 中田亮二の第一印象をそう語ってくれたのは、明徳義塾、亜細亜大学の先輩である鶴川将吾(パナソニック)だ。2人は高校時代から仲がよく、今でも月に一度ほど、電話で話をするという。共に気の合う理由を「野球以外は適当だから」と語る。 「鶴川さんは野球に関しては、本当にマジメで黙々とやる人なんです。でも、私生活においては結構いい加減(笑)。それが自分と似ているなと」(中田) 「僕も中田も野球とそうでない時とのオンとオフがはっきりしています。プライベートではバカなところが合うんですよね」(鶴川) 普段は悩みをほとんど人に話さず、自分で解決するという中田だが、鶴川には弱音を吐くこともある。今日の中田は、この信頼できる先輩との出会いが大きく影響している。
「オマエらの学年はオレが今まで監督をやってきた中で一番弱いチームだ」 3年生が引退し、1、2年生だけの新チームが発足した。レギュラーのほとんどが抜けたチームに馬渕史郎監督は厳しい言葉を投げかけた。しかし、それは選手の誰もがわかっていたことだった。 「僕たちもこのままではダメだという強い危機感をもっていました」と中田亮二は言う。無論、それで甲子園を諦める者は誰もいなかった。自らの手で甲子園を手繰り寄せるべく、冬場の厳しいトレーニングに耐えた。
「カキーン!」――。白球はグングン伸びていき、レフトスタンドへと消えていった。マウンドには横浜高のエース、涌井秀章がボールの行方を見詰めていた。涌井といえば、今や押しも押されもしない埼玉西武のエース。北京五輪や第2回ワールド・ベースボール・クラシックでも日本代表に選出されたほどの実力者だ。その涌井が高校時代に甲子園で打たれたホームランは3本。そのうち逆方向へは1本である。それが中田亮二のホームランだった。
「中田亮二」。昨年12月、広島カープに1位指名された亜細亜大学の主砲・岩本貴裕を尋ねた際、「来年の注目選手は」という質問に真っ先に挙がったのが彼の名だった。 愛嬌たっぷりの笑顔は、先輩の岩本にどことなく似た雰囲気を醸し出している。その岩本の後を継いで、今年のドラフト候補では「大学生野手No.1」の呼び声高い逸材。それが中田である。