武藤のマインツ入りが決まった。最近では、こういうニュースに接するたび、およそGDP3位の国とは思えないJリーグの経済力に不安が募るのだが、ともあれ、日本の選手が純粋に戦力として見なされるようになってきていること自体は、喜ぶべきことなのだろう。
なぜロンドンの冴えない二流クラブだったチェルシーは、その存在を世界中のサッカーファンに知られるようになったのか。
ゲームは楽しい。だから、お金を出してでもやりたいと思う人がいる。ゲームなんかくだらない。お金を出すなんて考えられない、という人もいる。 スポーツは、本来、ゲームである。
チェルシーのモウリーニョ監督は言った。「メッシさえいれば、誰が監督をしていてもCLの決勝にいくことはできる」 ベッケンバウアーは「メッシがいなければバルサ普通のチームだ」とまで言い切った。
負ける者がいるから、勝つ者がいる。ましてサッカーは、内容にそぐわない理不尽な結果が多々起こりうる競技でもある。勝ったからすべてを許し、負けたからすべてを否定するという考え方を、わたしはどうしても好きにはなれない。
スペイン語の発音通りに表記するならばメヒコ・オチェンタイセイス。日本語に直せばメキシコ86。ちょっと信じられない気もするが、わたしにとって初めての外国でありW杯だった86年のメキシコ大会から、かれこれ30年近くが経とうとしている。 長旅の疲れでヨレヨレになって到着したメキシコシティーのホテル。何げなくつけたテレビにまず映ったのは、清涼飲料水を片手に微笑むサッカー選手の姿だった。
ずいぶんと昔、ドーハで韓国人記者に言われたことを思い出した。 「日本の選手はまるでカニだな。横に進むばかりだ」
漁業の世界では、前の年まで豊漁の続いた魚種が、突如として不漁になることがあるという。 サッカーの世界でも似たようなことがある。たとえばブラジル。82年大会のチームは「史上最も魅力的」とも言われるが、あのチームには致命的な欠陥があった。
わたしには以前から苦々しく思っていることがあて、それは、W杯が近づいてくると、Jリーグを取り上げる大メディアの報道がことごとく「この選手は代表に選ばれるか否か」という視点で塗りつぶされてしまうことだった。
まだ試運転期間だということはわかっている。この段階でのサッカーが、必ずしもその監督のすべてを表すわけではないこともわかっている。 それでも、何か釈然としない。
先週末のJリーグでは、J2から昇格してきた松本と山形が初勝利を挙げ、これで昇格組は3節までにすべて白星を手にしたことになった。 昨年、3冠を達成したのはJ2から昇格してきたばかりのG大阪だったが、まっさきに降格が決まったのも、昇格してきた徳島だった。1部と2部との間に存在する格差が、他の国よりも複雑かつ微妙になっているのがJリーグの現状だ。
やっと、自分の中でしっくりするたとえ話が見つかった。 W杯は、ゴルフにたとえればいいのだ。
監督が代われば選ばれる選手も代わる。それが代表チームの宿命である。 わずか半年前、果たしてどれだけの人が武藤嘉紀の名前と存在を知っていただろうか。
日本代表の次期監督がハリルホジッチでほぼ決定したらしい。面白いところに目をつけたな、というのが個人的な感想。W杯ブラジル大会で見せたアルジェリアの戦いぶり、特にドイツを苦しめた一戦は強く印象に残っている。
高田延彦・向井亜紀夫妻が主催する、アマチュアレスリングの要素を取り入れた体操教室(DKC)が初めて沖縄で開催されるというので、のぞきに行ってきた。 驚いた。参加している子供たちが、とんでもなく楽しそうなのである。
前日付けのスポニチで川本治氏も高く評価していたが、わたしも、ACLのプレーオフで見せたレイソルのサッカーに強烈な印象を受けた。 徹底してボールの保持にこだわりつつ、それが目的ではなく、崩すため、点を取るための手段になっている。流行に乗っただけのチームとは、似て非なる存在。あの異質さ、突出ぶりは日本リーグ時代の読売クラブ以来か。大袈裟ではなく、鳥肌が立つほど楽しませてもらった。同様に、そして違った方向に突出した湘南あたりとの対決が、いまから猛烈に楽しみである。
実は、猛烈に注目している。バスケ界の改革に担ぎだされた川淵氏の動向に、である。 ご存じの方も多いと思うが、いま、日本の男子バスケ界は混迷の極みにある。川淵氏に求められるのは、日本バスケットボールリーグとbjリーグ、相当に異なる方向性を持つ2つのリーグを無事に統合させるという難事である。
監督探し、選びは結婚と似ている。吟味する側は、吟味されもする。こちらが望んでも相手が望まない場合があれば、その逆もある。徹底的に相手の身辺調査をする人もいれば、まったくしない人もいる。
レベルの違いはあるにせよ、これは「グアルディオラか、モウリーニョか」という問題なのだと思う。アジア杯における日本代表の戦いについて、である。 わたしは、全試合で相手を圧倒した日本の戦いぶりを評価している。それは、わたしがヨハン・クライフを祖とし、グアルディオラが進化させた、機械仕掛けのように正確なサッカー“ティキタカ”の熱烈な信奉者だから、である。
わたしにとって、アジアカップにおける唯一の興味は、日本が勝つか負けるか、だった。これがW杯や欧州選手権、コパ・アメリカであれば、勝負とは別に好勝負、好チームのサッカーを楽しむという興味もあるが、残念ながらアジアのレベルはそこまで達していなかったからである。
ヘルツォーゲンアウラッハというニュルンベルク郊外の小さな街で育った少年は、早くからその将来を嘱望されていた。地元のニュルンベルクはもちろん、南部のビッグクラブ、バイエルンMも獲得に乗り出し、激しい争奪戦は西ドイツ国内でもちょっとしたニュースになったという。
専門誌で高校サッカーを担当していたころ、選手のニックネームを考えるのに夢中になっていた時期がある。 一番有名になったのは、四日市中央工の左利きのエースにつけたものだったが、実は、彼のためにもう一つ考えていたコピーがあった。
天皇杯決勝のない元日である。あらためて、この試合が果たしてきた風物詩的存在としての役割の大きさを痛感なさっている方も多いのではないか。ともあれ、新年明けましておめでとうございます。
今回ばかりは日本サッカー協会に同情していた。アギーレ監督の問題について、である。 アギーレ監督が八百長に関わっていたのか。真相がイエスだというのならば、なるほど解雇するしかあるまい。ただ、雇った側の責任を追求する声を聞くと、いささか気の毒になってしまう。
不思議な感じがする。天皇杯のない年末年始。国立競技場では迎えられない新しい年。高校サッカーからJの強豪に入ったような選手にとっては、大人になってから初めて体験する静かな年末年始かもしれない。せっかくの機会だから、“一般的なお正月”を存分に満喫してもらえたら、とも思う。