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今年の体育の日、福島県のいわき市で「スパトライアスロン」が開催された。と言っても、これが何なのか理解できる人はほとんどいないだろう。無理もない、温泉とトライアスロンの融合であるこのスポーツが開催されたのは世界初なのだから……。 「林道トレッキング、温泉ウォーク、湯上りジョギング」この3種目を続けてやるから温泉トライアスロンというネーミング。確かに意味としては間違っていないけど、これを競技するってどういう事?
ある人物との出会いが長友のサッカー人生を大きく変えた。 「先生がいなかったら? 今の自分はなかったでしょうね。そのぐらい大きな影響を受けましたよ」 地元の西条北中に入学した長友は、恩師といえる人物と出会う。それが長友の入学と同時に西条北中に赴任して、サッカー部監督を務めた井上博氏(現新居浜市立北中教諭)だった。
07年6月6日、北京五輪2次予選最終戦(第6戦)マレーシア戦。 1人の大学生が聖地・国立競技場のピッチで躍動した。彼の名は長友佑都。明治大学体育会サッカー部3年生。170センチと小柄だが、身体能力が高く、1対1の強さに定評のある攻撃的サイドバックである。 「まさか国立の舞台でやれるなんて……。俺って本当に幸せ者やなって思いましたね」 長友は噛み締めるようにして言った。
10月29日、デンバー国際空港でのこと――。 ワールドシリーズの取材を前日に終えた筆者は、コロラドからニューヨークへのフライトを待っていた。すると背後から、レッドソックスファンの男性の電話口での話し声が聴こえて来た。 「第4戦の9回裏には、まだ何か悪いことが起こるんじゃないかと気が気じゃなかったよ。レッドソックスファンの悲しい性だ。だけど、何もないまま試合は終わった。どうやらこのチームは変わったようだね……」
直前の怪我の影響で「不完全燃焼」に終わった「第8回オープントーナメント全世界空手道選手権大会」(03年10月)後、野本は肉体改造に踏み切った。 「減量して中量級に出るくらいなら、練習で苦しんで大きいヤツと戦った方がいい」と、174センチ、84キロの体格ながら、100キロ以上の巨漢がひしめく重量級(80キロ以上)で戦ってきた野本だったが、何試合も行うトーナメントでは、やはり体重での不利を痛感せざるを得なかった。
「野本尚裕」の名が全国的に知られたのは、2002年6月に行われた「第19回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」重量級を制したことがきっかけだった。そして、04年の世界大会代表がかかった03年4月の「第20回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」重量級で3位に入り、世界大会代表切符を手にした。当時、32歳。遅咲きの世界デビューだった。 当時を振り返って、野本は言う。「『オレなんかが世界大会に出ていいのか?』と思っていました(笑)。それまで、地方大会でも4回戦まで行けないくらいのレベルでしたから」。
レッドソックスにとって重要な意味を持った10月15日のリーグ優勝決定シリーズ第3戦で、松坂大輔はまたも期待に応えられなかった。 波に乗るインディアンス打線をかわしきれず、4回2/3を投げて4失点。地区シリーズのエンジェルズ戦に続き、これで2試合連続で5回を持たずに降板したことになる。そしてこのコラムを書いている時点(現地時間17日)で、レッドソックスは1勝3敗でシリーズに王手をかけられてしまった。このままいけば、15日の煮え切らない投球が今季の松坂の最後の登板となる可能性が高い。 獲得に1億ドル以上(約120億円)を費やされながら、プレーオフでは好投できずじまい。ここまでは温かく見守ってきたボストンの熱狂的なファンも、もしこのままシリーズに敗れた場合には、期待を裏切った高額輸入品への風当たりを強めるに違いない。
ご存知の方も多いと思うが、私は現役のトライアスリートである。それも一応、人様から多少注目を集めるプロとして活動している。なので、どんなに他の仕事が忙しくとも、アスリートとしてパフォーマンスを維持すべく努力するのが当然の義務。もちろん繁忙期には練習から遠ざかり、少々厳しい状態にはなるが、それでも一般の人から見ると明らかにアスリートしての風貌を保っているつもりである。なので、どこへ行っても「40歳には見えない素晴らしい身体ですね」という言葉を頂き、ちょっと嬉しくなることが珍しくない。人間というのは誉められることに弱いものだ!?
愛媛県松山市内で野本は生まれ育った。小学生の頃は、映画や2歳年上の兄の影響で、ブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れていた。 「よくマネをして遊んでいました(笑)。2歳年上の兄貴と喧嘩するといつもかなわなくて、強くなりたい、という気持ちも強かったですね」
■ 12年振りの地区優勝は果たしたが、終盤のレッドソックスはヤンキースの勢いの前に青息吐息だった。その原因は、今季前半の快進撃を支えて来た投手陣に疲れがみえたことである。 先発はエースのジョシュ・ベケット以外、衰えの目立つカート・シリング、この時期は未知数の松坂大輔、地区シリーズは欠場することになったティム・ウェイクフィールドとやや迫力に欠ける。
「下段職人」「ロシア人キラー」の異名をとる空手家・野本尚裕(新極真会愛媛支部)。重量級としては小柄ながら、体格の不利をものともせず02年全日本ウェイト制空手道選手権大会重量級で優勝、04 年全日本空手道選手権大会で準優勝するなど、数々の戦績を誇る。 昨年10月、東京体育館で行われた全日本大会で4位に入賞し、上位4人に与えられる4年に1度の世界大会・第9回オープントーナメント全世界空手道選手権大会(10月13〜14日・東京体育館)の出場切符を手にした。
2006年は村上にとって苦しいシーズンだった。春先の試合で痛めた踵の怪我が完治せぬまま、日本選手権では優勝を守ったものの、シーズン中に日本人選手に2度敗北するという屈辱も味わった。 今治明徳高校陸上部時代の顧問で現在も村上を指導する浜元一馬氏からは「オマエは日本選手に負けたらもう終わりだ」と、厳しい言葉も浴びせられた。 村上は言う。「まぁ、自分でもそう思いましたね。やっぱり、怪我していようが何だろうが、その大会にエントリーした時点で、負けてはいけない。『怪我していたから仕方ない』と同情されたらもう終わりだと思いますから」。
近年のボクシング界では最大規模の試合前記者会見が、9月19日にニューヨークのロッカフェラーセンターで行なわれた。 会場はクリスマスに世界最大のツリーが飾られる敷地内。そこで、なんとオスカー・デラホーヤとバーナード・ホプキンスが司会役に起用され、12月8日に予定されるWBCウェルター級タイトルマッチ、フロイド・メイウェザー対リッキー・ハットン戦のプロモーションイベントが盛大に催された。 「ボクシングが死んだなんて言ったのは誰だ? 今年の終わりには最高のカードが連続で用意されているんだぜ!」ホプキンスはその場で高らかにそう叫んだ。
今年の日本は暑かった! 聞くところによると、東京は那覇より暑かったとか。まあこれだけ暑いと生活するだけでも辛い感じ。都内を自転車移動する私も、この季節は移動の回数だけバックの中にTシャツを忍ばせて生活していたくらい。汗をかかないなんて不可能なので、その後の対策を講じることにしたのだ。 そんな暑い中でも、皇居ではぞろぞろと人が走り出す。さすがにマラソン熱が高まっているようで素晴らしいことだが、夜ならともかく、あの暑い昼間に走っている姿はどうも感心できない。身体を鍛えているというより、身体をいじめていると言った方が適切か!?
中学時代、野球部に所属していた村上は、愛媛県内では知られる投手だった。やり投げを始めたのは高校に入学してからだ。中学時代、体育の授業で、ハンドボールを投げる村上の姿が当時陸上部の顧問だった中谷博氏の目に留まったのがきっかけだった。その後、中谷氏の推薦で、投てきの強豪校である今治明徳高から勧誘を受ける。同校陸上部顧問(当時)の浜元一馬氏が、中谷氏と“旧友”という縁もあった。 数々の野球の名門校からの誘いを断り、村上は今治明徳高に入学。やり投げに打ち込む道を選択した。スピードガンで150キロ以上を記録した逸話を持つ村上には高校時代、プロからの誘いもあった。
2日に閉幕した世界陸上大阪大会、男子やり投げの予選は9月1日に行われた。 村上は、11時から行われた予選B組に登場。予選通過記録は82メートル00。しかし、9時から行われた予選A組でその記録を上回ったのは4人のみ。8番目の選手までは79メートル台だった。今季、79メートル85を投げている村上にとって、決勝の舞台は本来の力さえ出せば届く位置にあった。予選A組の結果を受け、村上自身も「80メートル投げれば決勝に行ける」と確信していた。
今季MLで最大のサプライズチームはどこかといえば、シアトル・マリナーズだったのかもしれない。 イチロー、城島健司という2人の日本人プレーヤーを抱えるマリナーズは、過去3年間は連続で負け越しレコード。さしたる補強のなかった今季も低迷は必至と思われていた。 だが蓋を開けてみれば、今年は本格的な秋も近づいたこの時期まで、プレーオフ争いにしぶとく生き残り続けてきた。他地区で首位に立っているのは本命チームばかり。それだけに、彼らの健闘はひときわ際立って見えたのだ。
今夏の大阪選手権の代表選考を兼ねた今年6月29日、陸上の日本選手権初日に行われた男子やり投げ決勝で、02年釜山、06年ドーハと、アジア大会で2大会連続銀メダルを獲得している陸上やり投げの第一人者・村上幸史(スズキ)は、5投目に79メートル85を投げ、8年連続8回目の優勝を果たした。世界選手権の参加記録A標準(81メートル00)突破はならなかったものの、05年ヘルシンキ大会に続く世界選手権代表に名を連ねた。
「あいつは理想とするFWですよ。高さもスピードもあって、足元もうまい。一緒にやれたことは大きかった」 01年6月、劇的な延長Vゴールで契約延長を勝ち取った大木は吹っ切れたように直後のJ1セカンド・ステージで活躍をみせる。コンビを組んだのが当時の日本代表FW・久保竜彦(現・横浜FC)だった。大木と久保は同期生。ピッチ上でともにプレーすればするほど、大木は久保のほとばしるような才能を感じていた。
大木がこれまで数多くあげた得点の中でもっとも印象に残っているゴール。それはサッカー人生の危機に直面した時期に決めたゴールだ。2001年6月20日、ナビスコ杯2回戦対FC東京戦。サンフレッチェとの契約期間は残りわずかとなっていた。
夏場に差し掛かり、ヤンキースが猛然とした勢いで勝ち始めている。 今季は開幕から不調で、一時は首位に14ゲーム、ワイルドカードにも8、5ゲーム差も付けられた。しかしオールスター以降は破竹の勢いで、なんと24勝9敗(8月14日まで)。このままいけば、ワイルドカード奪取のみならず、首位レッドソックスを抑えて地区優勝を飾っても、もう誰も驚かないだろう。
日本では、暑い夏を迎えていた8月。ロンドンでも長い雨を抜けてようやく太陽が毎日顔を見せるようになった。6月下旬からなんと6週間にもわたって雨、雨、雨……。いくら悪天候に慣れているブリティッシュだって嫌になる。で、やっと好天が戻ってきた8月第1週の週末に「The Michelob ultra London Triathlon」が開催された。この大会、なんとロンドン市内で開催され、1万2千人もの参加者を集める。我々が考えているトライアスロンとは随分違うようだ。
「武南との準々決勝、0−1と負けている大事な場面で交代させられたことが悔しかったですね」 大木が高校時代を振り返る時、もっとも思い出す試合は3年生のラストゲームではない。93年1月6日、全国高校サッカー選手権大会準々決勝。愛媛県代表・南宇和高校はベスト4をかけて埼玉県代表・武南高校と激突した。
これは愛媛FCがまだJFLに所属していた時代の話である。J昇格を目指すクラブをサポートする法人会員名簿に1人のサッカー選手の名が刻まれていた。地元企業の名前が数多く並ぶ中、その個人名はひときわ際立っていた。
NBAが未曾有のスキャンダルに揺れている。 7月下旬、このリーグで過去13年間レフェリーを務めて来たティム・ドナヒューがスポーツ賭博に身を染めていたとNY地元紙が報道。しかもこの2年間は自らが裁いた試合にも金を賭け、得点操作を行なっていた。さらにドナヒューは、リーグ内の機密情報まで賭博組織に漏らしていたという。 つまり、過去2年間のNBAの歴史は、1人の悪漢審判によって多少なりとも書き換えられていた可能性が高いのだ。