カープ創設1年目のシーズン中に、二軍選手が一斉に大量解雇となったことは、前回でお伝えした。資金が回らない球団にあって、試合に出場しない選手を大量に抱えておくことはできなかったのだ。先の見えない球団運営にあっ […]
カープ球団創設の昭和25年は、出だしでつまずいたものの、鯉昇りの季節から6月を勝ち越した。それも、この年の首位争いをしている松竹、中日、巨人を相手に戦い、勝ち星を納めていくのである。寄せ集めとされた戦力のカ […]
ここ何回かのカープの考古学では、カープが創設された最初のシーズンにおいて、わずか3カ月であるが、躍進する時期があったことをお伝えしてきた。 確かな試合運びで、上位チームとの対戦にもひけをとらず、勝ち星をもぎとっていくの […]
カープ創設の昭和25年、この最初のシーズンは苦労が絶えなかった。しかし、石本秀一監督は、シーズン中でもチーム浮上のきっかけつかむため、選手補強の手を緩めてはいなかった。いついかなるときにも、勝つことへの野心 […]
カープ球団が創設された最初のシーズン(昭和25年)、チームはなかなか勝ち星に恵まれず負け続ける中で、下を向かずに孤軍奮闘していたのが投手・長谷川良平だった。打てない、守れないカープの中で、4月27日の西日本パイレーツ戦 […]
カープ創設初年度はなかなか勝てなかった。白石勝巳がチーム初のホームランを福山市三菱球場で放ったものの、試合は力及ばす惜敗した。また初の満塁ホームランは前回に記したように阪田清春が甲子園球場で記録した満塁"ランニング"ホ […]
広島カープの草創期は、どたばた続きであった。球団経営の主体となる親会社もなく、広島県をはじめとし、県下の五市が主体となって出資するという形態から、手さぐり状態の経営で、右往左往するばかり。さらに他球団と比べ、選手の力の […]
カープ球団が創設されて初の公式戦、西日本パイレーツ戦は福岡市の平和台球場で行われ、リードしていながらの逆転負けを食らった。続いて第2戦の国鉄スワローズ戦もあと一歩及ばず、1点差負け。さらに、第3戦は、強風のために試合が […]
今年で創設71年目、広島カープの歴史の起点は昭和25年である。戦後復興期真っただ中にあって、ないない尽くしの広島県民・市民の心を満たしたものは新球団カープであった。戦後の歩みを進める県民の唯一の心のともし火であり、原爆 […]
カープ創設初シーズンとなる昭和25年のこと。開幕戦に向け、カープ打撃陣は好調と見られていた。前回も述べたように紅白戦はいつも派手な打撃戦となり、ファンも喜ぶばかりであった。しかし、実情は少しばかり違っていた。  […]
カープ草創期の広島にはアメリカをはじめ、さまざまな国から支援物資など、復興への思いを込めた援助があらゆる形で寄せられていた。このことは前回までで述べてきた。こうした復興へ歩みを進める中、カープはチームの体制を整え、昭和 […]
シリーズでお伝えしてきた「カープ誕生における世界情勢編」。前回はオールドアメリカの音楽界をけん引した歌姫ヘレン・トロウベルから贈られたバラの花のことを記したが、この取材で数多くの資料にあたる中、筆者は平和公園に植えられ […]
カープの誕生する時代背景と世界とのつながりについて述べてきたこのシリーズも3回目の今回で締めくくりとなる。 被爆直後の広島において医学博士のマルセル・ジュノーがアメリカを動かし、医薬品を被爆者のために届けた(カープの考 […]
広島カープの誕生が原爆からの復興に励む県民や市民の精神的な支えとなったことは、これまでに幾度も述べてきた。当時の広島は食糧事情は最悪で、闇市での利権争いや血なまぐさい事件なども続いていた。当然ながら住む場所にも不自由し […]
広島カープという一地方に誕生したプロ野球チームは、広島が原爆によって廃墟となったことから、その復興のためにつくられたことは、この連載で幾度が述べてきた。今回からはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策が進む […]
プロ野球が2リーグとなり、セントラルリーグへの加盟が決まりながらも、新球団のカープは選手集めに苦労していた。それは資金難によるところが大きいのは、前回までで述べてきた。この時、球団に唯一あったものは、戦前から中等野球、 […]
カープが選手集めに苦労したのは、原爆から立ち直る復興期に、カープを単独で支える企業が広島に存在しなかったことが大きい。いわゆる資金難であった。ならば県民待望のプロ野球チームの設立はどうしたのか……ということになるのだが […]
誕生して間もないカープが幾多の存続の危機に立たされることがあっても、初代エースの長谷川良平は決して逃げることなく、「勝つ」ことだけを使命としてマウンドを守り続けた。ときには自らのバッティングと俊足を生かして、ダイヤモン […]
広島カープが結成され、プロ野球セ・パ2リーグ元年となる昭和25年。チーム数が既存の8チームから15チームに膨れあがるとあって、プロ野球選手は引く手あまたで、24年オフ、球界は大混乱と化した。あっちからも来てくれ、こっち […]
昭和25年1月、広島にカープの誕生が広く伝えられ、広島の町はこの話題で持ち切りだった。その喧騒を横目に初代監督の石本秀一は選手集めに奔走し、その中で白石敏男(後に勝巳)という大スターを巨人から譲り受けることに成功した。 […]
昭和24年の年末のことだ。広島カープ最初のシーズンに入る前にファンに朗報が届いた。巨人軍の主力選手であり、逆シングルの名手・白石敏男(のちに勝巳)がカープに移籍するというのだ。カープ誕生前夜ともいえる結成時に、選手の中 […]
球団創設初年度の開幕に向け、昭和24年オフ、カープ初代監督・石本秀一の熱心な選手集めが続いていた。 自治体からのわずかながらの出資金を獲得資金とし、さらに自身の人脈もフルに活用した。戦前の職業野球時代の剛腕投手・中山正 […]
広島カープの初代監督に就任する石本秀一の生きざまを前回まで10回にわたり綴ってきたが、石本の人生経験が草創期のカープやのちのチーム運営に有形無形の礎となって生きていることは間違いない。とりわけ前回で紹介したが、広島商業 […]
アメリカでの邦人チームとの試合を8勝2敗3分で終え、昭和6年8月22日、サンフランシスコの港を出た広島商業(以下、広商)野球部一行が次に向かったのはハワイである。ハワイへの船旅は7日間に及んだ。石本秀一ら広商一行は総重 […]
広島商業(以下、広商)は昭和4年と5年の夏の甲子園大会で優勝し、さらに昭和6年春も制覇した。そのセンバツ大会優勝の褒賞旅行としてアメリカ遠征が与えられ、遠征中は日本からの移民が多かった西海岸沿いの都市の邦人チームと試合 […]
