「13秒96」――今年9月、高桑早生は新たな境地に降り立った。大分市営陸上競技場で開催されたジャパンパラリンピック(以下、ジャパラ)。2日目に行なわれた女子100メートルで、初の13秒台をマークしたのだ。高桑の隣を走ったのは、日本記録保持者(13秒84)の中西麻耶だった。中西は2008年北京パラリンピックで、日本女子の義足スプリンターとしては初の入賞を果たしていた。北京後は練習拠点を米国に移し、ロサンゼルス五輪の男子三段跳び金メダリスト、アル・ジョイナーに師事している。そんな中西は、高桑にとって尊敬する先輩の一人であり、大きな目標だ。その中西とデッドヒートを繰り広げたのだ。 「ようやく、ここまできたんだ……」 ゴール後、高桑の顔は高揚感にあふれていた。
「あの人の走り、すごくきれいだな」 2006年9月、中学2年の高桑早生は目の前の光景に目を奪われていた。東京都北区の障害者総合スポーツセンター。その地下にある陸上競技場では、同センター主催の「はばたき陸上大会」が行なわれていた。競技場に入って、最初に目に飛び込んできたのが現在、切断者スポーツクラブ「ヘルスエンジェルス」の選手会会長を務める水谷憲勝だった。当時、まだ現役だった水谷のフォームは片足が義足とは思えないほど美しかった。さらに周りを見ると、色とりどりの義足を身に付けた選手たちが楽しそうに走ったり、跳んだり、投げたりしていた。しかも高桑が身に付けていた義足とは異なり、「J」のかたちをしている。 「かっこいいな……」 初めて目にしたスポーツ義足に、高桑は魅了された。それが陸上との最初の出合いだった。
マルセル・フグ(スイス)が史上4人目となる連覇を果たし、樋口政幸が自身最高の総合2位、国内1位に輝いた「第31回大分国際車いすマラソン」。スタートから繰り広げられた2人の優勝争いは最後のトラック競技にまでもつれこみ、残り20メートルでフグが樋口を交わすというドラマティックな展開となった。しかし、今大会のハイライトはこれだけではなかった。彼らの後ろでは、ロンドンパラリンピックの出場権をかけた、もうひとつの戦いが行なわれていたのだ。副島正純、洞ノ上浩太、花岡伸和。いずれも有力候補の一角に入っていた選手たちだ。果たして残された2枚の切符は誰の手に……。そこにはいくつものドラマがあった。
酒井宏樹という選手が一気に全国区になったのは、6月に行われたロンドン五輪アジア2次予選だろう。U-22クウェート代表とのホーム&アウェー方式による最終予選進出を賭けた2連戦。酒井にとっても初めて日の丸をつけて臨む公式戦だった。そして、その2試合ともに、酒井は“ゴール”に絡んだ。
今季、J1に昇格した柏レイソルが現在、リーグ戦の首位を走っている。過去、J2からの昇格1年目にJ1で優勝したクラブはない。そんな歴史的快挙に挑んでいる柏において、クラブ同様、急速なステップアップを果たしている選手がいる。酒井宏樹、21歳。右サイドバック(SB)としてここまで26試合に出場し、チームトップタイの7アシストをあげている。また、ロンドン五輪出場を目指すU-22日本代表でも右SBとして主力を担い、この10月にはA代表にも初召集された。
観ている者を魅了するアスリートのパフォーマンス。そこには言わずと知れた彼ら彼女らの日々の努力がある。だが、決してそれだけではない。コーチ、トレーナー、家族、友人……。多くの支えがあってこそ、アスリートたちは自らの限界に挑むことができる。秋山里奈にとって、そのひとつが「チャンピオンスイムクラブいせはら校」だ。
米満には憧れの存在がある。ブルース・リー。言わずと知れたカンフーアクション映画のスーパースターだ。小学生の時、映像の中で初めて出会ったその日から、圧倒的な強さに心を奪われた。それからというもの、ブルース・リーはいつも自分に力を与えてくれる存在である。
悔しい銀メダルだった。 9月にトルコ・イスタンブールで開催されたレスリングの世界選手権。男子フリースタイル66キロ級に出場した米満達弘は目標を「優勝」に定めていた。五輪で20個の金メダルを獲得したお家芸も今は昔。フリースタイルの日本男子勢は世界選手権で30年間、頂点に立ったことがなかった。 「世界チャンピオンという響きもいいし、日本レスリング界で30年ぶりというのは素晴らしいこと。歴史をつくるつもりで臨みました」
4年に一度の祭典パラリンピックへの思いは日に日に強まるばかりだ。 スプリンター春田純が本気で人生をかけてその舞台を目指し始めたのは、ちょうど3年前のことだ。きっかけは義肢装具士・沖野敦郎から誘われ、北京パラリンピックを観戦に行ったことだった。陸上競技が行なわれた通称「鳥の巣」(北京国家体育場)に一歩足を踏み入れた瞬間、春田の全身に鳥肌が立った。
日本のサッカー界は新しい世代が台頭しつつある。日本代表をみても23歳の阿部の同年代や身近な選手が日の丸を背負っている。6月のキリンカップでは昨年までの同僚・柴崎晃誠(川崎F)、先日のW杯アジア3次予選ではユース時代から面識のある田中順也(柏)が日本代表に選出された。さらに学年はひとつ下になるが、香川真司(ドルトムント)も代表の中心選手として活躍している。
三浦知良(現横浜FC)や武田修宏ら名だたるストライカーが足跡を残してきた名門ヴェルディに、新たな輝きを放つ選手が出てきた。阿部拓馬、23歳――。今季は既に10ゴールをあげ、現在J2得点ランキングではトップから2ゴール差の3位の位置で、得点王争いを演じている。
キュッ、キュッ、キュキュッ……。体育館いっぱいに鳴り響く、バスケットシューズさながらのこの音は、車椅子のタイヤの音だ。選手たちが車椅子をストップさせたり、ターンをさせたりする度に高いキーの音がこだまする。 ガッシャーン! ガツン! ガツン!……。そこに混じって聞こえてくるのは、車椅子と車椅子がぶつかり合う音。その激しさと言ったら、通常のバスケットボールの比ではない。
これまでの野球人生、ほぼ脇役の道を歩んできた。 もともと野球を始めたのが小学校6年の夏と他の選手より遅かった。きっかけは、それまでやってきた剣道が「竹刀が当たって痛かったから」。消極的な理由だったとはいえ、長身を生かした投球ですぐにチームの主力になった。背番号はエースナンバーの「1」。だが本当のエースは背番号「10」をつけたキャプテンだった。
とにかくスケールの大きなピッチャーである。 190cmの大きな体に最速148キロの速球。さらにウイニングショットのフォークボール。その投球にはNPBはもちろん、海の向こうのMLBからもスカウトがチェックに訪れる。兵庫ブルーサンダーズの今村圭佑は現在、関西独立リーグで最も注目されている右腕である。
2008年9月9日、佐藤真海は北京・国家体育場にいた。彼女にとっては2回目のパラリンピック。走り幅跳びを始めてわずか1年で「ラッキーにも行けてしまった」前回のアテネ大会とは違い、4年間、この日のために努力を積み重ねてきた。その成果を出し切る時がいよいよ来たのだ。「これまで応援し、支え続けてきてくれた人たちのためにも、最高のパフォーマンスを見せたい」。感謝の気持ちを胸に、佐藤はフィールドに立っていた。しかし、そんな気持ちとは裏腹に、この時の彼女の身体は悲鳴をあげていた。
2004年のアテネ大会。日本人女子の義足選手として初めてパラリンピックに出場したのが走り幅跳びの佐藤真海だ。走り幅跳びを始めて約1年。彼女にとっては初めての国際大会でもあった。最終の6本目で自己ベストを3センチ更新。しかし、あとわずか3センチで決勝進出を逃し、結果は9位に終わった。「もっともっと強くなって、必ずパラリンピックの舞台に戻ってこよう」。佐藤のアスリート魂に火がついた瞬間だった。
「うわぁ、かっこいいなぁ!」 三宅諒がフェンシングと出合ったのは小学校入学の直前だった。その頃、三宅は母親の勧めにより、地元の千葉県市川市のカルチャーセンターにあったスイミングスクールに通っていた。そこでは一つずつ泳ぎをマスターしなければ、次に進級できないシステムになっていた。最初のクロールは難なくクリアした三宅だが、次の背泳ぎでつまづいた。どんなに練習しても、真っ直ぐに泳ぐことができない。「もう、やだなぁ……」。習い始めて1年が経とうとする頃、三宅はスイミングスクールを辞めたくて仕方がなくなっていた。そんな彼の目に飛び込んできたのが、同じカルチャーセンターに飾られてあったフェンシングクラブの写真だった。三宅は剣を突くその姿に一目ぼれした。
フェンシングという競技が国内で広く知れ渡ったのは、3年前の北京五輪である。太田雄貴が五輪では日本人初のメダル(銀)を獲得し、全国にその名を轟かせたことは記憶に新しい。だが、実はその約1年前、日本フェンシング史上初めて世界の頂点に立った日本人フェンサーがいることはあまり知られていない。三宅諒、当時17歳が世界ジュニア・カデ選手権(U−17)男子フルーレで優勝したのだ。各年代カテゴリーを通じて世界選手権を制した唯一の日本人フェンサー。それが三宅である。
今年1月のアジアカップ。李忠成(広島)の描いた弾道が鮮やかにゴールマウスに吸い込まれ、日本は2大会ぶりの頂点にたどりついた。その歓喜の中に権田もいた。代表に選ばれて最初の国際大会。そこで最高の体験ができた。
ゴールキーパー(GK)は哲学者である。 自らの後ろには誰もいない。ただ、あるのは横7.32m、縦2.44mのゴールのみ。しかし、そこにはクラブの勝敗はもちろん、自身やチームメイト、サポーター、クラブスタッフ……、すべての人の未来がかかっている。 「いくら活躍しても勝つとは限らない。でもミスしたら確実に負ける。損なポジションですよ」 あるGKがそうポツリとつぶやいたことを思い出す。人知れぬ重圧、責任感……それらがGKを“考える人”にさせるのだろう。日本代表GKであり、FC東京の正GKでもある権田修一の言葉にも、まだ22歳とは思えない落ち着きと深みがある。
苦しみながらも大学選手権2連覇を果たした帝京大学ラグビー部の2010年度のシーズンは、2月の日本選手権2回戦で東芝ブレイブルーパスに敗れて幕を閉じた。3月に始動した新チームで、森田はキャプテンという重責を担うこととなった。新たなスタートを切った森田と帝京大が目指す先は、平尾誠二らを擁した82〜84年度の同志社大学以来となる史上2校目の大学選手権3連覇だ。
終了を告げるホイッスルが鳴った瞬間、真紅のジャージが歓喜に沸いた。帝京大学ラグビー部は1月の大学選手権決勝で早稲田大学を17−12で下し、見事、2連覇を果たした。大学日本一の立役者は、SOとしてチームを牽引し、決勝で4つのペナルティゴールを決めた森田佳寿だ。帝京大の司令塔は、後半37分に交代するまで、得意のランプレーやタックルで早稲田大を圧倒した。
「ビーチバレーでは何もかもが難しくて、苦労しています。でも、逆にそれが楽しくもあるんです」 6人から2人という人数も違えば、屋内から風の影響を受ける屋外という環境も違う。さらにはジャンプの仕方まで異なるというインドアとビーチバレー。同じバレーボールとはいえ、ビーチを知れば知るほど、インドアとは似て非なる競技だということがわかる。 「自分はずっとバレーをやってきましたから正直、もう少しスムーズにできるようになると思っていたんです」と大山。ビーチバレーを始めた頃は、これほどまでにできないものかと、驚きの連続だったという。しかし、だからこそ、ビーチバレーに夢中になったのだろう。彼女は今、「壁を乗り越える」喜びを感じているのだ。
インドアからビーチへ――。昨年、一人のバレーボーラーが大きな決断を下した。大山未希、25歳だ。小学1年からバレーボールを始め、常に全国トップレベルでプレーしてきた彼女の道のりは、ある意味、順風満帆だったといっても過言ではない。「優勝経験なら誰にも負けない」と自負するほどの実績を誇り、2004年に入団した東レ・アローズでも2年目から転向したセッターとして着実に力をつけてきた。昨季はチーム3連覇に大きく貢献し、自らも大きな自信を得たという。そんな彼女が昨年5月、ビーチバレーへの転向を発表した。“突然”とも思える出来事だったが、彼女にとってそれは考え抜いての勇断だった。
内村のNPBでの生活は育成選手からスタートした。独立リーグのBCリーグからは初のNPB入りだった。育成選手制度は2006年から導入されたシステムである。年俸は最低440万円以上が保障される支配下登録選手と異なり、240万円〜300万円程度。1軍の試合には出られない。中には山口鉄也、松本哲也(いずれも巨人)のように支配下登録されて新人王にも輝いた選手もいるが、2軍の試合にすらほとんど出られず、ユニホームを脱ぐ選手も少なくない。また、独立リーグでは四国アイランドリーグや関西独立リーグも含め、これまで36名がNPBの門をくぐった。しかし、内村のように1軍に定着している選手は皆無だ。その意味では彼は育成の星であり、独立リーグの星でもある。