昨季はセットアッパーの重要性が再確認されたシーズンだった。 セ・リーグでは中日の浅尾拓也が79試合に登板し、7勝2敗10セーブ、45ホールドという好成績をあげ、MVPに輝いた。長い歴史を誇る日本プロ野球(NPB)で、セットアッパーがMVPに選ばれたのは、これが初めてのことだった。 パ・リーグのセットアッパーで最も目立ったのは日本一になった福岡ソフトバンクのサウスポー森福允彦だ。60試合に登板し、4勝2敗1セーブ、34ホールドという数字を残した。
ロンドン五輪まで4カ月。当コーナーでは、8月まで五輪特別編と題し、過去の大会の名シーンや印象に残る選手を振り返っていきます。 今回は、アテネ五輪を直前に控えたボード男子軽量級ダブルスカル代表の武田大作・浦和重ペアを取り上げた8年前の原稿を紹介します。 両選手は、4月6日にアジア選手権に出場する日本代表選考会でもペアを組みます。今回のレースは、昨年の代表選考の方法に問題があったため、武田・浦組と、一時は代表に内定していた須田貴浩・西村光生組の2ペアによる直接対決で代表を決定します。武田・浦組が代表に選ばれれば、同26日から開催されるアジア選手権で、武田は5度目、浦は3度目の五輪切符を懸けて戦います。
NPBが「試合時間3時間以内(9回)」を目標に掲げたのは2009年のレギュラーシーズンが始まる前のことだ。その前年には<野球の力で温暖化ストップ!>と随分、肩に力の入ったキャッチフレーズを作った。
テキサス・レンジャーズのキャンプ地・アリゾナ州サプライズで、ダルビッシュ・フィーバーが起こっているという。現地の関係者によれば、「キャンプ地ではヒデオ・ノモがやってきて以来の騒動だ」とか。
誰を選ぶかも大事だが、選んだ選手をどう管理し、最高のコンディションでロンドンを走らせるか。こちらの方がもっと重要ではないか。そして、それこそが北京の教訓だろう。
パ・リーグが導入しているからといって、セ・リーグも“右へ倣え”する必要はあるまい。DH制だって、導入しているパ・リーグ、導入していないセ・リーグ、それぞれの野球に違いがあるから面白いのではないか。
女子マラソンのロンドン五輪への切符をかけた戦いは最終章を迎えた。11日、最後の日本代表選考レースとなる名古屋ウィメンズが開催される。ラストチャンスを掴むべく多くの実力者たちがエントリーした。アテネ五輪金メダリストで日本記録保持者の野口みずき、前日本記録保持者の渋井陽子、2011年世界選手権5位の赤羽有紀子、09年の世界選手権銀メダルの尾崎好美らトップランナーたちが尾張の地で雌雄を決する。今回のレースでは日本人最上位に入ること、そして先に行なわれた大阪国際で優勝を果たした重友利佐の2時間23分23秒というタイムを上回ることが代表入りのひとつの基準となるだろう。 優勝候補のひとり、尾崎の五輪に向けた物語を、2年前の原稿で振り返る。
とにかく投げっぷりがいい。マウンドに立つと5尺7寸程度(172センチ)の体が一回りも二回りも大きく見える。25日の広島とのオープン戦でも、危険球で初回退場となった「大型左腕」川原弘之の後を受けて緊急登板し、涼しい顔で2回を1安打無失点に封じた。福岡ソフトバンクの「小型左腕」嘉弥真新也のことだ。昨年のドラフトで5位指名を受け、社会人野球のJX-ENEOSから入団した。マウンド度胸もいい。スリークォーターとサイドハンドを使い分け、多彩な変化球で打者を手玉に取る。
「やっぱりセ・リーグは巨人で決まりでしょうね」 キャンプ地で顔を合わせた評論家に今季の順位を予想してもらうと、皆、異口同音にそう答えた。 ただし苦笑を浮かべて、こう続けることも忘れなかった。 「そりゃ、あれだけ補強すれば勝てるでしょう」
劇画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈が「真っ白に燃え尽きた」最後の相手はホセ・メンドーサというメキシコ人だった。現実のボクシングの世界に目を移しても、かつては世界タイトルマッチの相手がメキシコ人と聞いただけで背筋が寒くなったものだ。
「31」という背番号を見ていると、若かりし頃の掛布雅之(元阪神)を思い出す。しかし、掛布がドラフト6位の“雑草”だったのに対し、これから紹介する中日の高橋周平はドラフト1位のエリート。昨年のドラフト会議ではオリックス、東京ヤクルトを加えた3球団が1位指名し、中日が当たりクジを引き当てた。 ちなみに甲子園出場経験のない高校生野手がドラフト1位で3球団から指名を受けたのは史上初めてのことだ。
海の向こうでは朝青龍の父親ドルゴスレン氏が次のように協会を批判した。 「いろんな情報を聞いたがウソばっかりだ。母国に来て子どもたちとサッカーをしたからといって、こんなに厳しい処分を下すことはない。私は自分の息子が精神的な病気になったなんて信じられない。相撲協会はモンゴル人力士を抑圧していると思う」 私見を述べれば事件のタネを蒔いたの朝青龍であり、ペナルティは当然だ。一部に“綱の品格を問題視する声もあるが、今回に限っては品格の問題ではない。公人が“仮病”を使って、公務をサボった、その一点に絞って朝青龍は裁かれるべきだ。職場放棄は動かしようのない事実である。
大関・把瑠都のようにケタはずれの突進力があるにもかかわらず、立ち合いでヒョイと体をかわすのは、どこか姑息で横綱を目指す上でいかがなものかという気もするが、だからといって立ち合いでの変化を全て否定するつもりはない。
球春が到来した。キャンプがスタートしたばかりのこの時期、眉間にシワを寄せたり、渋面をつくっている監督はまずいない。 ところが、あと1週間もたつと険しい表情の監督が増えてくる。理想と現実のギャップを思い知るのだ。こうした傾向は新監督に、より顕著である。
ベースボールを題材にした数ある映画の中で、最も好きなのはケビン・コスナー主演の「さよならゲーム」である。ベテラン捕手と若手投手と妖艶な女性が織りなすスリリングでユーモラスな三角関係。舞台がマイナーリーグだけに、どこか切なく、ほろ苦く、人間臭い。メジャーリーグを扱った映画では、こうはいかない。
レンジャーズに入団したダルビッシュ有の昨季の成績は18勝6敗。単純計算だが、ダルビッシュが抜けたことで北海道日本ハムは12の貯金が失われたことになる。 新監督の栗山英樹は「ダルビッシュの穴を埋めようとはしない。今いるメンバーでどれだけ勝ち星をとれるか」と語っていた。 大黒柱の抜けた穴は全員でカバーするしかあるまい。投手陣のレベルアップはもちろんだが、打撃面からのバックアップも求められる。
日本相撲協会の人材不足が露呈したと言えるだろう。1月30日の役員改選により、北の湖親方(元横綱)が再び理事長に就任することが決まった。一度、その座を降りた理事長が復帰するのは協会史上初めてだ。北の湖理事長は現役時代、史上最年少(21歳2カ月)での横綱昇進を果たし、歴代4位の24度の優勝回数を誇るなど、力士としての実績は申し分ない。しかし、組織の長としての資質があったとは言い難いのが実情だ。前理事長時代の07年には力士暴行死事件が起き、責任を問われたが、自らリーダーシップをとることもなく、かといって職から退くこともなかった。角界では不祥事が相次ぎ、翌年、弟子の大麻問題が発覚。責任をとって辞任に追い込まれた。 北の湖理事長の統治能力不足の一端を、07年の原稿で振り返り、再登板に物言いをつけたい。
国内で18のゴルフ場を運営する太平洋クラブとその子会社が東京地裁に民事再生手続きの開始を申請したというニュースを一抹の寂しさとともに聞いた。
野球殿堂入りを果たした元広島の北別府学は鹿児島県末吉町(現・曽於市)の出身である。高校(宮崎県立都城農)までの20数キロの道のりを、毎日、自転車で通っていた。
6日後の1月31日は“東洋の巨人”としてマット界に君臨したジャイアント馬場(本名・馬場正平)さんの13回目の命日だ。もし馬場さんが生きていたらおとといで74歳になっていた。
2リーグ制になって以降、セ・リーグでV3以上を達成した球団は巨人だけである。(65年〜73年V9、55年〜59年V5、51年〜53年と07年〜09年V3)。阪神と横浜は連覇もない。 そんななか、今季、V3に挑むのが中日である。新監督の高木守道は「大きな目標である3連覇を成し遂げたい」と明言している。
野球殿堂入りを果たした213勝投手・北別府学(元広島)の後年の最大の武器は「インスラ」だった。右バッターのインコースへのスライダー。バッターが腰を引いた時点で勝負ありだった。江川卓や小松辰雄のような空振りをとれるスピードボールを持たない北別府にとって、この「インスラ」の精度こそはピッチングの生命線だった。
宣銅烈(ソン・ドンヨル)といえば1990年代後半に日本で活躍した元中日のクローザーだ。 97年38セーブ、98年29セーブ。99年には28セーブをあげ、11年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
昨年12月28日、“マムシ”の異名をとったプロゴルファーの杉原輝雄が前立腺ガンのため、死去した。74歳だった。プロ通算63勝を誇る杉原の体に、ガンが発見されたのは97年。しかし、杉原は諦めなかった。ゴルフへの影響を考慮し、手術はせず、ホルモン投与で病と闘った。加えて、過酷な筋力トレーニングで体を鍛え上げた。その結果、06年つるやオープンで最年長予選通過世界記録(68歳10カ月)を樹立、10年には中日クラウンズに参戦し、同一大会51年連続出場の世界記録を更新した。その偉業を称え、日本プロゴルフ殿堂入りも検討されているという。 病魔と闘い続けた“マムシ”の勝負根性を、06年の原稿で振り返ろう。
名言が飛び出したのは北京五輪3位決定戦前のミーティングの場だった。つまり2008年夏のことだ。銅メダルをかけた試合への思いを、先輩から順に口にしていった。程なくして29歳(当時)の澤穂希にスピーチの出番が回ってきた。「ここまで来て、もう何も言うことはありません」。シャイな澤らしい第一声だった。しかし、いつもとはここからが違った。「苦しいのは皆一緒。もし苦しくなったら私の背中を見て。そして、私と一緒に頑張ろうよ」