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堂上が野球を諦めきれない理由――そこにはNPBを相手に互角に戦えているという自信がある。昨秋、アイランドリーグ選抜の一員として参加したフェニックスリーグ、堂上は東北楽天戦で2本の本塁打を放った。打った相手は青山浩二と一場靖弘。いずれも1軍で結果を残している投手だ。
5月はスポーツに最適な季節。そんなこともあってか、各地で自転車イベントが頻繁に開催されている。海外ではイタリアを1周する「ジロ・デ・イタリア」が開催され、世界のトップサイクリストが凌ぎを削っている。国内でもツアーオブジャパンが開催、1週間にわたって熱い戦いが繰り広げられているし、丸の内ではスプリントイベントが開催されたり、佐渡島や東京の荒川で大規模なサイクリングイベントが開催された。そう、5月は「自転車月間」なのだ。
堂上の強肩ぶりを物語るエピソードがある。高知ファイティングドッグスとの試合のことだ。1塁にリーグ盗塁王の経験もあるYAMASHIN(山本伸一)が出塁した。YAMASHINは、するするとリードをとって足場を固めている。「どこかで走ってくる」。マスク越しに堂上はランナーの気配を感じていた。
近年最高の盛り上がりをみせた今季のNBAもいよいよ大詰め――。 最終決戦プレーオフも後半に差し掛かり、ベスト4の座をかけた争いも佳境に入った。6月に行なわれるファイナルに向けて、強豪チームが連日凌ぎを削り、米スポーツファンをエキサイトさせ続けている。
「僕の野球人生にとって大きなポイントになりました」 それは6年前の春のことだった。大学3年生を迎える堂上に、転機とも言える出来事が訪れる。高知・春野で実施された西武の春季キャンプにアマチュア選手の代表として派遣されることが決まったのだ。
プロ卓球選手。 日本でたったひとりの肩書きである。 正式に言えばレジスタード・プロプレーヤー(認定プロ選手)。日本卓球協会が86年に競技者規定を設けて以来、初めてその適用を受けた。「日本では自分ひとりしかいないでしょう。だから使命感はありますよ。いい成績を残し、賞金を稼がなければ、後に続く人が出てこなくなる。卓球のステータスを上げるためにも、自分が頑張らなければいけない」 きりっとした口調で、松下浩二は言った。
体操の北京五輪代表決定競技会を兼ねたNHK杯最終日は5月5〜6日、岡山市の桃太郎アリーナで男女個人総合計2回を行い、アテネ五輪の体操男子団体総合金メダルメンバーの冨田洋之(セントラルスポーツ)が4月の第2次選考会の持ち点と合わせ合計274.400点を出し、2年ぶり4度目の優勝を果たし、2大会連続の五輪代表に決定した。
今季から九州2球団が加わり、6球団制となった四国・九州アイランドリーグ。4年目を迎え、リーグを経由した選手たちの活躍が目立ってきている。まず4月16日、高知ファイティングドッグスから千葉ロッテに入団した角中勝也がNPBで初本塁打を放った。5月2日には徳島インディゴソックスに在籍経験をもつ北海道日本ハム・多田野数人が初先発で初勝利を飾った。
「ゴールデンボーイ」オスカー・デラホーヤにとって、昨年5月のフロイド・メイウェザー戦以来となる試合、そして引退までのカウントダウン第1弾となるビッグイベントが今週末に迫っている。
「あの打席が自信になりました」 ちょうど1年前、2007年4月29日のことだった。檜垣は高知と愛媛の連合チームの一員として、福岡ソフトバンク2軍との交流試合に出場した。ソフトバンクの先発投手はその年の希望枠ルーキー、左腕の大隣憲司。ケガで出遅れ、“プロ初登板”となるマウンドだった。
檜垣には忘れられない2つの出来事がある。ひとつは高校3年生の夏、そしてもうひとつは大学4年生の秋のことだ。今治西高時代、檜垣は2年時からサードのレギュラーを取り、長打力を武器に中軸を任されていた。迎えた最後の夏、今治西は21年ぶりの甲子園を目指して県予選に臨んだ。
かつての熱気を失ったと言われるヤンキース対レッドソックスのライバル対決だが、依然としてアリーグ東地区の行方を占う上で重要なカードであることは間違いない。今季もこの両者のうちのどちらか、あるいは両方がプレーオフに駒を進めてくることは確実だろう。 近年以上に実力伯仲の戦いが続くと目される今季は、いったいどちらの力が上なのか。今回は、投手力、攻撃力、守備力の三部に分けて、両チームの戦力を具体的に直接比較していきたい。
サイクルロードレースというのはチームスポーツだ。 優勝するのは個人で、表彰されるのも個人。一見したところ個人競技に思われるのだが、その戦略は複雑で、あくまでもチームとしての力が勝負を大きく左右する。この仕組みが分かるとサイクルロードレースの面白さがぐっと深まるのだ。
四国・九州アイランドリーグが開幕して約1週間。今季から6球団にリーグが拡張され、約150名の選手たちが白球を追っている。悲願の初優勝を狙う愛媛マンダリンパイレーツにも夢にチャレンジする地元プレーヤーがいた。ショートを守る檜垣浩太だ。昨シーズン、育成選手から這い上がり、一気にリーグ屈指の左バッターに躍り出た。今季はチームの優勝と自身のNPB入りを目標に掲げる23歳に、二宮清純が迫った。
四国・九州アイランドリーグが5日、開幕した。今季から6球団にリーグが拡張され、約150名の選手たちが白球を追っている。悲願の初優勝を狙う愛媛マンダリンパイレーツにも夢にチャレンジする地元プレーヤーがいた。ショートを守る檜垣浩太だ。昨シーズン、育成選手から這い上がり、一気にリーグ屈指の左バッターに躍り出た。今季はチームの優勝と自身のNPB入りを目標に掲げる23歳に、二宮清純が迫った。
3月31日(現地時間)に予定されたヤンキースの開幕戦はあいにくの雨で順延。仕切り直しで迎えた翌4月1日のゲームは、追いつ追われつのシーソーゲームとなった――。
法政大学は小松剛が神宮デビューし、優勝投手となった2006年春以来、3季連続で優勝を逃している。小松自身の成績は06年秋1勝4敗、07年春2勝3敗、07年秋2勝2敗。06年春は1点台だった防御率はいずれも3点台と満足のいく成績を残すことができていない。 「もう一度、優勝したい」 最終学年を迎える小松に残されたチャンスはあと2回だ。
2003年7月、3年生が引退し、いよいよ小松剛たちが最終学年となった。当時の室戸高校野球部は春は3年連続準優勝するなど、着実に実力をつけていたが、甲子園への切符をつかむまでにはいたっていなかった。室戸の前にはいつも“高知3強”の分厚い壁が立ちはだかった。私立の強豪校、高知、高知商業、明徳義塾である。
ボストン・レッドソックスの日本開幕戦が間近に近づいている。 ジョシュ・ベケットの不参加という残念なニュースはあったものの、おかげで松坂大輔が開幕投手の栄誉を授かることになった。日本のヒーローの凱旋登板が華やかな舞台で実現するという意味で、今年の開幕シリーズは日米両球界にとって歴史的なイベントといえるのかもしれない。 しかも、ワールドシリーズを制したチームがその翌年に公式戦のために来日するのはこれが初めて。現在メジャーの最高峰にいるチームのプレーが目の前で見られるというのは日本のファンにとって貴重な機会である。 特に今のレッドソックスは、MLBに新時代を築いていく予感さえ感じさせるチームなのだから、なおさらだ。
3月15日、有明コロシアムは久しぶりに満員の人を飲み込んでいた。 近年、テニス人口が減っている訳ではないのだが、人を呼べる選手が少なくなったのが原因なのか、「ここまで人が入ったのは久しぶりだ」と関係者が喜んでいた。 その有明コロシアムのコートでは3人のアスリートが光を浴びていた。ステフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、伊達公子。80〜90年代を沸かせた往年のスーパープレイヤー達だ。彼女達見たさで集まった人々の興奮感は客席でも十分に感じる事が出来た。
2007年春、甲子園に“室戸旋風”が吹き荒れた。第79回全国選抜高校野球大会、春夏通じて初出場の高知県立室戸高校が強豪の報徳学園(兵庫)、宇部商業(山口)を下し、堂々の8強入りを果たした。そして迎えた準々決勝の熊本工業戦。結果的に負けはしたものの、最終回には3連打の猛攻で2点を奪い、2点差まで追い詰めるなど、室戸は最後まで粘り強さを見せた。数多くの高校野球ファンが彼らの快進撃に目を丸くした。そして、どんな場面でも笑顔を絶やさず、楽しげにプレーする室戸ナインに釘付けとなった。 その2年前、同校を卒業した小松剛は、母校の活躍をテレビで観ていた。後輩たちの勇姿に感動し、OBとして嬉しさがこみ上げたという。そんな彼にもまた、甲子園を目指して汗を流した時代があった。
小松剛は小さい頃から体を動かして遊ぶことが大好きだった。もちろん体育も得意で、運動能力に長けた少年だった。だが、これといって好きなスポーツがあるわけではなく、野球も決してその例外ではなかった。 そんな小松が野球と出合ったのは小学3年生の時。高知市から室戸市の小学校に転校したのがきっかけだった。
2月中旬にルイジアナ州のニューオリンズで行なわれた今年のNBAオールスターゲームは、予想された以上の素晴らしい盛り上がりをみせた。 まずは土曜日のスラムダンク・コンテストで、新鋭ドワイト・ハワードが渾身の大技を連発して新王者に就任。さらに日曜日のオールスター本戦でも、ワンサイドゲームに終わりがちな例年とは一線を画す熱戦が展開されて満員の観客を熱狂させた。
2006年4月9日。 東京六大学春季リーグ戦第1週。 法政大学対東京大学2回戦。 法大2年の小松剛は初めて学生野球の聖地・神宮球場のマウンドに立っていた。彼にとっては記念すべきデビュー戦。だが、不思議と緊張感はなかった。ただあったのは「神宮で投げられる」という喜びだけだった。
2004年10月、ノブに大きな転機が訪れる。99年の渡蘭からちょうど5年。日本に拠点を移したノブは自らの意向でドージョーチャクリキの初の支部であるチャクリキ・ジャパンの館長に就任したのだ。その時から、現役格闘家としてジムでトレーニングを積みつつ、後進の指導にあたる生活が始まった。