中京大学4年生の楽山孝志は、サッカー部監督だった城山喜代次に呼ばれ、こう言われた。 ――ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)から獲得の話が来ている、お前、行くか。 練習参加以来 […]
楽山孝志は中京大学2年生からレギュラーに定着、地域選抜にも選ばれるようになった。 地域選抜のほとんどの選手は関東、もしくは関西地区の大学リーグに所属しており、中京大学の所属する東海地区など、それ以外から選ば […]
南米大陸のブラジルやアルゼンチン、あるいは欧州のイングランドや、スペイン、イタリア、フランス、ドイツといった“サッカー先進国"では「18才」という年齢がひとつの区切りとなる。 プロフェショナルなサッカー選手 […]
サッカー選手の目利き、特に若い選手がどこまで階段を上る可能性があるのかを見極めることは非常に難しい。 短距離走のように、時間という絶対軸がある競技ならば優劣は明らかだ。また、野球の投手であれば速い球を投げら […]
楽山孝志が李国秀の指導を初めて受けたのは、1997年9月、高校2年生秋のことだった。 李は1957年に横浜で生まれた。父親は韓国の済州島出身、母親は大阪在住の在日朝鮮人である。両親は早くに離婚、中華街で焼肉 […]
1996年4月、楽山孝志は静岡市立清水商業(現・清水桜ヶ丘高校)に入学した。すでにJリーガーを多数輩出していたサッカー部には全国から選手が集まっていた。楽山は「数えたことはないですけど、3学年合わせて100人以上いたの […]
楽山孝志は中学3年生のとき、静岡県に引きつけられることになった。 富山県のFCひがしの一員として15才以下の日本クラブユースサッカー選手権に出場している。この大会で優勝したのは清水エスパルスのジュニアユース […]
楽山孝志は1980年8月、富山県の北東部、魚津市で生まれた。県庁所在地のある富山市からは車で30分ほどの場所にある。富山湾に面した平野部から2000メートル級の立山連峰まで一気に標高が上がる独特の地形をしており、清麗な […]
2020年10月3日、清水駅前にあるビジネスホテルの一室で、YouTube「李国秀のLeeチャンネル~スポーツは世界を覗く窓~」収録が行われた。李国秀さんと清水商業監督(現・清水桜が丘)の大滝雅良さんが対談、ぼくが司会 […]
ぼくの取材範囲は広い。単行本に限っても、サッカー、野球、格闘技、そしてプロレス、芸能、政治──。最近は医療にも注力している。 どのように題材を選ぶのですかという問いに対して、ぼくは「運と縁」と答え続けてきた […]
2007年1月、フクダ電子アリーナでJリーグ合同トライアウトが開催された。このシーズンオフ、11月に続く2度目だった。 長居陸上競技場での第1回終了後、要田勇一を獲得しようというクラブは現れなかった。このト […]
2006年11月、辰己直祐氏はジェフユナイテッド市原千葉所属の要田勇一の代理人として祖母井秀隆ゼネラルマネージャーと会うことになった。祖母井は「要田君には0円提示という形になります」と申し訳なさそうに切り出した。&nb […]
2006年11月3日に行われたヤマザキナビスコ杯決勝、ジェフユナイテッド市原千葉は、鹿島アントラーズを破ってタイトルを獲得した。 リーグ戦では中位に燻っているチームが優勝したことは嬉しい。しかし、要田勇一は […]
サッカーの監督はオーケストラの指揮者のようなものだ。どのパートに誰を配置して、化学反応を起こさせるのか、頭の中で組み立てる。有能な監督は、選手の持っている能力を極限まで引き出し、1+1を2以上にする、術をそれぞれ持って […]
2006年シーズン、ジェフユナイテッド市原・千葉の初戦の相手は大宮アルディージャだった。 両チーム合わせてイエローカードが6枚という荒れた試合になった。ジェフの心臓とも言える佐藤勇人が2枚のカードで退場処分 […]
2005年7月9日夜、要田勇一の弟・章が静岡の寿司屋「七八」までぼくを迎えに来てくれた。そこで要田が決勝点をあげたことを知った。ぼくたちは店のテレビをつけて、スポーツニュースを見ることにした。 ジェフユナイ […]
2005年J1第15節、ジェフユナイテッド市原・千葉対アルビレックス新潟の試合が行われた7月9日は、朝から空は分厚い雲で覆われていた。試合開始前、たっぷりと水分を含んだ雲が耐えられなくなったかのように、パラパラと雨を吐 […]
要田勇一の記憶によると、2005年シーズン前だったという。 要田たちのボール回しにブルガリア代表のイリアン・ストヤノフが入った。「ボール回し」とは世界中でどこでも行われているウォーミングアップの一種である。 […]
2004年シーズンが終了したある日のことだ。 要田勇一の代理人である辰己直祐氏は、ジェフユナイテッド市原の祖母井秀隆ゼネラルマネージャーから話があると呼び出された。2人は兵庫県の報徳学園サッカー部の先輩後輩 […]
2004四年11月20日、市原臨海競技場は気持ちのいい秋晴れだった。 14時、キックオフの笛が鳴った。セカンドステージ第13節、3位・ジェフユナイテッド千葉と8位・ヴィッセル神戸の試合が始まった。  […]
ジェフユナイテッド市原・千葉の監督、イビチャ・オシムは、要田勇一がこれまで会ったことのないタイプの指導者だった。 「マネージャーが明日、何を練習するんですかって聞きに行っても、オシムさんは絶対に教えないです。 […]
時計の針を少しだけ戻す――。 2004年10月、要田勇一がジェフユナイテッド市原・千葉の“入団テスト”を受けていたときのことだ。 要田をジェフユナイテッド市原・千葉と繋いだ辰己直祐氏は、要田が思 […]
2004年10月12日――。 要田勇一がジェフユナイテッド市原千葉の練習に参加してから2週間が経とうとしていた。要田をジェフに紹介してくれた辰己直祐氏から、この日に行われるトップチームの練習試合に出場するか […]
2004年10月1日、要田勇一はパラグアイからサンパウロ、ロサンゼルスを経由して、成田空港に到着。ぼくは要田の弟・章たちと成田空港で彼を出迎えることになった。30時間を超える長旅ではあったが、久しぶりに日本に戻ってきた […]
2004年9月末、要田勇一の弟・章から電話があった。 彼は「言いづらい話なんですが…」と申し訳なさそうな口調で切り出した。パラグアイの首都、アスンシオンにいる要田が日本に帰国したいと言い出しているという―― […]