田崎健太
2010年春、里内猛はリオ・デ・ジャネイロでジーコに会い、その後、サンパウロ州の小さなクラブを回った。自分の基本にあるブラジルのサッカーを肌で感じ、学び直すつもりだった。スタジアムにも足を運び、リオのマラカナンスタジアムでは大雨の中、CRフラメンゴ対バスコ・ダ・ガマの試合を観戦した。フラメンゴには元ブラジル代表フォワード、アドリアーノが所属していた。かつて里内が長期滞在していた時代と違い、好況となったこの国にはアドリアーノのように著名なサッカー選手が戻ってくるようになっていた。ブラジルの社会、そしてサッカーが変わっていた。
人に質問するという行為は、尋ねた側も知性を問われる――。 質問をする前にきちんと調べ、考えてきたのか、被取材者から見つめられる。日本のスポーツ新聞記者、テレビ局レポーターが多用する「今日、どうでした?」といった類の問いかけは、質問者がどこに問題点を見出して、何を聞きたいのかという具体性がない。残念ながら、少なくないメディアに携わる人間は、こうした当たり前のことに無自覚である。
2002年日韓ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、仙台で行われた日本代表とトルコ代表の試合が0対1で終わった瞬間、「あのおっさんがここにいたら、えらい怒っているやろな」と、里内はジーコの顔を思い浮かべていた。
1993年4月1日、里内猛は留学先のブラジルから日本に帰国したのも束の間、5日後の6日には、鹿島アントラーズのイタリア遠征に帯同した。ミラノで飛行機を降り、バスに乗り替えて約4時間、アドリア海に面した宿舎に到着した。辺りはマリティマと呼ばれる一角だった。
世界各国、代表選手選考には「どうしてこの選手を選ばないのか」と、必ず不平不満が出るものである。中でも、世界トップクラスのチームが幾つも作ることができるであろう、ブラジルはその傾向が強い。
早く一人前のフィジカルコーチになりたい――里内はそればかり考えていた。トレーニングの勉強会があれば足を運び、参考になりそうな本やビデオテープを片っ端から手に入れた。ある時、ヨーロッパにいいビデオがあると聞き、取り寄せてみると日本のビデオデッキでは再生できないPALシステムだった。どうしても見たいので、PALシステムを再生できるマルチシステムのビデオデッキを購入した。ビデオデッキは約30万円――会社員の里内にとっては、痛い出費だった。それでも知識欲の方が勝った。
「おいお前、ジーコって知っているか?」 里内は住友金属サッカー部のマネージャーだった平野勝哉から声を掛けられた。 「知っているも何も……」 里内が口ごもったのも無理はない。ジーコが来日する前年の1990年、南米選抜対欧州選抜のチャリティーマッチが国立競技場で行われた。里内は住友金属にいたブラジル人のミルトン・クルスと一緒に見に行き、試合後にロッカールームへ入ることが出来た。試合に出場していた元ブラジル代表のソクラテスと記念撮影していると、目の前をジーコが横切った。「おっ、ジーコだ」。里内は心の中で呟いた。ジーコこと、アルトゥール・アントゥネス・コインブラは彼にとって憧れの選手だった。
人生とは自分が強く望んで前へ進むというよりも、背中を押されて歩き出すことが多いものだ。里内猛の人生は、千葉県の検見川で行われたJSL(日本サッカーリーグ)主催の指導者講習にたまたま参加したことで大きく変わることになった。指導者講習を担当していたのは、ドイツ人のデットマール・クラマーだった。
国外で日本人と話をすると、会話の内容が妙に濃くなり、距離がすぐに縮まることがある。元日本代表のフィジカルコーチを務めた、里内猛さんともそんな出会いだった。今から2年前――ワールドカップイヤーの2010年のことだ。
9月11日、埼玉スタジアムで行われたワールドカップ最終予選第4戦の日本代表対イラク代表戦で日本は香川真司を欠いたものの、本田圭佑、清武弘嗣、岡崎慎司、長谷部誠など欧州でプレーする選手を揃え、ほぼベストメンバーで臨んだ。 一方、イラクは前の試合から大きくメンバーを入れ替え、招集メンバー23人のうち7人が23歳以下の同国代表の選手だった。
2010年南アフリカW杯の期間中にもぼくはジーコと彼の自宅で会っている。彼の自宅は、リオデジャネイロの中心地から少し離れた新興住宅地のバハ・ダ・チジューカにある。ぼくが初めてブラジルを訪れた1995年頃は、大通り沿いにぽつりぽつりと建物が見えるだけだった。しかし、十数年の間に、高層マンション、ショッピングモールが次々と建ち、中心部の喧噪を嫌った裕福なカリオカ(リオっ子)が集まる高級住宅地となった。自宅と自らの経営するサッカーセンターをこの辺りに作ったジーコには、先見の明があったというわけだ。
1995年1月、初めてジーコに取材をした時、ぼくはその場にいたものの、透明人間のような存在だった。 ブラジルで取材を手伝ってくれたのは、セルソ・ウンゼルチという、優しい顔つきの痩せた白人ジャーナリストだった。南米最大の出版社「アブリウ」の社員で、ブラジルで唯一のサッカー専門誌『プラカール』で働いていたが、車雑誌に異動になったとぼやいていた。セルソは、プラカールを創刊号から所持している程、サッカーを愛していた。話してみると、ぼくと同じ年で誕生日も近かった。
人はなかなか本音を話さないものだ。特に多くの人間から取材を受けてきた、“取材慣れ”した人間に話を聞く時は注意が必要である。過去にどこかで話した内容をただ繰り返すことも少なくないからだ。彼らには、きちんと向き合い、繰り返し会い、しつこく話を聞かなければならない。
リッチモンドキッカーズの所属しているUSL(ユナイテッド・サッカー・リーグ)は、通常のサッカーとは少々仕組みが異なっている。1試合で5人まで選手が交代可能なのだ。 強化、調整を目的とした親善試合は別として、サッカーでの一般的な公式戦の交代枠は3人である。元々、サッカーには選手交代そのものがなかった。「選手は試合の流れを読み、90分をどのように使うのかをそれぞれがコントロールすべきである。それが出来ない選手は先発として送り出すべきではない」と考える指導者もいる。しかし、同国において選手交代は試合の妙として考えられているのだ。
試合翌日のリッチモンドの空は雲に覆われていた。まさに今にも泣きそうな空模様の中、リッチモンドの中心、キャリーストリートで広山望と待ち合わせるていた。日曜日に営業している店は限られているのだろう、レストランが建ち並んだキャリーストリートは街全体の賑わいを詰め込んだようだった。空いている駐車場を探し当て、ぼくたちは木製のテーブルが並んだ天井の高いブラッセリー(レストラン)に入った。
特に関心もないのに、安易に「仕事だから」と引き受けた取材は、取材される側にとっても幸せな結果にはならない、とぼくは思っている。だから、ある時期から自分が前向きな興味を持てる人間しか取材しないようにしている。ぼくの指向は、賢明な編集担当者には分かっているのだろう。これまで“無理に”という類の依頼はなかった。とはいえ、ぼくのようなそれほど売れていないノンフィクション作家に、「好きなように書いて下さい」という優しい誘いなどない。描きたいと思う人物を取材するには、取材費等を捻出することを考えなければならなかった。 「リッチモンドに渡った広山望に会いに行くためにはどうすればいいか……」
リッチモンド・キッカーズのテストには、前年度のチームに所属していた選手たちも参加していた。中には、ブラジル人、カメルーン人、ドイツ人もいた。育ってきた文化、背景の違った選手たちの中でサッカーをすることに広山は懐かしく、愉しみを感じた。 もちろん、日本のクラブでもブラジル人選手とプレーした経験はあった。しかし、自分が外国人選手としてプレーをするのは、また異なった感覚である。これまでの経歴、プレースタイルを知らない外国人選手たちに、自分のプレーを認めさせなければならない。そうした、緊張感を味わったのは久し振りのことだった。
ポルトガルのスポルティング・ブラガ、フランスのモンペリエHSC――両クラブでは出場機会が得られず、不完全燃焼だった。日本への帰国は、広山にとっては本意でなかったかもしれないが、2004年シーズン終了後、広山は東京ヴェルディへと移籍。05年シーズンはセレッソ大阪にレンタル移籍した。
久し振りに広山望の名前を報道の中に見つけたのは、2010年11月19日のことだった。 J2のザスパ草津が、広山たち、数人の選手と来年度の契約を更新しないと発表したのだ。
サッカークラブ経営をやってみたいと考える人間は少なくない。プロサッカー選手の経験のある人間は特にそうだろう。 才能ある選手を発掘し、育成し、強いチームを作る。自分ならば、選手を見る目があるし、もっと上手くやれる――そう考えるものだ。サンパイオにも自信があった。 しかし――。
Jリーグに来たブラジル人選手は数多い。知名度で順に並べていくならば、ジーコ(元鹿島)、カレッカ(元柏)、レオナルド(元鹿島)、ジョルジーニョ(元鹿島)、エジムンド(元浦和)、ベベット(元鹿島)――。 こうした選手と比べると、幾分地味な印象になるのは否めないが、ブラジル代表での実績を考えればセザール・サンパイオ(元横浜フリューゲルス)も上位に入っていい。
呂比須にとって最も輝かしい経歴は、1998年のフランスW杯出場だろう。 前年、マレーシアのジョホールバルで行われたアジア第3代表決定戦で日本代表はイラン代表に勝利し、W杯初出場を決めていた。日本人としてW杯出場に大きく貢献した呂比須には多くの友人たちから連絡がきた。
数年前からブラジルサッカー界は、国の好況の影響を受けて、高年俸の選手が増えている。その象徴が、08年12月にコリンチャンスへ移籍したロナウドだった。彼の月収は180万レアル、日本円に換算して約9000万円になる。 ロナウド以降、デコ、フレッジなど代表クラスの選手たちが次々と母国のクラブに帰国した。彼らの月収は50万レアル(約2500万円)を超えている。 しかし、こうした給料を支払えるのはごく一部のクラブだけである。
選手や監督に取材する場合、最も気になるのは現在彼らがどんな状況にあるかということだ。選手ならば好調で得点を決めている時が望ましい。監督ならばチームの成績が上位にある時の方が口が滑らかになる。
エドゥー率いるアトレチコ・ソロカーバと北朝鮮代表の試合は平壌の金日成スタジアムで行われた。 掲示板に、ソロカーバではなく、『BRAZIL』と出ているのを、ちらりと見てエドゥーは苦笑いした。 「ぼくらはブラジル代表じゃないんだけどな」