法政大学は小松剛が神宮デビューし、優勝投手となった2006年春以来、3季連続で優勝を逃している。小松自身の成績は06年秋1勝4敗、07年春2勝3敗、07年秋2勝2敗。06年春は1点台だった防御率はいずれも3点台と満足のいく成績を残すことができていない。 「もう一度、優勝したい」 最終学年を迎える小松に残されたチャンスはあと2回だ。
2003年7月、3年生が引退し、いよいよ小松剛たちが最終学年となった。当時の室戸高校野球部は春は3年連続準優勝するなど、着実に実力をつけていたが、甲子園への切符をつかむまでにはいたっていなかった。室戸の前にはいつも“高知3強”の分厚い壁が立ちはだかった。私立の強豪校、高知、高知商業、明徳義塾である。
2007年春、甲子園に“室戸旋風”が吹き荒れた。第79回全国選抜高校野球大会、春夏通じて初出場の高知県立室戸高校が強豪の報徳学園(兵庫)、宇部商業(山口)を下し、堂々の8強入りを果たした。そして迎えた準々決勝の熊本工業戦。結果的に負けはしたものの、最終回には3連打の猛攻で2点を奪い、2点差まで追い詰めるなど、室戸は最後まで粘り強さを見せた。数多くの高校野球ファンが彼らの快進撃に目を丸くした。そして、どんな場面でも笑顔を絶やさず、楽しげにプレーする室戸ナインに釘付けとなった。 その2年前、同校を卒業した小松剛は、母校の活躍をテレビで観ていた。後輩たちの勇姿に感動し、OBとして嬉しさがこみ上げたという。そんな彼にもまた、甲子園を目指して汗を流した時代があった。
小松剛は小さい頃から体を動かして遊ぶことが大好きだった。もちろん体育も得意で、運動能力に長けた少年だった。だが、これといって好きなスポーツがあるわけではなく、野球も決してその例外ではなかった。 そんな小松が野球と出合ったのは小学3年生の時。高知市から室戸市の小学校に転校したのがきっかけだった。
2006年4月9日。 東京六大学春季リーグ戦第1週。 法政大学対東京大学2回戦。 法大2年の小松剛は初めて学生野球の聖地・神宮球場のマウンドに立っていた。彼にとっては記念すべきデビュー戦。だが、不思議と緊張感はなかった。ただあったのは「神宮で投げられる」という喜びだけだった。
2004年10月、ノブに大きな転機が訪れる。99年の渡蘭からちょうど5年。日本に拠点を移したノブは自らの意向でドージョーチャクリキの初の支部であるチャクリキ・ジャパンの館長に就任したのだ。その時から、現役格闘家としてジムでトレーニングを積みつつ、後進の指導にあたる生活が始まった。
1999年8月22日、有明コロシアム。 弱冠21歳のノブは『K-1ジャパンGP』で衝撃的なK-1デビューを果たした。一回戦で宮本正明から2ノックダウンを奪って1ラウンドKO勝ちを収めると、二回戦では中井一成を開始わずか52秒でマットへ沈めた。準決勝では優勝候補の中迫剛をパワーで圧倒して判定勝ち。決勝では武蔵に判定負けしたものの、「逆輸入ファイター」の異名を日本中に轟かせた。
高校卒業後、ノブは様々な格闘技団体から引く手数多だった。空手・極真会館の松井章圭館長、正道会館の角田信朗最高師範から直々に誘われ、リングス、新日本プロレスからも勧誘を受けた。しかし、「自分はキックボクシングをやりたい」と固辞した。
190センチ、110キロという日本人屈指の体格、そして、どのような相手であれ、怯むことなく前に出続けるファイトスタイル――。『逆輸入ファイター』の異名をとるノブ ハヤシ(ドージョーチャクリキ・ジャパン所属)は観る者に強い印象を残すキックボクサーである。
スノーボードハーフパイプ界期待のホープ・青野令選手(松山城南高校2年)。愛媛・東温市内の屋内スキー施設「アクロス重信」を拠点に力をつけ、昨季のスノーボードワールドカップ(以下W杯)男子ハーフパイプで、日本人初の総合優勝という快挙を成し遂げた。 2010年バンクーバー五輪での表彰台を目指す青野選手に二宮清純がインタビュー。スノーボードを始めたきっかけ、バンクーバーへの意気込みなどを訊いた。
日本勢の不振が続いた昨年の世界柔道選手権(2007年9月13〜16日、ブラジル・リオデジャネイロ)、男子無差別級の棟田康幸(警視庁)が5試合オール一本勝ちという充実の内容で優勝を果たした。日本男子に唯一の金メダルをもたらすとともに、北京五輪代表権争いでも大きくアピールした棟田に、二宮清純がインタビュー。2007年を振り返っての思い、北京五輪イヤーとなる2008年の抱負、さらには柔道へ思いを熱く語った。(最終回)
日本勢の不振が続いた昨年の世界柔道選手権(2007年9月13〜16日、ブラジル・リオデジャネイロ)、男子無差別級の棟田康幸(警視庁)が5試合オール一本勝ちという充実の内容で優勝を果たした。日本男子に唯一の金メダルをもたらすとともに、北京五輪代表権争いでも大きくアピールした棟田に、二宮清純がインタビュー。2007年を振り返っての思い、北京五輪イヤーとなる2008年の抱負、さらには柔道へ思いを熱く語った。(第2回)
日本勢の不振が続いた昨年の世界柔道選手権(2007年9月13〜16日、ブラジル・リオデジャネイロ)、男子無差別級の棟田康幸(警視庁)が5試合オール一本勝ちという充実の内容で優勝を果たした。日本男子に唯一の金メダルをもたらすとともに、北京五輪代表権争いでも大きくアピールした棟田に、二宮清純がインタビュー。2007年を振り返って、北京五輪イヤーとなる2008年の抱負、さらには柔道への思いを熱く語った。
春夏連続の甲子園出場、加えて選抜では優勝投手となった久保尚志は、プロのスカウトからも注目される存在だった。しかし、彼は自ら進学を希望した。 「その年から大学への進学を表明した選手をドラフトで指名することはできなくなりました。僕がプロを志望すれば指名されていたかもしれません。でも、自分がプロになれるとは全く思えなかったんです」
「優勝が夏だったら、最高だったのに……」 次々と押し寄せてくるプレッシャーの波に耐えながら、久保尚志はそう心の中でつぶやいていた。 春の選抜で初出場初優勝を果たした観音寺中央高校。大会後はマスコミにも大きく取り上げられるようになり、新聞や雑誌には必ずと言っていいほど『春夏連覇』の4文字が躍った。そんな中、久保はチームに違和感を感じ始めていた。
決勝の朝を迎えた。エース・久保尚志はここまで3連投を含む4試合に登板。疲労は蓄積し、体はズシリと重かった。だが、彼の心は喜びに満ち溢れていた。その理由は前日まで激痛が走っていた右肩の回復にあった――。
「広いなぁ……」 第67回全国選抜高校野球大会。開幕前の練習で初めて甲子園の土を踏んだ久保尚志は、その広大さに圧倒された。スタンドで待機していた時にはテレビで観るよりも小さく感じ、なんだか“おもちゃ”のように思えた。ところが、いざグラウンドに降りると、そこはまさに“マンモス球場”だった。
「香川県立観音寺中央高校」 高校野球ファンにとっては、思い出深い名である。1995年の全国選抜高校野球大会。春夏ともに一度も甲子園に出場したことのなかった観音寺中央は待望の初出場を果たした。1回戦を勝ち、勢いに乗った同校はあれよあれよという間に決勝に進出した。決勝の相手は古豪・銚子商業(千葉)。試合前、誰もが銚子商の勝利を信じて疑わなかった。ところが、紫紺の優勝旗を手にしたのは観音寺中央だった。しかも、4−0の完封勝ち。 当時、古豪を零封した優勝投手は今もなお、白球を追い続けている――久保尚志、30歳。現在、鷺宮製作所硬式野球部に所属している。
サッカーへの意識の高さ、精神面の強さは、長友の特長の一つといえるだろう。 中学時代のサッカー部監督である井上博氏(現新居浜市立北中教諭)は、こう振り返る。 「一言で表せば、サッカーに対する意識の高い選手でしたね。どんな練習でも手を抜くということがなかった。それに、年を追うごとに気持ちが強くなっていった。技術面が高いというのはあったけれど、それ以上にメンタル面の強さが際立っていましたね」
「長友と初めて会った時? 実はね、あまり強い印象はないんですよ。入部したての時は、特長がよくわからない選手だった。東福岡高校時代のこともそれほど知らなかったんです。極端な言い方をすれば、無名の選手でした。彼の高校時代の先輩には『こういう特長があって、面白い選手ですよ』と聞いていたんだけど、最初に見た時は『悪くはないけど、モノになるまでには時間がかかるかな』と思ったのを覚えています」 明治大学サッカー部の神川明彦監督は、長友が部に入ってきた2年半前を振り返り、こう続けた。 「でもね、それからメキメキと頭角を現していったんですよ」
ある人物との出会いが長友のサッカー人生を大きく変えた。 「先生がいなかったら? 今の自分はなかったでしょうね。そのぐらい大きな影響を受けましたよ」 地元の西条北中に入学した長友は、恩師といえる人物と出会う。それが長友の入学と同時に西条北中に赴任して、サッカー部監督を務めた井上博氏(現新居浜市立北中教諭)だった。
07年6月6日、北京五輪2次予選最終戦(第6戦)マレーシア戦。 1人の大学生が聖地・国立競技場のピッチで躍動した。彼の名は長友佑都。明治大学体育会サッカー部3年生。170センチと小柄だが、身体能力が高く、1対1の強さに定評のある攻撃的サイドバックである。 「まさか国立の舞台でやれるなんて……。俺って本当に幸せ者やなって思いましたね」 長友は噛み締めるようにして言った。
直前の怪我の影響で「不完全燃焼」に終わった「第8回オープントーナメント全世界空手道選手権大会」(03年10月)後、野本は肉体改造に踏み切った。 「減量して中量級に出るくらいなら、練習で苦しんで大きいヤツと戦った方がいい」と、174センチ、84キロの体格ながら、100キロ以上の巨漢がひしめく重量級(80キロ以上)で戦ってきた野本だったが、何試合も行うトーナメントでは、やはり体重での不利を痛感せざるを得なかった。
「野本尚裕」の名が全国的に知られたのは、2002年6月に行われた「第19回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」重量級を制したことがきっかけだった。そして、04年の世界大会代表がかかった03年4月の「第20回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」重量級で3位に入り、世界大会代表切符を手にした。当時、32歳。遅咲きの世界デビューだった。 当時を振り返って、野本は言う。「『オレなんかが世界大会に出ていいのか?』と思っていました(笑)。それまで、地方大会でも4回戦まで行けないくらいのレベルでしたから」。
愛媛県松山市内で野本は生まれ育った。小学生の頃は、映画や2歳年上の兄の影響で、ブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れていた。 「よくマネをして遊んでいました(笑)。2歳年上の兄貴と喧嘩するといつもかなわなくて、強くなりたい、という気持ちも強かったですね」