FORZA SHIKOKU
高校卒業後、山田和司は日本体育大学に進学した。練習環境やチームの雰囲気など、いくつか同大を選んだ理由はあったが、なかでも大きな割合を占めたのが、最大のライバルであった遠藤大由(ひろゆき)の存在だった。 「日体大は体育館が広くて、バドミントンのコートがたくさんあるので、1年生でも十分に練習することができるんです。それに、教員免許が取得できることも魅力の一つでした。でも、やっぱり遠藤が行くということが僕にとっては大きかったんです。遠藤は高校からずっと僕にとっては一番のライバル。その遠藤と同じ環境で切磋琢磨していきたかったんんです」 遠藤へのライバル心が山田の成長の原動力となっていた。
15歳で故郷を離れ、それまで縁もゆかりもなかった埼玉県の小松原高校に進学した山田和司は、そこで“ライバル”と出会った。現在も日本ユニシスでチームメイトである遠藤大由(ひろゆき)だ。技巧派の山田に対し、遠藤は力で押す、いわゆる直球勝負のプレーヤー。全く異なるプレースタイルの2人は、シングルスでは“最大のライバル”として切磋琢磨し、ダブルスでは“最高のパートナー”として息の合ったプレーを見せ、全国へと駆け上がって行った。
「オマエには感謝している」――今年、山田和司が中学時代の恩師・西原隆と初めてお酒を酌み交わした時のことだ。恩師からの思いがけない言葉に、山田は驚きを隠せなかった。 「そんなこと言われると思っていなかったので……。僕の方こそ感謝しているんですから」 そう言って少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに笑みを浮かべた。果たして恩師が感謝している理由とは――。 「私の口癖は昔から『愛媛から世界へ』なんです。山田が中学時代にもよく『このメンバーから世界へ出るんだ!』と言っていたんですよ。それを彼は本当に実現してくれたんですからね。やればできることを教えてくれました」 愛媛県出身者として初めて日本代表入りを果たし、日本バドミントン界を牽引する存在として世界を相手にしている教え子の存在が今、西原の励みになっている。
2009年、10年と日本一の座をかけて行なわれる日本リーグ(男子)で連覇を果たすなど、日本のバドミントン界を牽引する日本ユニシス。所属する11名の日本人男子選手のうち、日本代表はなんと10人(Bチーム含む)を数える。まさに精鋭たちが集うエリート集団だ。なかでも花形である男子シングルスで今、最もオリンピックに近い位置にいるのが山田和司である。
「オレ、本当に来たんだな……」 2008年9月6日、北京パラリンピック開会式。9万人を収容できる巨大スタジアム、通称「鳥の巣」(北京国家体育館)に藤本佳伸はいた。開会式が始まっておよそ2時間後、ようやく日本代表は待機していた広場から競技場へと続く通路を移動し始めた。徐々に入口の光が大きくなり、観客の歓声が聞こえてくる。藤本は胸の高鳴りを抑えることができずにいた。
「彼の強さは行動力のあるところ。自分の意志をはっきりと表に出すことができることですよ」 日本男子代表コーチを務める丸山弘道は、藤本佳伸というプレーヤーをこう評する。2005年の「ワールドチームカップ」で初めて藤本のテニスを見た丸山は「パラリンピックを目指している」という彼に、自らがコーチを務めるテニストレーニングセンター(TTC、千葉県柏市)に練習拠点を移すことを勧めた。とはいえ、仕事や生活のこともある。そう簡単に決められることではない。丸山は徳島の実家で暮らす藤本が、自分の元へと来る可能性は五分五分と見ていた。ところが、藤本は約1カ月半後には千葉での一人暮らしをスタートさせたのである。その行動の早さにはさすがの丸山も驚きを隠せなかったという。だが、これだけの行動力がなければ、今の藤本はない。なぜなら藤本のテニス人生を支えている数々の出会いは、こうした彼のスピーディな行動による産物にほかならないからだ。
「あんなふうにオリンピックで演技できたらいいな」――テレビの向こうでは世界最高峰の舞台で活躍する先輩の姿があった。 1992年、バルセロナオリンピック。団体で銅メダルを獲得した体操日本代表の一人、畠田好章の姿が高校1年の藤本佳伸にはまぶしく見えた。畠田は藤本が当時通っていた鳴門高校器械体操部OBだった。小、中学校時代には同じ体操クラブに通っていた先輩であり、彼にとっては身近な存在だった。その畠田が世界の舞台で堂々と演技している。その姿に藤本はほんの少しだけ将来の自分を重ねていた。はっきりと「目標」とは言えないまでも、オリンピックは彼にとって目指すべき舞台であることは確かだった。しかし約1年後、その夢ははかなく散った。それはあまりにも突然の出来事だった。
パーン、パーン、パーン……。 8月中旬、千葉県柏市にあるテニストレーニングセンター(TTC)のドアを開けると、すぐにテニス独特の乾いた音が聞こえてきた。室内とはいえ、「今年一番」というほどの最高気温をマークしたこの日、じっとしていても汗がしたたり落ちるほどの蒸し暑さだった。そんな中、一番端のコートでは男性が一人、コーチが打つボールを必死に追いかけていた。車いすプレーヤーの藤本佳伸だ。小学生の時から器械体操をやっていたということもあり、上半身はテニスプレーヤーらしからぬ強靭な肉体であることは傍目からも十分にうかがい知ることができた。こちらに気付くと「こんにちは!」と屈託のない笑顔を向けてきた。その表情は充実感に満ち溢れているように感じられた。
金丸にとって4度目の世界陸上が開幕した。男子400mの予選は5組で争われ、各組の上位4着までと、5着以下の中からタイム順で4人までが準決勝に進める。金丸は予選3組に入った。同組には前回大会と北京五輪を制したラショーン・メリット(米国)がいた。
世界陸上の開幕が近づいてきた。金丸が出場する男子400mは大会2日目の28日に予選を迎える。予選突破、そして大きな目標として掲げる決勝進出には何が必要なのか。 「いろいろありますけど、現段階で言えばスピードですかね。単純な速さではなくて、400mを走る上でいかに高いレベルでスピードを維持できるかが大事だと考えています」
金丸には第一人者にしか分からない独特の感覚がある。トラックを駆け抜ける際、地面に「かみつく」イメージを持っているというのだ。 「足をパンとムチのように地面に叩きつけて、しっかりかみつかせる。その勢いで体を前に持っていく。そういう意識で走っています」
小さい頃から足の速い子どもだった。 大阪府高槻市に生まれた金丸は、元気いっぱいの幼少時代を過ごした。とにかく外で遊ぶのが大好きで、近くの田んぼで足を泥だらけにして炎症を起こしたこともあるほどだ。小学校ではその俊足を生かし、3年生からサッカーを始めた。 「でも足が速いだけで、ボールを蹴るのがヘタクソだったんです。せっかくゴール前まで行ってもシュートを外しちゃうんで(笑)」
低い姿勢から大きなストライドでグングン加速し、先頭で風を切る。金丸祐三は今、日本で最も速く400メートルを走る男である。高校3年時に日本選手権を制し、今年で7連覇を達成した。この9月で24歳。スプリンターとしては、ここから脂がのってくる時期である。
「Wエースとしてがんばろう」 福島由登と奥村翔馬の入学当初からの約束――1年の時、奥村は福島の筆箱にこの言葉を書いた。母・祥子には未だに忘れられない出来事として記憶されている。 「筆箱に書いた字なんて、普通なら2、3年も経てば、薄くなってほとんど消えてしまうと思うんですけど、結局卒業するまで消えなかったらしいんですよ。それほど2人の絆は強かったのかもしれませんね」 2008年は、その“Wエース”にとって忘れられない夏となった。
「史上最弱」 これが中田翔(北海道日本ハム)らが抜けた大阪桐蔭への評価だった。 「新チームになった時に西谷浩一監督に言われたんです。『オマエら、他から何て言われているか知ってるか? 今年の桐蔭は弱いって言われているんだぞ。そんなこと言う奴らを見返そうじゃないか!』って。確かに僕たちの学年には中田さんたちの学年のようにスター選手がいたわけではなかった。だから、とにかく“全員野球”でいくしかなかったんです」 全国から注目された前年とは一転、この年の大阪桐蔭はまさにゼロからのスタートだった。
「一度も野球を嫌いになったことはないですよ」 高校3年間はテレビを観ることも携帯電話を持つことも許されなかった。お正月休みの1週間を除けば、休日は1年に3日ほど。あとは毎日6時間以上の練習の毎日だった。 「夕方4時頃から練習が始まって、終わるのは10時過ぎ。それから寮に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、洗濯して……あとはもう寝るだけです」。 まさに青春の全てを野球に捧げた3年間。どんなに練習が厳しくても、辛くても、福島には野球のない生活は考えられなかった。
2011年は大阪桐蔭高校出身者が熱い。パ・リーグでは中田翔(北海道日本ハム)、浅村栄斗(埼玉西武)、セ・リーグでは平田良介(中日)、そして海の向こうでは西岡剛(ツインズ)が華々しいプレーで観客を沸かせている。彼らが3年間、泥まみれになって白球を追い続けたグラウンドで、この男もまた野球の礎を築いた。福島由登。今から3年前の夏、常葉菊川との決勝戦で、松坂大輔(横浜)以来となる完封勝ちを収めたエースだ。
故郷のクラブでルーキーイヤーの開幕戦にデビュー。順調なプロの第一歩を踏み出した越智だったが、その後はなかなか出番に恵まれなかった。 「フィジカル面も足りなくて、思うようなプレーができなかった。自分に対してイライラしながらサッカーをしていた。余裕がないので、周りも見えなくて余計に悪い方向に行っていましたね」
次世代の「ミスター愛媛」として期待されている選手である。 越智亮介、21歳。大分トリニータのユースから故郷のクラブでプロになって3年目。主にボランチで昨季は31試合に出場した。イヴィッツア・バルバリッチ監督からも「プレーにクリエイティビティがある」と評価を受けている。
横浜F・マリノスのユース時代にJデビュー。順風満帆だったサッカー人生に影が差したのは、正式にトップチームに昇格した2009年だった。サテライトの試合に出ていた齋藤は相手と接触し、左ヒザを痛める。 「それまでヒザのケガは経験がなくて、打撲だと思ったんです。でもボールを触ったら超痛い。すごく調子良かったんですけど、トレーナーに言ったら、すぐ交代になりました」
愛媛のメッシと呼ばれている男がいる。 愛媛FCの背番号27、齋藤学だ。今季、横浜Fマリノスから期限付き移籍で愛媛にやってきた。ここまで(15節終了時)全9試合に出場し、3得点。彼の活躍もあって昨季まで得点力不足に泣いたチームが首位と勝ち点5差の8位につける原動力になっている。
日本タイトルへの挑戦失敗から5カ月。大村は再びリングに立っていた。2月14日、後楽園ホール。相手の藤沢一成(レパード玉熊)はノーランカーだった。格下相手に「きれいに勝ちたい」「倒したい」との思いはこれまで以上に強かった。
2010年9月4日、後楽園ホール。これまでのボクシング人生を賭ける一戦がやってきた。日本ライト級タイトルマッチ。大村にとってはプロ18戦目で初のタイトル挑戦だ。相手は荒川仁人(八王子中屋)。2度目の挑戦で日本王座を獲得したテクニシャンである。
デビュー戦でKO負け。どん底に叩き落された大村は次の試合までの4カ月間、悶々とした日々を過ごした。「今度こそ勝ちたい」と思えば思うほど、「今度負けたらどうしよう」との不安が頭をもたげてくる。2戦目の相手はプロのでの実績はなかったが、アマチュア経験の豊富な選手だった。映像で見ると、確かにボクシングはうまかった。
大村は4人兄弟の3男坊として生まれた。光矢という名前は「光る矢のようにボールを投げてほしい」との父の願いが込められたものだ。愛媛といえば野球王国。出身の西条市にある西条高は夏の甲子園で全国制覇の経験もあり、往年の名投手で巨人の監督も務めた藤田元司(故人)ら多くのプロ野球選手を輩出している。近年では阪神の秋山拓巳もそのひとりだ。野球好きの父は、プロ野球選手になる夢を息子たちに託していた。