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4月14日、2009年の世界ボクシング界に重要な影響をもたらすであろう2つの記者会見がアメリカの東西で行なわれた。 まずロスアンジェルスでは、現代のボクシング界を支えて来た人気ボクサー、オスカー・デラホーヤが現役引退を表明。1992年のプロデヴュー以降続いた長い「ゴールデンボーイの時代」についに終止符を打った。
3月22日、東京都心を3万5千人の人が走り抜けた。途中から雨に見舞われたものの、走り終えた人たちは皆笑顔。「早くても遅くてもマラソンというのは楽しめる」ことをそれぞれが証明してくれていた。そして沿道の暖かい応援。以前にも増した声援は、「市民マラソンを観る」という文化が育ってきたことを感じずにはいられない。3回目を迎えて市民権を得た感のある東京マラソン。少々過熱気味なところもあるが振り返ってみよう。
菅沼は4歳からサッカーを始めた。「小学校の時からトップ下が多かったですね。中盤より前。今とほとんど変わりません」。点を獲ることが何より好きだった少年は、柏ジュニアユース、ユースとカテゴリーを上げるに従ってメキメキと力をつけた。ユースの1年目には早くもトップチームの練習に呼ばれるレベルになっていた。
今年のJリーグ開幕戦(3月7日)、川崎フロンターレ対柏レイソル。両クラブ無得点で迎えた後半5分、柏はカウンター攻撃でチャンスを迎える。一度はクリアされたものの、セカンドボールを拾ったFWポポが右サイド奥深くから、絶妙なクロスを上げる。ニアの位置からゴール前に飛び込んだのは背番号15、菅沼実だった。
第2回ワールド・ベースボール・クラシックは、日本が見事な2連覇を達成してめでたく終焉。その後、MLBのスター選手たちはすぐにそれぞれの所属チームに戻り「本番の戦い」に向けて準備を進めている。
1995年オフ、河野博文は一つの決断を下した。FA宣言をし、11年間着た日本ハムのユニホームを脱ぐことにしたのだ。移籍先は巨人だった。少年時代の河野が憧れ、夢見てきた「GIANTS」のユニホームに袖を通した河野は既に33歳。しかし、やはり感慨深いものがあった。当時、日本ハムの合宿所「勇翔寮」と練習グラウンドは現在の鎌ヶ谷ではなく、川崎市の多摩川沿いにあった。対岸には河野が少年時代から憧れを頂いていた巨人の選手寮とジャイアンツ球場があった。しかも日本ハムのホーム球場は後楽園(88年からは東京ドーム)だ。この環境で河野が巨人への憧れの気持ちを募らせていたとしても何ら不思議ではなかった。 「ぜひ、うちに来てほしい」 長嶋茂雄監督から言われたのはそれだけだった。しかし、河野にはそれで十分だった。1995年11月27日、河野は巨人と正式に契約を交わした。
1984年11月20日、運命の日がやってきた。 第20回新人選手選択会議。駒沢大学4年の河野博文は太田誠監督とともに、じっとモニターを見つめていた。会見場となった会議室には多くの報道陣が詰め掛けていた。実はこの時、河野の心は不安にかられていた。 「こんなにも大勢の人が自分の指名を信じて集まってきているというのに……。もし、指名されなかったらどうなるんだろう」 考えるだけで恐ろしかった。しかし、会議が始まってすぐにそれは杞憂に終わった。 「1巡目、日本ハムファイターズ、河野博文、22歳、駒沢大学」 ホッと一息つく暇もなく、一斉にカメラのフラッシュが襲いかかってきた。必死で眩しさをこらえながらも、河野は安堵の表情を浮かべていた。
【優勝争いの行方】 ひいき目を抜きにしても、大会前半では日本と韓国の安定した強さが際立っていた。そして宿敵同士の直接対決の2、3戦目を続けてものにした韓国が、決勝トーナメント開始時点で大会ベストチームであることに異論は少ないだろう。
このところ連日盛り上がるWBC(world baseball classic)。そんなに野球好きではない私でも、やはり日の丸をつけた日本代表が頑張っている姿をみるのは嬉しいし、気分が高揚してくる。こんな時には「僕も日本人だよなぁ」と強く感じたりして。
「ごっついやつやなぁ」 岡山の玉島商業高校から駒沢大学に進学した大倉孝一は、同じ1年生とは思えないその体に驚きを隠せなかった。 「彼と初めて会ったのは入学前の3月でした。野球部の練習に行ったら、ひときわ首のぶっといヤツがいたんですよ。背はそれほどないのに、いやにごつくてね。それが河野(博文)でした」 ひときわ異彩を放つ河野に、部員たちは「ウシ」という愛称をつけた。普通ならあまりいい気はしないものだが、河野は嫌な顔一つしなかったという。そんな温和な性格は今も昔も変わらない。
「明徳義塾高校」と言えば、周知の通り高知県内随一の甲子園常連校だ。創部以来、33年間で甲子園出場は春13回、夏11回を数える。2002年には悲願の全国制覇を成し遂げ、今や言わずも知れた野球名門校である。その同校野球部が弱小チームから甲子園を狙えるほどの強豪校へと生まれ変わる最初の第一歩となったのが、河野博文たち3期生の活躍であった。
第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)がいよいよ開幕。世界最高の野球国を決める決戦が近づくにつれて、国際試合好きなアジア諸国が盛り上がっているのはもちろん、アメリカのメディア上でも徐々にこの大会のニュースが扱われることが多くなってきた。このまま行けば、第1回よりも華やかでグレードアップしたトーナメントが期待できそうである。 そこで今回は、各国の主力メンバーを一通り目にしてきた筆者が、独断と偏見で最終予想を展開してみたい。日本の2連覇はなるのか? ラテン諸国からダークホースとして浮上するのは? そして、アメリカの逆襲の行方は?
「メークドラマ」――この言葉に懐かしさを憶える野球ファンは少なくないだろう。1996年10月6日、“ミスター”こと長嶋茂雄監督率いる巨人が、最大11.5ゲーム差もあったペナントレースを制した、あの大逆転劇である。その「メークドラマ」を語るのに欠かせないのがベテランリリーフ陣の活躍。その一人が“ゲンちゃん”という愛称で親しまれたサウスポー河野博文である。その年、FA権を行使し、日本ハムから移籍してきた河野はチーム最多の39試合に登板。6勝1敗3セーブを挙げ、川口和久らとともに先発投手を支える強力なリリーバーとして優勝に大きく貢献したのである。 その夜、プロ入り12年目にして初のビールかけに、河野はただただ嬉しさを爆発させ、酔いしれていた。今思えば、それが16年間の現役生活で最高の瞬間だった。
「とにかく観客の数がすごかった」と青野は振り返る。世界中のプロボーダーが出場を熱望するX-GAMES WINTER。青野がその大会に出場したのは昨年の1月、場所はアメリカ・コロラド州アスペンだった。W杯で世界中のゲレンデを転戦しているとはいえ、これまで経験した大会と、米国プロボーダー最高峰のそれとは全く雰囲気が違っていた。
現在のアメリカスポーツ界は、A−ロッドことアレックス・ロドリゲスのステロイド問題のニュース一色に染まっている感がある。 「スポーツ・イラストレイテッド」誌に過去の薬物使用をすっぱ抜かれたA—ロッドは、すぐに「ESPN」局で釈明インタヴューを敢行。さらに春季キャンプ地入りした2月17日には、約200人の報道陣を集めて合同記者会見を行なった。その席では「自分は若く愚かだった」と繰り返し語り、未熟さゆえの過ちだったことを強調。加熱する一方の論議と取材攻勢を、なんとか沈静化させようとする痛々しい姿勢が見受けられた。
大相撲初場所で見事な復活優勝を遂げた朝青龍。場所前は「引退勧告」さながらの報道でヒールイメージの彼も瀬戸際という雰囲気だった。武蔵川理事長をはじめ関係者も批判的なコメントを発し、「彼はもう終わり」という流れが本流だったが……。そんな中での優勝に彼自身も相当嬉しかったのか、勝った瞬間のガッツポーズ、その後のインタビューも終始笑顔。ヒールのはしゃぎぶりが少々可愛く見えたのは私だけであろうか。
06−07シーズンは青野にとって、世界への扉が大きく開けた1年だった。その名前が日本のみならず、世界に知られるようになったのは07年2月、W杯第4戦富良野大会だった。 「最初は2月のW杯には期待をしていなかったんです」。父・伸之はそう証言する。「直前にスイスで行われた世界選手権ではボロボロの成績だった(65位)。ですから、富良野の大会でもダメだろうと思っていました。しかし、大会直前の練習を見ていて、すごく出来がよかった。素直にすごい滑りだと感じた。この出来だったら、予選の壁を突破して、決勝に残ることができると思いましたね」
9歳で出会ったスノーボードの魅力にとりつかれ、18歳で世界選手権を制した青野令。略歴だけをみると、あたかも天才少年として注目を集めていたように思われるが、実際はそうではなかった。競技を始めた小学生から中学校へ上がったばかりの頃は同年代の選手と争う大会に出場しても、なかなか結果を残すことができなかった。
大会の開催国、発案国でありながら、アメリカ代表は第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では第2ラウンドで敗退した。 間近に迫った第2回大会は、その雪辱を晴らすための舞台。王国の威厳奪還に向けて米国内は盛り上がっているかと思えば……
日本人選手として初めてスノーボードで世界チャンピオンになった18歳がいる。1月23日、韓国・江原で行われた世界選手権、ハーフパイプ決勝。青野令は1回目から抜群の滑りをみせた。難易度の高い横3回転のエアを確実に決め、45.5点の高得点を叩き出す。このポイントを誰も上回ることができず、2回目の滑りを待たずに優勝を決めた。さらに2回目には横3回転を連続で決め、自身の得点を47.3にまで伸ばす圧勝だった。16歳でW杯年間王者、そして18歳で世界選手権金メダリスト。来年2月に開催されるバンクーバー五輪でもメダル獲得が期待されている。そんな青野はウインタースポーツからは程遠い場所にありそうな愛媛県育ちの高校3年生だ。
「練習でワンツー、フックが打てても、試合ではワンツーまでしか打てないということがある。そういうところを自分の中でいろんな部分で感じています。また、僕は勝つなら勝つ、負けるなら負けるの試合しかやっていない。ガチガチの接戦になった時に自分が粘って、判定で勝ちをひろえるかどうか。そういう部分は試合でしかわからない。どこまで自分の気持ちが続くかということを確認したいですね」
2008年5月末、K-1はヘビー級、ミドル級に続く3つ目のカテゴリーとしてライト級(60キロ以下)の創設を発表し、7月に日本武道館で開催される「K−1WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL8」のアンダーカードとしてライト級を3試合組むことを決めた。その舞台に抜擢されたのが、WPKC世界ムエタイライト級王座を獲得した大月晴明(AJKF)、魔裟斗の盟友・大宮司進(シルバーウルフ)、そして上松大輔だった。
東京体育館で行われた卓球全日本選手権は18日に最終日を迎え、男子シングルス決勝で水谷隼(明治大学)が松平健太(青森山田高校)を4−1で下し、男子ダブルスとあわせ2つのタイトルを手に入れた。ダブルス、シングルスともに3年連続優勝の快挙を達成した。女子シングルスは平野早矢香(ミキハウス)が準決勝で福原愛(ANA)を下した王輝(日立化成)を破り、自身5度目の全日本優勝を果たした。
東京体育館で行われている卓球全日本選手権は17日、男女ダブルスの決勝が行われ、女子は平野早矢香(ミキハウス)、石川佳純(ミキハウスJSC)組が昨年優勝の福原愛(ANA)、照井萌美(早稲田大学)組を破り初優勝。男子は水谷隼(明治大学)、岸川聖也(スヴェンソン)組が大会3連覇を飾った。また男子シングルス5回戦に登場した松下浩二(グランプリ大阪)は上田仁(青森山田高校)に3−4で敗れ、長年日本卓球界のパイオニアとして活躍してきた現役生活に幕を下した。
13日から東京体育館で行われている卓球全日本選手権は16日、男女ともにシード選手が登場する4回戦が行われた。女子では5度目の全日本制覇を狙う平野早矢香(ミキハウス)や初優勝を狙う福原愛(ANA)が順当勝ち、男子では日本ランキング1位で連覇を目指す水谷隼(明治大学)は苦しみながらも初戦を突破した。また、今大会で引退を表明している松下浩二(グランプリ大阪)も田中雄仁(東京アート)を4−1で下し5回戦に進出した。