CS放送のJスポーツでオンエアされていたマリオン・ジョーンズのドキュメンタリーを見た。シドニー五輪陸上競技で5つのメダルを獲得した彼女は、後にドーピング発覚してすべてのメダルを剥奪されたばかりか、偽証罪に問われて6カ月の実刑を受けた。番組には、いまは女子プロバスケットボールの選手として活躍する彼女の、印象的な言葉がちりばめられていた。 「完全に打ちのめされた人間でも、立ち上がることが可能だと証明したかった」。「嬉しかったのは、若い人たちから諦めないでくれてありがとうと言われたこと」 いつか、被災地の方々に見ていただきたいドキュメンタリーである。
昭和41年生まれのわたしは、古橋広之進さんの現役時代を知らない。それでも、“フジヤマのトビウオ”と呼ばれ、世界新記録を連発した彼の泳ぎが、敗戦にうちひしがれる日本に大きな勇気をもたらしたことは知っている。 たぶん、長居での試合はそういう類いの試合だった。何年か後、平成23年3月11日の大地震に端を発した大災害からの、再起への一歩として記憶されることになる、あるいは復興へ向けて国民が頭をあげたきっかけだったと印象づけられることになる試合だった。歴史的な、試合だった。
フランスの作家ロマン・ギャリは著書「ヨーロッパ風教育」にこう書いた。 「人は昔から、絶望から逃れるための避難所を必要としてきた。その避難所は、時に歌であり、詩であり、音楽であり、本である」 この本が出版されたのは、第二次大戦が終わったばかりの1945年だった。時代は違うし国も文化も違う。それでも、戦時中レジスタンスとして活動し、戦後は外交官としても活躍したギャリの言葉は、半世紀以上たった現在の日本にもぴったりと当てはまる。現代の後知恵を付け加えるなら、もう一つ、スポーツという“避難所”もあるということか。
世界が祈ってくれている。日本のために、祈ってくれている。 メジャーリーガーが、テニス・プレーヤーが、そしてフットボーラ―が、世界のあらゆる場所で日本への祈りを捧げ、支援を訴えてくれている。かつて、かくも多くの人が日本のために祈ってくれたことが、あっただろうか。祈りは無力? そんなことはなかった。自分たちのことを気に留めてくれている人たちがこんなにもいる。そう思えることが、どれほど心強いことなのか。
サッカーは、結果が内容を蝕むことがある競技である。どれほどいいサッカーをしていても、不運な、あるいは事故としかいいようのない敗戦が続くと、徐々に内容もおかしくなってきてしまう。特に、選手と監督の信頼関係が固まっていないシーズン序盤戦は、毎試合が運命の分かれ道のようなものでもある。
19回目のJリーグ開幕が近づいてきている。93年の5月、10チームによる総当り4回戦方式でスタートしたリーグは、規模を大幅に拡張させ、いまや1部、2部ともにホーム&アウェー方式で運営されるリーグに成長した。課題、問題点は数多にあるにせよ、世界的に見ても稀有なスピードで成長してきたリーグであることは間違いない。
海外でプレーするのはおしなべて特別な、いや伝説的な選手だったという印象がわたしにはある。日本においては非の打ちどころのない存在であり、その生きざまも鮮烈。過去を知る人に聞けば、例外なく「あのヒトはすごかった」という答えが返ってくる。それがカズであり中田英寿だった。
土壇場で、絶体絶命の場面で、わずかでも弱みをみせれば一気に蹂躙されてしまいそうな状況で、選手を支えるもの、踏みとどまらせるものは何なのか。答えはもちろん一つではないだろうが、その中に「自信」が含まれるのは間違いない。
10年前、ロシアの選手にとって日本は憧れの国だった。ガンバ大阪でプレーしたアフリク・ツベイバが、引退後のビジネスとして日本に選手を送り込む代理人を始めたのも、十分に勝算があってのことだった。 「西欧でプレーするには年齢をとりすぎた選手や、レベル的に少し落ちる選手にとっては、Jリーグのギャラは素晴らしく魅力的だからね」
「世界で最もレベルの低い国際大会」と嘲笑されることもあったアジア杯も、ついに活躍した選手が世界的ビッグクラブに引き抜かれるような大会になった。長友のインテルへの移籍は、日本のみならず、アジア杯に参加した選手、観戦した関係者にも大きな勇気と希望を与えたはずである。いよいよもって、アジア杯は新しい次元、時代に突入したと言っていい。
わたしが皮肉屋の韓国人記者であれば、試合のMVPにはサウジアラビア人の主審を選ぶ。2点目のきっかけとなった日本のPKは反則のようには見えなかったし、百歩譲って反則だったとしても、ペナルティーエリアの外で犯されたものだったのは間違いない。韓国人からすれば、これまた微妙な判定だった先制点の“恩義”を差し引いても、主審に文句を付けたいところではないか。
ヨハン・クライフ率いるバルセロナが“ドリームチーム”と呼ばれるようになった理由の一つには、ウェンブリースタジアムでサンプドリアを下した欧州チャンピオンズ杯決勝での勝利があった。逆に、クライフがチームを追われるきっかけとなった原因の一つに、0−4という惨敗に終わったACミランとの欧州CL決勝がある。
決勝戦に象徴されるように、今年の高校サッカー選手権は面白い大会だった。おそらく、実力的には流通経大柏が頭一つ抜けていただろうが、上位に進出したチームはどこも自分たちならではの武器、特長を持っていた。
高校生は化ける。ほんの数カ月前、さしたる印象にも残らなかった選手が、チームが、信じられないほどの輝きをみせることもある。日々の練習か、一つのプレーか、それとも大舞台での結果か。きっかけは、どこに転がっているかわからない。 だが、現状の日本サッカー界は、化ける可能性に対していささか冷淡にすぎるのではないか。
灼熱のカタールと冬のオーストラリア。選手であれば、どちらでプレーすることを望むのかは一目瞭然である。にもかかわらず、W杯開催地を決定するうえで、実際にプレーする者たちの意向が反映された気配はまるでなかった。
2010年という年は、日本サッカー界にとってターニング・ポイントとして記憶されることになるかもしれない。 きっかけとなったのは、もちろんW杯でのベスト16進出である。個人的には、きちんとした準備をしていれば、結果はともかく、内容はもっと見るべきものが多いチームになったはずだとの思いはある。ただ、ベスト16という結果が、どんな名監督であっても簡単に成し得た結果ではなかったことも間違いない。
正直、驚いている。 日本が招致に失敗したのはわかる。当事者が何を言おうと、第三者からすれば02年のW杯はあまりにも記憶に新しすぎる。なぜ日本で? という疑問に対する答えを、今回の招致活動は用意することができなかった。世界に冠たるフットボール・カントリーでもなく、世界中のファンが憧れるようなスタジアムがあるわけでもない国。おそらく、これからも日本がW杯を招致するのは難しいだろうが、今回は尚更だったということだ。
試合後、バルセロナのグアルディオラ監督は言った。「この勝利をチャーリー・レシャックとヨハン・クライフに捧げたい。彼らが私たちの進むべき道を示してくれたからだ。この勝利は、チームが15年間かけて成長させたフットボールのスタイルがもたらしたものだ」 この言葉は、若き監督による先達へ向けた社交辞令、では断じてない。5−0。世界を驚かせたレアル・マドリード相手の圧勝劇は、まさに、バルセロナというチームの歴史がなければ起こりえないものだった。
これが一時的なもの、突発的な出来事だというのであれば、何も心配する必要はない。あくまでもJを徹底して重視するスタイルを貫けばいい。 だが、変化の始まりである可能性はないだろうか。高校3年生の段階ではJのスカウトのふるいから落とされ、大学生になって頭角をあらわした選手が、五輪代表のエースとして君臨するケース――つまり福岡大・永井謙佑のケースである。
隣の芝は青く見える。 イタリアのロベルト・カルデロリ法律簡素化相が、F1の総合優勝を逃がしたフェラーリの会長に辞任を求めたという。
バルセロナ五輪の予選に挑んだ日本代表は、大学生を主体としたチームだった。中盤の柱となったのは東海大の澤登正朗、ケガ人の出た最終ラインをまとめたのは早稲田の相馬直樹である。GK下川健一、DF名良橋晃、FW藤吉信次など、プロアマ混合の日本リーグでプレーしている選手もいたが、あくまで、大学生が多数派を占めるチームだった。
サッカーは怖い。あらためて痛感させられたナビスコ杯決勝だった。 前半の試合内容は、はっきりいってかなり低調だった。無理もない。広島は勝ったことがない。磐田は久しく勝っていない。どちらのチームも、このタイトルに並々ならぬ思いを抱いており、それゆえ、どちらのチームも極端にリスクを恐れた。結果が、単調な縦パスの応酬だった。
Jリーグもいよいよ終盤戦に差し掛かりつつあるが、一つ下のカテゴリーとなるJFLでは、ガイナーレ鳥取が早々に優勝を決めた。
16試合で6万1000人少々。1試合平均にするとたったの3800人。観衆が1万人を超えたのは、わずかに1試合だけだった。これが、天皇杯3回戦の現実である。