カープ・アイ
カープ創設2年目の昭和26年のシーズン終盤、最下位脱出にわずかながら望みがないわけではなかった。昭和26年10月6日の「中国新聞」はその一縷の望みを託してこう伝えている。<六位大洋とのゲーム差は三・五ゲームで(大洋が) […]
カープ創設から2年目のシーズンとなった昭和26年は、世界的にも大きな転換点でさまざまな出来事が起こっていた。日本が国際社会に復帰したのは、サンフランシスコ講和会議により、平和条約が締結された昭和26年9月8日。大戦最中 […]
カープの創設2年目となる昭和26年、カープは後援会という財政基盤が整った。しかし、それはすぐに他球団と同レベルで、戦力強化ができるかといえば、決してそうではない。球団の運営を、なんとか賄っていけるのではないかというレベ […]
カープは創設2年目のシーズン中に、生まれ変わったと言える。後援会という球団運営資金を賄う団体をバックに、飛躍を遂げていく。この年、日本も生まれ変わっていくのである。昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和会議が開催され […]
広島カープが後援会という球団運営資金を賄う組織を得たのは、前回までの考古学で述べてきた。親会社のない球団にあって、県民市民からの拠金で賄っていくことになるのである。カープの飛躍の時期と同じくして、昭和26年9月、日本も […]
「カープの後援会の設立を、ここに宣言します」。その声は広島総合球場に響き渡った。昭和26年7月29日のことであった。この雄叫びが、球団関係者をはじめファンにとっていかに心強かったことか。発足から経済的な危機に直面し、幾多 […]
◆昭和26年広島カープ後援会 会費 累計◆年月日金額(円)3月25日398,243.003月27日427,543.003月27日466,777.003月29日521,957.003月30日561,456.003月 […]
昭和26年7月29日、広島カープの後援会の発会式が開催された。後援会といっても、単なるファンの集いではない。親会社のないカープ球団にとって、球団運営資金を出資し続ける、親会社代わりとなる組織である。これは被爆後の広島を […]
広島カープ後援会の発会式は、あいにくの悪天となって延期を余儀なくされ、試合前に開催されることとなった。一方カープの後援会費は増加の一途をたどる。戦後、娯楽の少ない時代にファンの思いはカープに託されたのだ。石本秀一監督も […]
広島カープは、果たして存続できるのか、危機にたびたび遭遇する2年目(昭和26年)のシーズン。カープが戦う相手は、セ・リーグの他の6球団だけではなかった。親会社のないカープは資金難から、選手の補強はわずかで、幾度となく選 […]
カープ2年目のシーズンの苦労はなんといってもお金だ。親会社がないことから球団運営資金に事欠いた。それを、石本秀一監督が生み出した後援会構想により、県民・市民から寄せられる後援会費や、球場前に置かれた酒樽に投げ込まれる、 […]
親会社のないカープが、プロ野球チームとして存続するためには、とにもかくにもお金が必要だ。広島県内各地に後援会が設立され、こうした県民市民ら一人ひとりが後援会費を捻出する日々が始まった。折もおりカープ初代監督、石本秀一の […]
カープが2年目のシーズンを開幕できたことは奇跡に近い出来事であった。さまざまな無理難題が次々に浴びせられる中、遅ればせながらも4月7日に初戦を迎えた。長いカープ史の中でも忘れられないシーズンであったろう。 […]
プロ野球セ・パ分裂から2年目のシーズン。さまざまな試練を耐え忍んで迎えた開幕だった。最初の試練は、開幕前に行われた大阪トーナメント大会に参加する遠征費がなかったこと。球団財政が泥沼化し、選手の給料はおろか寮の食事にも事 […]
広島カープが2年目のシーズンに入る前、財政状況が泥沼化していた球団は“風前の灯火”状態だった。しかし、初代監督・石本秀一の発案による後援会構想により、わずかながら光明が差し込んできた。一方、カープの開幕を拒むセントラル […]
カープ球団史に残る球団の存続危機といえば、設立2年目のシーズンを控え、金策に明け暮れていた日々のことであろう。カープはその危機を、初代監督・石本秀一の考案した「後援会構想」で乗り越えていくが、第二の試練が襲い掛かる。そ […]
広島カープの存続が決まったのは、初代監督・石本秀一の妙案である後援会構想により、資金を県民市民一人ひとりから集めることで、経営面での活路が見出せたからだ。さらに、2年目のシーズン前、「春の野球祭」と呼ばれる大阪トーナメ […]
1年目のシーズンを終え、2年目に入ったカープだったが、球団としての問題は山積みであった。差し迫った問題としては、阪神甲子園球場で開催される「春の野球祭」と呼ばれる大阪トーナメント大会に参加する遠征費がなかったこと。累積 […]
カープ球団存続へ最大の危機が訪れたのは、2年目のシーズン開幕が迫った昭和26年3月とされている。この前兆ともいえる、カープの危機はたびたび起こる。前年のシーズン終盤、観音地区にあった三菱の選手寮から追い出され御幸荘へと […]
カープ球団は2年目のシーズンを前に、やっていけるのだろうかという、経営陣の不安があった。しかし、広島県内の各地に出掛ければ、ファンは大喜び。試合後には、選手らを歓待し、普段、選手寮ではなかなかありつけない肉がたらふく入 […]
原爆という悲運にさらされた広島において、親会社のない環境下で生まれたカープの最初のシーズンオフは、散々な日々であった。試合がないため興行収入が上がらず、選手の給料はおろか、食べるものにも事欠くありさま。このままではやっ […]
カープ球団は2年目のスタートにあたり、親会社を探し回り、なんとか他球団のように経済面で不安のない体制を築こうと奔走した。 最初の交渉先は、寿屋サントリー(現サントリーホールディングス)で、以前からプロ野球参入に興味を示 […]
カープ創設の最初のシーズンを戦い終えたカープナインにとって、昭和25年の年の瀬はもう一つの戦いが続いていた。前回のカープの考古学で記した球団に対する「給料支払い願い」のことだ。 年の瀬の金策 親会社のないカ […]
カープは球団の組織を株式会社化することで、なんとかプロの球団としての体裁を整えた。これが昭和25年9月3日。シーズンも終盤に入ってのことだった。 肝心の試合は連敗続きだったが、株式会社と体制を整えたということにおいて、 […]
カープは郷土広島の県民市民チームであり、かつ、プロ野球チームとして、地元広島県に根ざし、すべての県民市民が支えるチームであると、高邁な理想を掲げてスタートした。出資は広島県や広島市をはじめ、呉市、福山市、尾 […]