その他スポーツ
中央競馬2次試験を2カ月後に控えた07年大晦日。鷹野は高知競馬で落馬負傷し左足くるぶしを骨折してしまう。本来ならば完治するのに3カ月はかかる重症だ。くるぶしは馬に騎乗する際、曲げ伸ばしをするため負担がかかりやすい。「これはまずい」。試験まで時間がない中、鷹野は焦りを感じた。
5月が自転車月間だというのはご存じだろうか? 残念ながらあまり認知されていないようだが、自転車普及協会を中心にそういうことになっており、さまざまなイベントが開催されていたりする。ちょうど今週は、大阪から東京にかけて1週間にわたって繰り広げられるツアーオブジャパンなども開催され、新聞などで目にする機会もあるだろう。いや、そうあって欲しい!?
騎手会長として精力的に高知競馬のPR活動をしていた鷹野に1つのニュースが飛び込んできたのは2003年10月のこと。そのニュースは、これまで考えたこともなかった中央競馬への道を意識させるものだった。兵庫・園田競馬所属の赤木高太郎騎手が中央競馬騎手試験の1次試験を突破したのだ。
ニューヨーク・ヤンキースが今年も出遅れている。 オフの間に華々しい大型補強を展開し、今季こそはハイレベルなア・リーグ東地区でも圧倒的な強さで突っ走ると予想した識者も多かった。しかし蓋を開けてみれば、5月13日の時点で16勝17敗と低迷。地区首位にすでに5.5ゲームの差をつけられ、(例によって)至上命令と位置づけられた王座奪還に早くも暗雲が漂っている。
中央と地方の間に大きな壁が存在した1994年、日本の競馬界を根本から変える1つの改革案が示された。「地方交流レースの創設」だ。各地区で中央競馬認定の競走を実施し、勝ち上がった馬は地方競馬所属のまま、中央のクラシックレースに挑戦することができるというものだった。この交流制度を世に知らしめたのは、岐阜県・笠松競馬場に所属していたライデンリーダー。『開放元年』と言われた95年、10戦10勝で地元のレースを勝ち抜き、中央競馬のクラシックレース第1弾・桜花賞(G?)への出走権をかけ、報知杯4歳牝馬特別(G?)に出走した。
季節はずれの豪雨が降りしきる中、レースは始まった。13番枠から好スタートから切った6番人気のドリームハッチは3番手につける。泥のかぶらない好ポジションを得て、抜群の手応えで4コーナーを回り直線を向く。ゴールまで残り200メートル。内をすくって伸びてきたのは1番人気のシーフォーアイだ。本命馬に一度交わされかけたドリームハッチは騎手の激しいアクションに応えて、シーフォーアイを差し返す。激しい叩きあいの末、ドリームハッチのハナが前に出たところがゴール。4月25日、東京競馬場第7レース。見事な勝負根性をみせたドリームハッチの鞍上にいたのは鷹野宏史。この勝利が鷹野にとって、中央競馬で4つ目の勝利となった。
昨季はレイカーズ対セルティックスという古豪同士がファイナルで対決して話題を呼んだNBAが、今季は「最強選手決定戦」実現の可能性に揺れている。 レイカーズのエースとしてすでに3度の優勝を経験したコービー・ブライアントは、2年連続のファイナル進出に向けて虎視眈々。一方で今季MVP獲得が確実なレブロン・ジェームスも、所属するキャブスを初のタイトルが狙える地点まで押し上げてきた。
愛媛時代、菅沼の印象に残っている試合がある。それが古巣・柏とのゲームだった。愛媛のオレンジのユニホームを身にまとい、初めて日立台のピッチに立つと、少し不思議な感覚がした。「試合になったら関係ないと思っていましたけど、やっぱり、みんな知った選手ばかりですからね」。柏の熱いサポーターからはブーイングを浴びせられると思っていたが、思いのほか、温かく迎えられた。「ブーイングもされないような選手なんだと、少し悔しかったですね」
「思い切りがいい。いいパフォーマンスをしていました。彼の持っている武器が出てくればと思っていました」 愛媛FC・望月一仁監督がJ2で戦うにあたり、真っ先に獲得に乗り出した選手――それが菅沼だった。望月にはユース時代の菅沼のプレーが鮮烈な印象として残っていたのだ。
4月14日、2009年の世界ボクシング界に重要な影響をもたらすであろう2つの記者会見がアメリカの東西で行なわれた。 まずロスアンジェルスでは、現代のボクシング界を支えて来た人気ボクサー、オスカー・デラホーヤが現役引退を表明。1992年のプロデヴュー以降続いた長い「ゴールデンボーイの時代」についに終止符を打った。
3月22日、東京都心を3万5千人の人が走り抜けた。途中から雨に見舞われたものの、走り終えた人たちは皆笑顔。「早くても遅くてもマラソンというのは楽しめる」ことをそれぞれが証明してくれていた。そして沿道の暖かい応援。以前にも増した声援は、「市民マラソンを観る」という文化が育ってきたことを感じずにはいられない。3回目を迎えて市民権を得た感のある東京マラソン。少々過熱気味なところもあるが振り返ってみよう。
菅沼は4歳からサッカーを始めた。「小学校の時からトップ下が多かったですね。中盤より前。今とほとんど変わりません」。点を獲ることが何より好きだった少年は、柏ジュニアユース、ユースとカテゴリーを上げるに従ってメキメキと力をつけた。ユースの1年目には早くもトップチームの練習に呼ばれるレベルになっていた。
今年のJリーグ開幕戦(3月7日)、川崎フロンターレ対柏レイソル。両クラブ無得点で迎えた後半5分、柏はカウンター攻撃でチャンスを迎える。一度はクリアされたものの、セカンドボールを拾ったFWポポが右サイド奥深くから、絶妙なクロスを上げる。ニアの位置からゴール前に飛び込んだのは背番号15、菅沼実だった。
第2回ワールド・ベースボール・クラシックは、日本が見事な2連覇を達成してめでたく終焉。その後、MLBのスター選手たちはすぐにそれぞれの所属チームに戻り「本番の戦い」に向けて準備を進めている。
1995年オフ、河野博文は一つの決断を下した。FA宣言をし、11年間着た日本ハムのユニホームを脱ぐことにしたのだ。移籍先は巨人だった。少年時代の河野が憧れ、夢見てきた「GIANTS」のユニホームに袖を通した河野は既に33歳。しかし、やはり感慨深いものがあった。当時、日本ハムの合宿所「勇翔寮」と練習グラウンドは現在の鎌ヶ谷ではなく、川崎市の多摩川沿いにあった。対岸には河野が少年時代から憧れを頂いていた巨人の選手寮とジャイアンツ球場があった。しかも日本ハムのホーム球場は後楽園(88年からは東京ドーム)だ。この環境で河野が巨人への憧れの気持ちを募らせていたとしても何ら不思議ではなかった。 「ぜひ、うちに来てほしい」 長嶋茂雄監督から言われたのはそれだけだった。しかし、河野にはそれで十分だった。1995年11月27日、河野は巨人と正式に契約を交わした。
1984年11月20日、運命の日がやってきた。 第20回新人選手選択会議。駒沢大学4年の河野博文は太田誠監督とともに、じっとモニターを見つめていた。会見場となった会議室には多くの報道陣が詰め掛けていた。実はこの時、河野の心は不安にかられていた。 「こんなにも大勢の人が自分の指名を信じて集まってきているというのに……。もし、指名されなかったらどうなるんだろう」 考えるだけで恐ろしかった。しかし、会議が始まってすぐにそれは杞憂に終わった。 「1巡目、日本ハムファイターズ、河野博文、22歳、駒沢大学」 ホッと一息つく暇もなく、一斉にカメラのフラッシュが襲いかかってきた。必死で眩しさをこらえながらも、河野は安堵の表情を浮かべていた。
【優勝争いの行方】 ひいき目を抜きにしても、大会前半では日本と韓国の安定した強さが際立っていた。そして宿敵同士の直接対決の2、3戦目を続けてものにした韓国が、決勝トーナメント開始時点で大会ベストチームであることに異論は少ないだろう。
このところ連日盛り上がるWBC(world baseball classic)。そんなに野球好きではない私でも、やはり日の丸をつけた日本代表が頑張っている姿をみるのは嬉しいし、気分が高揚してくる。こんな時には「僕も日本人だよなぁ」と強く感じたりして。
「ごっついやつやなぁ」 岡山の玉島商業高校から駒沢大学に進学した大倉孝一は、同じ1年生とは思えないその体に驚きを隠せなかった。 「彼と初めて会ったのは入学前の3月でした。野球部の練習に行ったら、ひときわ首のぶっといヤツがいたんですよ。背はそれほどないのに、いやにごつくてね。それが河野(博文)でした」 ひときわ異彩を放つ河野に、部員たちは「ウシ」という愛称をつけた。普通ならあまりいい気はしないものだが、河野は嫌な顔一つしなかったという。そんな温和な性格は今も昔も変わらない。
「明徳義塾高校」と言えば、周知の通り高知県内随一の甲子園常連校だ。創部以来、33年間で甲子園出場は春13回、夏11回を数える。2002年には悲願の全国制覇を成し遂げ、今や言わずも知れた野球名門校である。その同校野球部が弱小チームから甲子園を狙えるほどの強豪校へと生まれ変わる最初の第一歩となったのが、河野博文たち3期生の活躍であった。
第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)がいよいよ開幕。世界最高の野球国を決める決戦が近づくにつれて、国際試合好きなアジア諸国が盛り上がっているのはもちろん、アメリカのメディア上でも徐々にこの大会のニュースが扱われることが多くなってきた。このまま行けば、第1回よりも華やかでグレードアップしたトーナメントが期待できそうである。 そこで今回は、各国の主力メンバーを一通り目にしてきた筆者が、独断と偏見で最終予想を展開してみたい。日本の2連覇はなるのか? ラテン諸国からダークホースとして浮上するのは? そして、アメリカの逆襲の行方は?
「メークドラマ」――この言葉に懐かしさを憶える野球ファンは少なくないだろう。1996年10月6日、“ミスター”こと長嶋茂雄監督率いる巨人が、最大11.5ゲーム差もあったペナントレースを制した、あの大逆転劇である。その「メークドラマ」を語るのに欠かせないのがベテランリリーフ陣の活躍。その一人が“ゲンちゃん”という愛称で親しまれたサウスポー河野博文である。その年、FA権を行使し、日本ハムから移籍してきた河野はチーム最多の39試合に登板。6勝1敗3セーブを挙げ、川口和久らとともに先発投手を支える強力なリリーバーとして優勝に大きく貢献したのである。 その夜、プロ入り12年目にして初のビールかけに、河野はただただ嬉しさを爆発させ、酔いしれていた。今思えば、それが16年間の現役生活で最高の瞬間だった。
「とにかく観客の数がすごかった」と青野は振り返る。世界中のプロボーダーが出場を熱望するX-GAMES WINTER。青野がその大会に出場したのは昨年の1月、場所はアメリカ・コロラド州アスペンだった。W杯で世界中のゲレンデを転戦しているとはいえ、これまで経験した大会と、米国プロボーダー最高峰のそれとは全く雰囲気が違っていた。
現在のアメリカスポーツ界は、A−ロッドことアレックス・ロドリゲスのステロイド問題のニュース一色に染まっている感がある。 「スポーツ・イラストレイテッド」誌に過去の薬物使用をすっぱ抜かれたA—ロッドは、すぐに「ESPN」局で釈明インタヴューを敢行。さらに春季キャンプ地入りした2月17日には、約200人の報道陣を集めて合同記者会見を行なった。その席では「自分は若く愚かだった」と繰り返し語り、未熟さゆえの過ちだったことを強調。加熱する一方の論議と取材攻勢を、なんとか沈静化させようとする痛々しい姿勢が見受けられた。
大相撲初場所で見事な復活優勝を遂げた朝青龍。場所前は「引退勧告」さながらの報道でヒールイメージの彼も瀬戸際という雰囲気だった。武蔵川理事長をはじめ関係者も批判的なコメントを発し、「彼はもう終わり」という流れが本流だったが……。そんな中での優勝に彼自身も相当嬉しかったのか、勝った瞬間のガッツポーズ、その後のインタビューも終始笑顔。ヒールのはしゃぎぶりが少々可愛く見えたのは私だけであろうか。