中山美幸(アイスホッケーレフェリー)<前編>「日本人女性第1号」

 7日に開幕したソチオリンピック。注目のひとつは、“スマイルジャパン”こと女子アイスホッケー日本代表だ。過去、日本の女子アイスホッケーがオリンピックの舞台を踏んだのは、1998年長野大会の1度限り。今回は、それ以来の出場だ。実は、その“スマイルジャパン”よりも一足早く、長野以来のオリンピックの舞台を踏んだ女性がいる。レフェリーの中山美幸である。2010年2月、カナダ・バンクーバーで開催された冬季オリンピック。中山は女子アイスホッケーのラインズマンを務めた。それは海外開催のオリンピックとしては、日本人女性初の快挙だった。

渡辺啓太(全日本女子バレーボールチームアナリスト)<後編>「追求してきたプロフェッショナル」

「そんな資料、破ってしまえ!」  渡辺啓太が全日本女子チームの専属アナリストに就任したばかりの頃のことだ。当時、全日本女子チームを率いていた柳本晶一監督に、渡辺はそう言われたことがある。それはプロとは何たるかを痛感させられた出来事だった。

渡辺啓太(全日本女子バレーボールチームアナリスト)<前編>「ロンドン五輪、銅メダルの舞台裏」

 2012年8月11日、全日本女子バレーボールの歴史に輝かしい1ページが刻まれた。ロンドン五輪3位決定戦、最大のライバル韓国相手にストレート勝ちを収めた全日本女子は、1984年ロサンゼルス五輪以来、実に28年ぶりとなるメダル(銅)を獲得した。ひとり、またひとりとコートの中央に走りより、12人の精鋭たちが喜びを爆発させるその歓喜の輪の中に、満面の笑みを浮かべる彼の姿があった――。全日本初の専属アナリストとして、女子チームを支えてきた渡辺啓太だ。

篠田洋介(横浜F・マリノスフィジカルコーチ)<後編>「チーム力を生んだ“個”のコンディショニング」

 栄光の裏には、必ずそれを支える裏方がいる――12月10日、Jリーグアウォーズで横浜F・マリノスの中村俊輔がMVPを受賞した。2度目の選出は史上初の快挙。さらに35歳での受賞は史上最高齢だ。自己最多の10ゴールをマークし、キャプテンとしてチームを牽引したことが高く評価されての選出だった。35歳にしてなお、高いパフォーマンスを維持し、輝きを放った中村。彼は授賞式の後のミックスゾーンでこう語っている。 「いいシーズンを送ることができたのは、チームメイトもそうですし、優秀なスタッフがいたからこそ。試合後、クラブハウスに戻ってから、プールに入って、ストレッチして、(ジムの)バイクを漕いで、交代浴して……それらが終わるのを1時間以上も待ってくれているスタッフがいる。そういう温かい人たちに囲まれた環境でできたことが、いいプレーができた一番の要因だったと感謝しています」

篠田洋介(横浜F・マリノスフィジカルコーチ)<前編>「“おっさん軍団”強さのワケ」

 中村俊輔35歳、中澤佑二35歳、マルキーニョス37歳、ドゥトラ40歳――今シーズンの横浜F・マリノスは、主力メンバーに35歳以上の選手が4人と、J1の全18チームの中で最も主力の平均年齢が高かった。いつのまにかつけられた愛称は“おっさん軍団”。正直、「1シーズンもつのか」という見方もあったことは否めない。ところが、“オーバー35”の4人はそろって、シーズンを通してほとんど休むことなく、フル出場。その甲斐あって、今シーズンのF・マリノスは、ほぼ固定したメンバーで安定した力を発揮した。果たして“おっさん軍団”を支えたものとは何だったのか――。

佐藤尚(東洋大学駅伝部コーチ)<後編>「強さを引き出す悔しい経験」

 いよいよ残り約1カ月と迫ってきた第90回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。佐藤尚にとっては、指導者としてちょうど20回目の箱根となる。彼が母校である東洋大学駅伝部の監督となったのは、今から19年前のことだ。当時、東洋大は低迷時期にあった。箱根でシード権を取れない年が続き、改革を求めて指導者を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが、佐藤だった。彼は地元の秋田県でサラリーマンとして働く傍ら、秋田工業高校で陸上部のコーチをしていた。

佐藤尚(東洋大学駅伝部コーチ)<前編>「練習と対話の中にこそある原石の光」

 日本の正月の風物詩ともなっている「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。来年1月には90回を迎えるこの大会に、70回以上出場しているのが東洋大学だ。今や、毎年のように優勝候補に挙げられている同大だが、初めて総合優勝を手にしたのは、今からわずか4年前の2009年のことだった。60年以上も辛酸を舐め続けてきた同大を強豪校に押し上げたひとりが、指導者として、スカウトとしてチームに携わってきた佐藤尚コーチである。今回は佐藤コーチの選手の力を見抜く“目”に迫る。

小俣進(セガサミー野球部アドバイザー)<後編>「投手、広報、スカウト……多岐にわたる野球人生」

 17年間、“ミスター”こと長嶋茂雄の専属広報を務めた小俣進。彼がプロ野球の世界に足を踏み入れたのは1973年のことだ。左投手として藤沢商業高(神奈川)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て、小俣はドラフト5位で広島に入団した。3年後の76年、交換トレードで巨人に移籍する。前年、巨人はV9時代を築き上げた川上哲治の後を継いで、長嶋が巨人軍の監督に就任していた。だが、1年目は球団史上初の最下位に転落。長嶋が血眼になって常勝軍団復活への道を模索していたことは想像に難くない。小俣はそのピースのひとつとして呼ばれたのだ。実際、貴重な左の中継ぎとしてチームを支え、3年ぶりの優勝に貢献した。これが、巨人、そして長嶋との深い縁の始まりだった。

小俣進(セガサミー野球部アドバイザー)<前編>「専属広報17年間の長嶋茂雄像」

 今年5月5日、東京ドームに“ミスター”が元気な姿を現した。昨年末に現役を引退した松井秀喜とともに、国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄。その人気の高さは、77歳となった今もなお健在である。その長嶋の専属広報を17年間務めたのが小俣進だ。現役時代から話題に事欠かない長嶋だが、果たして真の“ミスター”とは――。13年ぶりの現場復帰に始まり、“メークドラマ”、2度の日本一達成、アテネ五輪日本代表監督就任、そして脳梗塞によるリハビリの日々……さまざまな姿を見続けてきた小俣が“ミスター”を語る。

原健介(日本体育大学駅伝部コンディショニングトレーナー)<後編>「“追い風”となった箱根の向かい風」

「どうやら今日も向かい風みたいだぞ」  日本体育大学駅伝部・別府健至監督はそう言って、原健介の肩をポンと叩いた。その表情には自信がみなぎっていた。原はその時、優勝を確信した。 「復路の朝、ロビーで監督に会ったら、笑顔なんですよ。『よし、今日も向かい風だぞ!』というような感じで。日体大にとって、向かい風は追い風だったんです」  前年の19位からの大躍進。30年ぶりの総合優勝。それは“奇跡”ではなく、“狙い通り”だったのである。

原健介(日本体育大学駅伝部コンディショニングトレーナー)<前編>「雪辱への狼煙」

“地獄”から“天国”へ――。89年の歴史をもつ「東京箱根間往復大学駅伝」(箱根駅伝)は今や、年始の風物詩となっている。今年1月、その箱根を制したのは日本体育大学だった。昨年は同校としては史上最低の19位。まさに“地獄”を味わった。そこから大改革に乗り出し、30年ぶり10度目の栄冠を手にしたのだ。この原動力のひとつとなったのが、同校OBでもあるコンディショニングトレーナー原健介が提唱した「ベース・コントロール・トレーニング」(BCT)だ。いかなる時も崩れない走りをつくりあげたBCTとは――。古豪復活への軌跡を辿る。

第16回 中村一知(巨人・グラウンドキーパー)<後編>「内海、ファーム時代の努力」

 今から10年近く前のことだ。練習後のジャイアンツ球場では、中村一知らグラウンドキーパーたちによる整備が行なわれていた。その中にひとり黙々とピッチングフォームの確認をしているピッチャーがいた。入団間もない内海哲也だった。中村の脳裏にはその姿が今も焼き付いている。

第15回 中村一知(巨人・グラウンドキーパー)<前編>「プロの原点を支える」

 現在、セ・リーグの首位を独走し、連覇を狙う巨人には、阿部慎之助、坂本勇人、長野久義、内海哲也、澤村拓一、山口鉄也……と、日本を代表するメンバーがズラリと顔をそろえる。そんな彼らもまた、プロ入り後のスタート地点は「ジャイアンツ球場」だった。1月の新人合同自主トレーニングでは、ドラフト1位から育成選手まで、全員がジャイアンツ球場で同じメニューをこなす。つまり、巨人生え抜き選手にとって、そこは原点でもある。そのジャイアンツ球場の整備・管理をしているのがグラウンドキーパーだ。今回は、一軍を目指して汗を流す選手たちを陰で支えるグラウンドキーパーに迫る。

第14回 ニッタク(日本卓球)<後編>「試行錯誤の先にある光」

 4年前、日本卓球(ニッタク)のラバー開発・提供が、ある男子選手の復活を後押しした。選手の名は張一博。中国・上海出身で、高校時代に来日し、2008年に日本国籍を取得している。日本代表として世界選手権にも出場するなど、日本男子卓球界を牽引する選手のひとりだ。張が08年に帰化したのは、日本代表になりたいという強い思いがあったからだ。だが、彼はその頃、ある課題にぶつかっていた。それがラバーだった。

第13回 ニッタク(日本卓球)<前編>「『佳純ベーシック』で世界の8強」

 2012年ロンドン五輪、日本卓球界に新たな歴史が刻まれた。団体女子で日本チームが決勝進出を果たし、銀メダルに輝いたのだ。男女合わせて史上初のメダル獲得が決定した準決勝のシンガポール戦、最後のダブルスでのマッチポイントで相手サーブのリターンエースを決めたのは、チーム最年少の石川佳純だった。石川は個人シングルスでもベスト4に進出するという快挙を成し遂げた。今回はその石川をはじめ、国内のみならず世界の卓球界を陰で支えている企業のひとつ、日本卓球(ニッタク)の用具開発に迫る。

第12回 伊東裕樹(サービスマン)<後編>「ソチへの期待――佐々木の成長とライバル出現」

 伊東裕樹が佐々木明を担当し始めたのは、佐々木が大学1年の頃だ。それから13年。今でもなお、伊東は佐々木明というスキーヤーに惚れ込んでいる。 「明はね、フリースキーがとても巧いんですよ。競技者なんだから当然だと思うかもしれませんが、フリースキーって意外に難しくて、きれいに滑れる人ってなかなかいないものなんですよ。でも、明はゴムのように柔らかくて、それでいて滑りが大きく見える。パッと見てかっこいいな、と思えるんです」  日本人離れした優雅でダイナミックな佐々木の滑りに、伊東は日本人初の五輪でのメダルの夢を本気で追い続けてきた。そして今も――。

第11回 伊東裕樹(サービスマン)<前編>「信頼あってこそ――佐々木明との“喧嘩”」

「サービスマン」と言えば、スキー板のチューンナップをし、ワックスがけを行なう、車で言えば整備士というイメージを持っている人は少なくないだろう。もちろん、それらも大事な仕事である。だが、サービスマンの役割は、そうしたマテリアル面だけにとどまらない。練習や試合会場まで自らの運転で選手の送迎もすれば、選手の身体的・精神的な状況を把握し、時にはコーチやトレーナーと選手とのパイプ役や相談役も務める。アルペン競技のレース時には、スタート地点まで選手に帯同し、無事にスタートさせるのもサービスマンの役割である。つまり、プレッシャーや興奮状態の中、選手はサービスマンと交わした会話や激励の言葉に送り出されてスタートを切るのだ。これがいかに重要で難しい任務であるかは、想像に難くない。今回はそんな知られざるサービスマンの姿を追う。

第10回 山家正尚(メンタルコーチ)<後編>「“スマイルジャパン”誕生秘話」

 今年2月の最終予選を勝ち抜き、来年開催されるソチ五輪出場一番乗りを果たしたアイスホッケー女子日本代表。その彼女らの愛称として決定したのが、当初からチームが希望していた“スマイルジャパン”だ。21歳の若き主将・大沢ちほはこう述べている。 「最終予選という大きな舞台でも、いつものように笑って、楽しくできた。だから希望していた愛称に決定して、とても嬉しい」  この “スマイルジャパン”誕生秘話に欠かすことのできない人物がいる。昨年11月にチームのメンタルコーチに就任した山家正尚だ。

第9回 山家正尚(メンタルコーチ)<前編>「“スマイルジャパン”五輪最終予選の舞台裏」

「大丈夫。僕は選手たちを信じている。彼女たちなら、きっとやってくれるよ」  2013年2月8日、アイスホッケー女子日本代表はスロバキアで行なわれたソチ五輪最終予選の初戦に臨んだ。相手はノルウェー。世界ランキングは日本11位、ノルウェー10位と、実力はほぼ互角だった。ところが、第2ピリオド途中まで0−3。予想外の点差に、スタンドからはため息がもれた。だが、メンタルコーチの山家正尚は「絶対に大丈夫」と言い切った。選手たちを信じ切るだけの自信が、山家にはあった。

第8回 大木学(帝京大学ラグビー部アスレティック・トレーナー)<後編>「チームを救った“準備”」

「リハビリが遅れている原因は、どこにあるのだろう……」  昨年7月、アスレティック・トレーナー大木学は、ある選手の状態が気になっていた。当時、2年生の権裕人だ。彼はレギュラーになるべく選手であり、4連覇には欠けてはならない選手の一人として考えられていた。だが、春にハムストリングスの肉離れに見舞われ、リハビリが続いていた。しかも、回復の進行は大木が予想していたものよりもはるかに遅れていた。

第7回 大木学(帝京大学ラグビー部アスレティック・トレーナー)<前編>「V4に導いた“超回復”」

 2013年1月13日、日本の学生スポーツ界に新たな歴史が刻まれた。第49回ラグビー全国大学選手権大会・決勝。帝京大学が筑波大学を39−22で破り、史上初の4連覇を達成したのだ。この快挙の裏には、さまざまなスタッフの献身的な支えがあった。岩出雅之監督が「同志」と呼ぶ彼(女)らの尽力なくして、4連覇はなかったと言っても過言ではない。今回はその一人、アスレティック・トレーナー大木学に、4連覇への軌跡を訊いた。

第6回 花谷遊雲子(管理栄養士)<後編>「選手の“本気”に挑む“覚悟”」

 管理栄養士・花谷遊雲子にとって、忘れられない“勝負”がある。 「花谷さん、相談があるんです。今の私のダイエット方法では、続かないと思うんです」  2004年、4年後の北京五輪の代表候補選手を決める選考会を2週間後に控えていた頃のことだ。あるシンクロナイズドスイミングの代表候補選手が、減量に苦しんでいた。それまでは自らアドバイスを求めに来るような選手ではなかったという。その彼女が、初めて花谷に悩みを打ち明けたのだ。それだけ北京五輪にかける思いは強かった。

第5回 花谷遊雲子(管理栄養士)<前編>「マーメイドジャパン、新たな挑戦」

 昨年のロンドン五輪、シンクロナイズドスイミング日本代表はデュエット、チームともに5位という結果に終わった。正式種目となったロサンゼルス五輪以来、初めてメダルなしという事態に、今後への不安の声も少なくない。だが、日本のシンクロは今、大きな転換期を迎えている。そんな中、今回のロンドン五輪、日本代表は新たな挑戦をしていた。その挑戦を身体づくりの面からサポートしてきたひとりが、管理栄養士・花谷遊雲子である。

第4回 山口義彦(グリーンキーパー)<後編>「FIFA、中田英、ベンゲル……世界に認められたピッチ」

「ボールが普通に転がること」――これがグリーンキーパー山口義彦の理想の芝生である。その山口にとって、今でも忘れられない言葉がある。それが2001年のコンフェデレーションズ杯での中田英寿のコメントだ。当時、アジア初のサッカーW杯日韓大会を1年後に控え、山口たちは世界の舞台にふさわしいピッチにするべく、試行錯誤の日々が続いていた。そんな中、当時日本代表のエースからの何気ないひと言が山口に大きな自信を与えたのだ。

第3回 山口義彦(グリーンキーパー)<前編>「知られざるピッチづくりの苦闘」

 あれからもう10年の月日が流れた。アジア初のサッカーW杯、日韓大会である。日本サッカー界にとって歴史的1ページを刻んだ大会、そのフィナーレを飾った決勝の舞台に選ばれたのが日産スタジアム(横浜国際競技場)だ。収容人数7万2327人という規模のみならず、Jリーグ「ベストピッチ賞」4度受賞のグラウンドの美しさ、コンディションは国内随一といっても過言ではなく、FIFAや海外選手からも称賛の声が多く聞かれる。だが、ここまでに至るには大変な苦労を要した。そこにはグリーンキーパーの陰の努力、そして芝生を守るための闘いの日々があった。

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