FORZA SHIKOKU

阿部吉朗(湘南ベルマーレ/愛媛県新居浜市出身)第2回「2人のプロフェッショナルな指揮官」

 デンソーカップで代表に選ばれた阿部は、だんだんとJクラブから注目される存在となっていた。その中でも阿部の才能を最も評価していたのはFC東京。特に当時クラブを率いた原博実は、FWとしての阿部の才能を買っていた。

阿部吉朗(湘南ベルマーレ/愛媛県新居浜市出身)第1回「J1昇格へ導いた不屈のストライカー」

 2010シーズンJ1第8節、湘南ベルマーレ阿部吉朗のヘディングがゴールに突き刺さった瞬間、平塚競技場は沸きに沸いた。今季11年ぶりにJ1のピッチに戻ってきた“湘南の暴れん坊”は、阿部の1ゴールを守りきり、ベガルタ仙台を下して今季2勝目を上げた。決勝点を決めた阿部は「練習通りのゴール。シーズン1点目ということもあるけれど、勝ち点3を取れたことが嬉しい」と、自らのゴールを振り返った。

赤井秀一(愛媛FC)最終回 そして“ミスター愛媛”へ

 2006年3月4日。愛媛県総合運動公園陸上競技場。愛媛FCはJ2に昇格し、記念すべき開幕戦をホームで迎えた。相手は横浜FC。三浦知良、城彰二と元日本代表のスターが2トップを組むとあって、1万人を超える観客がスタジアムに足を運んだ。試合はスコアレスドローかと思われた88分、途中出場のMF猿田浩得が値千金のゴールを決めて1−0。愛媛が歴史的な1勝をあげ、スタンドは大いに沸いた。

赤井秀一(愛媛FC)第3回 夢のJリーガーになった日

「こんな状態で、本気でJ2狙っているのかな……」  Jリーガーになることを目標にJFLの愛媛FCにやってきた赤井を待ち受けていたのは、予想以上に厳しい現実だった。練習場は土のグラウンド。タックルや転倒で生傷は常に絶えなかった。しかも専用の練習場ではなかったため、時間帯によっては空いたグラウンドを求めて移動する“ジプシー”生活を余儀なくされた。さらにはチームスタッフも少なく、練習や試合前後の道具運びや雑用も全員が協力して行わなくてはいけなかった。 「しかも僕は新入りでしたからね。大学の時はそういうことは下級生がやっていましたから。ある意味、大学時代より大変でしたよ」

赤井秀一(愛媛FC)第2回 運命を変えたゴール

 小学校3年生で地域のスポーツ少年団に入った赤井はFWとしてメキメキ頭角を現していく。背番号はエースストライカーの証である11番。他の同級生と比べればレベルは抜きんでており、良くも悪くも「チームの中で浮いた存在」だったという。実力を買われて小5で札幌市の選抜メンバーにも選ばれ、それがきっかけとなって地元の名門クラブ札幌サッカースクール(SSS)に入った。

赤井秀一(愛媛FC)第1回 マルチなタフガイ

 愛媛FCはJリーグに昇格して今季で5シーズン目を迎える。昇格1年目こそ13クラブ中9位と健闘したが、2年目からは10位、14位、15位。年々、J2のクラブ数が増加する中、成績が降下している。地方クラブの悲哀で、愛媛は選手獲得に潤沢な資金を用意できない。そのため効果的な補強ができないばかりか、結果を残した選手はよりよい条件で他クラブへと移籍してしまう。毎年のように選手が大幅に入れ替わり、J昇格前のクラブを知る現役選手はわずか3人しかいない。

岡田晴菜(帝京大学女子柔道部/愛媛県宇和島市津島町<旧・北宇和郡津島町>出身)最終回「才能開花への期待」

「それでも悔しかったですね」――この言葉に岡田晴菜の負けん気の強さがどれほどのものか垣間見えた気がした。  彼女が進学した宇和島東高校柔道部は女子部員が多くはない。そのため、練習では軽量級の男子と投げ込みをすることもある。男子の最軽量級は60キロ。57キロ級の岡田とはそれほど体重差がないとはいえ、男女の筋力の差には開きがある。 「練習では3年生の男子ともやっていましたね。もちろん、相手は手加減してくれていましたよ。全然相手にならないですから。でも、やっぱり負けるのは悔しかった」  彼女は相手がたとえ男子でも、たとえ練習の場であっても、決して負けをよしとしない。そんなアスリートにとって必要な資質が備わっている。

岡田晴菜(帝京大学女子柔道部/愛媛県宇和島市津島町<旧・北宇和郡津島町>出身)第4回「恩師から教わった諦めない心」

 岡田晴菜が今や恩師の一人として慕っている中学時代の柔道部顧問、梶谷宗範の指導は「厳しい」のひと言に尽きる。そんな梶谷はめったに褒めたりはしない。しかし、岡田は一度だけ褒められたことがある。中学最後の試合となった全国中学校柔道大会、愛媛県大会で優勝したときのことだ。 「おめでとう」  梶谷はそう言って、握手を求めてきた。岡田は自分も手を差し出しながら、初めてのことに驚きを隠せなかった。だが、心の内では嬉しさでいっぱいだった。

岡田晴菜(帝京大学女子柔道部/愛媛県宇和島市津島町<旧・北宇和郡津島町>)第3回「柔道へのいざない」

 岡田晴菜が柔道の世界に入ったのは、ひょんなことがきっかけだった。 「小学5年生の時に親友に誘われて、なんとなく始めました」  もともと運動が大好きだった岡田。陸上や水泳は得意だったが、武道とは無縁の環境で育った。柔道を見るのもやるのも初めて。それでも見学に行くと、すぐに柔道の魅力にとりつかれた。 「意外に激しくて、おもしろそうだなと思いました」  表情や口調はおっとりとしている岡田だが、間近で感じた柔道のパワーとスピードに胸が高鳴った。

岡田晴菜(帝京大学女子柔道部/愛媛県宇和島市津島町<旧・北宇和郡津島町>出身)第2回「苦しみからの成長」

 2007年、岡田晴菜は帝京大学女子柔道部に入部した。実は当初、高校を卒業後は就職を考えていた。大学進学はほとんど頭になかったという。しかし、全国大会にも出場するほどの彼女を大学側が放っておくはずはなかった。入部のオファーは2校。地元の松山東雲女子大学と東京の帝京大だった。果たして岡田が選択したのは、一代で全国の強豪校に築き上げ、何人もの代表選手を育て上げた稲田明監督率いる帝京大だった。

岡田晴菜(帝京大学女子柔道部/愛媛県宇和島市津島町<旧・北宇和郡津島町>)第1回「遅咲きの大器」

「今年は大爆発するんじゃないかと、非常に期待しているんですよ」  日本女子柔道界きってのスーパースター谷亮子の育ての親として知られる稲田明帝京大学女子柔道部監督が大きな期待を寄せている選手がいる。3年生の岡田晴菜だ。彼女は昨年6月に行なわれた全日本学生柔道優勝大会(5人制)の優勝メンバーの一人。初戦の徳山大学戦で次鋒を務め、見事一本勝ちを収めた。 「将来はオリンピック代表になれるくらいの素質をもっている」と稲田監督。名伯楽がイチオシする岡田晴菜とは――。

津川力(NPB審判員/高知・明徳義塾高校出身)最終回「もっと信頼される審判を目指して」

 パ・リーグ審判員として順調にキャリアを積む津川は、プロ野球選手としての経験がプラスになったと感じている。多くの同僚がアマチュア球界などで審判としての経験を積んできた中、比較的キャリアの浅い津川が公式戦の他に、クライマックスシリーズやオールスターゲームなど重要な試合を任されている。やはりこれは、プロでの経験が土台にあってこそだろう。

津川力(NPB審判員/高知・明徳義塾高校出身)第3回「想像していなかった審判への転身」

 1999年10月にヤクルトスワローズから戦力外通告を受けた津川は、現役の道を摸策するべく入団テストに臨んだ。受けたのは西武ライオンズとオリックスブルーウェーブの2球団。藁にもすがる想いで現役続行に向けて行動を起こした。しかし、結果は両チームともに不合格。津川のプロ野球選手としての生活は26歳の若さで幕を下ろした。

津川力(NPB審判員/高知・明徳義塾高校出身)第2回「人生を変えた2ホーマー」

 高校2年の夏、高知県大会決勝で高知商業に敗れた明徳義塾高校野球部には大きな変化が訪れる。新しい監督が就任したのだ。30代の青年監督は、熱い指導で選手たちを鼓舞した。 「とにかく勝ちにこだわる監督でした」。当時の監督の印象を、津川はこう振り返っている。

津川力(NPB審判員/高知・明徳義塾高校出身)第1回「プレーする側からジャッジする側へ」

 2月に入り、プロ野球ファンの心躍る時期になってきた。間もなく始まる新しいシーズンに向けて、各球団が一斉にキャンプ地へと入り開幕へ向けて始動する。  新シーズンに備えるのは選手やファンだけではない。1月下旬、寒空の神宮球場にはセ・パ両リーグの審判団が集結していた。プロ野球を支える彼らも着々とトレーニングをこなしている。

高木啓充(東京ヤクルトスワローズ/愛媛県松山市出身)最終回「先発で開幕1軍を!」

「サイン、見えてんのか!?」  マウンドに歩み寄り、キャッチャーマスクをとった古田敦也は怒っていた。2006年4月12日、横浜スタジアムの横浜対東京ヤクルト。ルーキーピッチャーの高木は唇をかみしめながらベンチへ駆け足で退いた。何が何だかわからないうちに終わったプロ初登板だった。

高木啓充(東京ヤクルトスワローズ/愛媛県松山市出身)第3回「武器のフォークは偶然の産物」

 転機は21歳になる秋に突然やってきた。大阪体育大学に進学し、3年生となっていた高木は阪神大学リーグのマウンドに上がっていた。試合は敗色濃厚。「今日は負けやなぁ」。キャッチャーとそんな会話を交わしていた。「後は適当に投げたらええやん。フォークでも投げてみるか」。当時、高木の主な持ち球はストレート、カーブにスライダー。フォークボールは投げたことがなかった。人差し指と中指にボールを挟み、腕を思い切り振ってみた。ボールは途中までストレートと同じ軌道で進み、打者の手許でストンと落ちた。「意外に落ちるやん」。この遊び半分で投げた変化球が右腕の運命を大きく変えることになる。

高木啓充(東京ヤクルトスワローズ/愛媛県松山市出身)第2回「越智(現巨人)と競った高校時代」

 高木が野球を始めたのは小学校3年生の時だ。「友達がやっていて、楽しそうだから1回行ってみようかなって感じでした」。実際にやってみると、ボールを遠くへ飛ばす楽しさに惹かれた。もともと体が大きかったため、ボーイズリーグでは投手も任された。これが高木の原点である。

高木啓充(東京ヤクルトスワローズ/愛媛県松山市出身)第1回「燕の救世主」

 2009年夏、プロ入り4年目の高木啓充はヤクルト2軍の本拠地、戸田で投げていた。プロに入って3年間、1軍で何度か登板機会はあったが、白星はなし。1軍は巨人、中日と優勝争いを展開しており、実績のない投手に昇格のチャンスが訪れる雰囲気は全くなかった。 「このままクビになるのかな」  正直、オフに非情の通告を受けることも覚悟していた。その後の就活もリアルに考えざるを得なかった。

木村志穂(テコンドー・世界選手権銀メダリスト/愛媛県松山市出身)最終回「世界の頂点へ」

「木村志穂」の名が世界のテコンドー界に知れ渡ったのは2005年7月のことだ。オーストラリアで開催された第14回世界テコンドー選手権。木村は女子型2段の部で見事3位になった。初めて世界の舞台で表彰台の上に立った木村。世界の頂点に一歩、近づいた瞬間だった。

木村志穂(テコンドー・世界選手権銀メダリスト/愛媛県松山市出身)第3回「初戦敗退からの復活」

 2000年8月2日、全国高校総体第2日、陸上女子100メートル障害予選。9組スタートの木村志穂はもてる限りの力を出し、走りきった。しかし6位で予選落ち。彼女は陸上界から身を引くことを決意した。 「陸上は頑張った結果、日本一になることができなかった。自分の限界を感じたんです。テコンドーならもっと大きな舞台に行けるチャンスがあるのかなと」  やるからには頂点を極めたい。木村は自分の能力を開花させる場所は、陸上ではなく、やはりテコンドーだと感じていた。しかし、約1年半のブランクは決して小さくはなかった。2年ぶりに出場した全日本選手権。それまでは必ず決勝に進出していた木村が、まさかの初戦敗退。それも完敗だった。

木村志穂(テコンドー・世界選手権銀メダリスト/愛媛県松山市出身)第2回「ほろ苦い世界デビュー」

「テコンドー」と「陸上」。それが高校時代、木村志穂の生活の基盤だった。彼女はテコンドーでは世界一を、そして陸上では高校日本一を目指し、学校と道場に通う毎日を送った。タイプの全く異なる競技だが、「メンタル面で大きく左右されるという部分はテコンドーも陸上も同じ」と木村は言う。陸上のトレーニングで身についた瞬発力がテコンドーに生かされたとも感じている。だが、やはり二足のワラジをはくのは想像以上に困難を極めた。

木村志穂(テコンドー・世界選手権銀メダリスト/愛媛県松山市出身)第1回「テコンドーとの出合い」

 2009年10月、ロシア・サンクトペテルブルクでテコンドーの世界選手権が開催された。そこで堂々の銀メダル(女子型三段の部)に輝いたのが木村志穂である。4年前の05年、木村は世界選手権で初めて表彰台(銅メダル)に上がった。世界一の座がいよいよ見えてきたと思ったのも束の間、ヒザの靭帯を断裂。2度の手術を乗り越え、今年再び世界の舞台へと戻ってきた木村。今度こそ世界の頂点を極めようと、仕事と両立させながら、練習の日々を送っている。

土橋優貴(浦和レッズレディース/徳島県阿南市出身)第5回「2冠制覇にむけシーズンは終わらない」

 大原学園JaSRAから浦和レッズレディースに移籍したのは2007年3月。1部昇格を決めた後の移籍だったが、土橋の心の中には少しだけわだかまりがあった。  土橋にとって浦和レッズレディースといえばかつてのライバルチームである。TASAKIペルーレFC時代では毎年優勝争いを繰り広げてきた相手への移籍なのだ。一方、前年2位のレッズは優勝した日テレ・ベレーザと差を埋めるべくDF陣の強化に乗り出していた。クラブは日本代表の矢野喬子らとともに、経験豊富な土橋の力を必要とした。土橋もその熱意に押され、赤いユニフォームに袖を通すこととなった。

土橋優貴(浦和レッズレディース/徳島県阿南市出身)第4回「2つのクラブから学んだこと」

 大阪体育大学を卒業後、土橋が籍をおいたのはTASAKIペルーレFCだ。ペルーレは総合宝飾品メーカーの田崎真珠がバックアップし、神戸に本拠地を置くチーム。土橋は社会人生活を送りながらサッカーを続けることとなった。

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