FORZA SHIKOKU
日本の3番手から世界の頂点に立った。 9月に開催された世界柔道選手権。女子48キロ級に出場した浅見八瑠奈は、初戦から準決勝までをオール一本で突破する快進撃をみせる。決勝の相手は前回大会の覇者であり、ランキング1位の福見友子(了徳寺学園職)。積極的に攻め続けた浅見は相手から指導2つを奪い、初出場で初優勝をおさめた。20年近く第一人者だった谷亮子(現参議院議員)が引退し、48キロ級は強豪がひしめく大激戦区になっている。2年後のロンドン五輪出場へ名乗りをあげた22歳に、当HP編集長・二宮清純が話を訊いた。
2007年9月17日、東都大学野球リーグ秋季リーグ。大学野球の聖地・明治神宮球場のマウンドには初先発で初完封を成し遂げた北原郷大が立っていた。 「入院している時は野球がまたできるなんて考えられなかった」 息子の奇跡のような復活劇に父親は驚きを隠せなかった。それもそのはずだ。約半年前、彼は病院のベッドでギランバレー症候群という病魔と闘い、激痛に苦しんでいたのだ。そんな彼が強豪相手に完封劇を成し遂げるなどということを誰が想像できただろうか――。
北原郷大が「ギランバレー症候群」と診断されたのは、2008年1月のことだった。前年、1年生ながらリーグ戦で登板し、秋には1勝を挙げるなど結果を残していた北原。それだけに、周囲はもちろんのこと、彼自身も今後の活躍を期待していたことは想像に難くない。病魔に襲われたのはそんな矢先のことだった。
北原郷大が野球を始めたのは小学1年の時。2人の兄がいた地元の軟式野球チームに入った。しかし、父親曰く、野球に熱中した2人の兄とは違い、北原の関心は野球だけにとどまらなかったという。 「とにかく活発で、よく遊ぶ子でしたよ。チームに入っても、いわゆる野球少年ではなかったですね。野球以外にもいろいろと興味を示す子だったんです。バッティングセンターに行っても、上の2人は一心不乱にバットを振って練習しているのに、郷大だけは1、2球打ったら、今度はバントをしてみたり……。一つのことに執着するというタイプではなかったですね」 しかし、実力は兄2人に決して劣ることはなかった。
東都大学野球リーグは、今や大学野球で最もレベルの高いリーグと言っても過言ではない。最近5年間では、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会のどちらかで毎年優勝校を出している。その同リーグの一角を担っているのが、亜細亜大学だ。多くのプロをも輩出している同大学には当然、甲子園常連校から優秀な選手たちが集結する。その名門校に3年前、甲子園に一度も出場したことのない小さな公立校から一人の投手が入ってきた。徳島県立穴吹高校出身、北原郷大だ。
大宮アルディージャで迎える6年目の今シーズン、藤本は大きな決断を迫られた。3月20日、第3節の鹿島アントラーズ戦で左足ヒザを負傷し途中交代。これまで大きなケガとは無縁だった藤本にとって、初めての長期離脱を余儀なくされた。 「最初は手術をしないで治すことを考えたんですが、結局ダメでしたね」 負傷から2カ月後に人生で初めてヒザにメスを入れた。結果は成功。直後にワールドカップ期間に入りJリーグは中断した。藤本はこの間に懸命のリハビリを経てリーグ再開となる第11節川崎フロンターレ戦で復帰を果たした。全治2カ月と診断を受けたものの、予定よりも大幅に早いカンバックとなった。 「大きな手術は初めてだったけれど、本当にメディカルスタッフのみんなのおかげで順調に復帰できたし、とても感謝しています」
99シーズンに在籍したサンフレッチェ広島ではリーグ年間順位こそ8位に留まったが、年末の天皇杯では準優勝の成績を収めた。4シーズン過ごした後、2003年に藤本は名古屋グランパスへ移籍する。23試合に出場したものの、さらなる出場機会を求めて翌年にはヴィッセル神戸へ。4つのクラブを渡り歩いた藤本にとって大きな財産になっていることがある。それは人との出会いだ。
アビスパ福岡でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた藤本はプロの世界で結果を残すのに3年の年月を要した。 特に2年目のシーズンは藤本にとって厳しいものだった。前年に最下位に終わった福岡は97シーズン、カルロス・オスカール・パチャメを監督として迎えた。藤本はこのアルゼンチン人指揮官との相性が悪く衝突してしまい、まるで干されたような状況におちいる。1年目は10試合に出場していたものの、翌年のリーグ戦出場はわずか1試合。それどころか練習中の紅白戦にも出場させてもらえない日々が続いたのだ。
徳島の夏の風物詩といえば、400年以上の歴史を誇る『阿波踊り』だ。“躍る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々”。毎年8月中旬に行われる伝統の祭りでは10万人が踊り、140万人が見物する。 “阿波踊り”と聞いて、多くのサッカーファンはこの男を思い浮かべるに違いない。大宮アルディージャの藤本主税だ。ゴール後に阿波踊りパフォーマンスを披露し人気者になった藤本は、プロ15年目になった今季も第一線で活躍を続けている。12シーズン連続でゴールを決め、通算50ゴールにも到達する勢いだ。高校時代から全国の舞台で戦い、Jリーグでも走り続ける男は、現在、オレンジのユニフォームを身に纏い、左腕にはキャプテンマークを巻いている。尊敬してやまない選手と同じ“背番号11”を背負いピッチに君臨する藤本は、多くのサポーターに愛される絶対的な存在だ。
松山空港から車で6分。空港から松山市内に伸びる大通りから少し入ったところに森が院長を務める「整形外科つばさクリニック」はある。まだ新しいクリニックの中には診察室や処置室のみならず、奥の部屋ではトレーニングマシンが所狭しと並んでいる。2階に上がると、ボールを投げたり、蹴ったりできるほどのスペースも用意されている。これだけを見れば、まるでどこかのスポーツクラブの練習施設のようだ。
「もうちょっと違う治療があるはず。絶対、治る方法があるんじゃないか」 右大腿直筋断裂で大好きなサッカーを続けられなくなった森には大きな疑問が生じていた。それは消えるどころか、ますます頭の中で膨らんでいく。 「自分で治せるようになりたい」 整形外科医という新たな夢が生まれたのはその時だ。高校卒業後、2年間の浪人生活を経て、地元の愛媛大学医学部へ。27歳で同付属病院の研修医としてドクターとしての第一歩を踏み出した。
サッカー日本代表のベスト16入りは、最悪の状況をも想定したスタッフたちの“準備力”の勝利だった。と同時に、南アフリカでの充実したサポートも大きかったと森は振り返る。 「結論から言うと、ヨーロッパの遠征に非常に近い環境だったのではないでしょうか。水や食事では苦労しなかったんです。日本から帯同した2人のシェフやホテルスタッフが、安全な食料を調達してくれましたから。生野菜は毎食食べられましたし、お米にしても日本から持ってきた分が途中でなくなったのですが、現地で韓国米を見つけて使っていました。すごくおいしくて好評でしたよ」
南アフリカにチームドクターとして帯同することが決まったのは今年の2月。しかし、W杯に向けた準備はそのずっと前から始まっていた。「チームドクターって、23人の代表メンバーが全員、いつでも試合に出られるようにコンディションを整えるのが大前提なんです。だからキックオフの前に仕事の大部分は終わっている。試合が始まってしまえば、こちらができることはケガ人の対応とか限られていますからね」
あの南アフリカでの興奮から、早いものでもう1カ月が経つ。サムライブルーのユニホームに身をまとって戦った選手たちも、ある者は新天地に飛び、また、ある者は所属クラブに戻り、日々のリーグ戦に臨んでいる。非日常の世界から日常の世界に戻ったのは、プレーヤーばかりではない。松山市にある整形外科「つばさクリニック」の院長、森孝久もそのひとりだ。森は今大会の日本代表チームドクターとしてベスト16入りを陰で支えた。
「大学に入学してからは、本当にあっという間でした。もう、最後がきてしまったという感じです」 宇高幸治が甲子園で涙を流したあの夏から、早くも4年が経とうとしている。現在、早稲田大学硬式野球部に所属している彼は今年、最終学年を迎えた。1年の時には同大が33年ぶりに大学日本選手権を制し、日本一となった。だが、当時控えだった宇高が打席に立つことはなかった。その後、レギュラーの座を不動のものとしてからは、リーグ優勝こそあるものの、日本一には到達していない。今春はリーグ王座決定戦で慶応大に惜しくも敗れ、涙をのんだ。その雪辱を果たすチャンスは、もう1度きりしかない。
宇高幸治が野球を始めたきっかけは3つ上の兄の影響だった。地元の小学校で軟式野球チームに入った兄の後をいつも追いかけていたという。当時、宇高はまだ4歳。父親いわく「わんぱくな子どもだった」。野球の何が面白かったのかは、正直言ってわからなかった。しかし、小学生が練習しているグラウンドで、飽きずにボールを追いかけていた。そして、いつしか自然と野球にのめりこんでいった。
宇高幸治が初めて甲子園に行ったのは小学生の時だ。両親と3つ上の兄と4人での家族旅行。幼いながらも、自分よりもはるかに背の高い球児たちを見る目は真剣そのものだったと、父親は語る。 「小さい頃から幸治は試合をじっと観ている子でしたね。普通だったら飽きて、他の遊びをするでしょう。でも、幸治は友達にちょっかいを出されても、観るのをやめようとしなかった。甲子園でも、食い入るように観ていましたよ。根っからの野球小僧なんですよ」 いつしか時は流れ、宇高自身が高校球児となり、甲子園を目指した。しかし、追いかけても追いかけても、なかなか手が届かない憧れの舞台。そして2006年夏、いよいよ甲子園への切符をかけたラストチャンスを迎えた。
7月。いよいよ夏本番の季節だ。今年も甲子園を目指して球児たちの熱戦が繰り広げられる。 4年前、宇高幸治もまた高校野球の聖地を目指し、白球を追い続けていた。愛媛県立今治西高校。同校野球部OBで、甲子園に出場したことのある父親を追い越したいと入学したものの、3年春まで一度もたどり着くことができなかった。 「遠いなぁ……」。宇高は改めて甲子園への道のりの厳しさを痛感していた。
日本代表が史上最多の11個のメダルを獲得したバンクーバーパラリンピックから3カ月が経とうとしている。アイススレッジホッケー日本代表を銀メダルへと導いた中北浩仁は早くも4年後のソチ大会へと頭を切り換えている。無論、目指すは金メダル、世界の頂点だ。そして、彼にはもう一つの夢がある。それはアイススレッジホッケーを名実ともに日本を代表する競技にすることだ。
「カナダは自分を裏切らない」 バンクーバーパラリンピックで日本を初の銀メダルに導いた中北浩仁にとって、カナダは縁の深い国だ。初めて訪れたのは中学1年の夏。夏季休暇を利用してアイスホッケースクールに通い、カナダという国に魅了された。それから毎年夏になると同国へ渡った。そして高校はカナダの強豪校ノートルダム高校へ進学。約3年半、厳しい競争の中、技を磨いた。そんな彼のアイスホッケーのルーツとなったカナダで開催されたパラリンピック。 そこで輝かしい成績を残したことに中北は運命めいたものを感じている。
「カナダとは1000回戦っても、おそらく999回は負けるだろう。勝率は1000分の1。明日こそ、その1試合にしようや。相手の本拠地で、しかもメダルをかけた最高の舞台で彼らをノックオフして、オレたちがメダルをとるんだ!」 この言葉に目の前の選手たちの表情がみるみると変わっていくのが、中北浩仁にはわかった。 「よし、明日の試合だけは絶対に勝ってやろう!」 日本のアイスホッケー界にとって、史上初となるメダルをかけた決戦を明日に控え、アイススレッジホッケー日本代表は一つになっていた。
2010年3月18日(現地時間)、日本列島に激震が走った。カナダ・バンクーバーで開催されたパラリンピック。アイススレッジホッケー日本代表が強豪カナダを破り、史上初の決勝進出、そして初のメダル獲得を決めたのだ。アイスホッケーはカナダの国技であり、国民に最もポピュラーなスポーツとして愛されている。実力も世界屈指を誇り、まさにアイスホッケーの本場である。その強豪国相手に、しかも会場は地元ファンで埋めつくされた完全アウェーの状態での日本の勝利は、日本アイスホッケー界の歴史を大きく塗り替える快挙だった。 試合終了の合図とともに、ベンチで吠えながらひと際大きくガッツポーズをする男がいた。日本代表ヘッドコーチ中北浩仁、46歳だ。決して妥協を許さなかった中北の8年間の熱血指導が花開いた瞬間だった。日本の栄光はこの男なくして語ることはできない。
「勝ち点1を拾うサッカーはしない」。湘南ベルマーレ反町康治監督は、2010シーズンの目標をJ1残留としながらも、あくまで勝ちにこだわるサッカーを目指すと開幕前に宣言した。 3月6日、クラブにとって11年ぶり、阿部にとっては3年ぶりのJ1の舞台がいよいよ幕を開けた。第1節、2節と途中出場になった阿部は、これまでになくクラブ全体の動きが固くなっているように感じた。過去にJ2のみで戦ってきた多くの選手は、J1の雰囲気に呑まれてしまっていたのだ。
「終わりよければ全てよし」――。 阿部吉朗と湘南ベルマーレにとって、09シーズンはそんな一年だった。激しい昇格争いを繰り広げたヴァンフォーレ甲府との直接対決はシーズンがクライマックスにさしかかった第49節に行われた。アウェーに乗り込んだ湘南は、負けられない戦いに挑むこととなった。
03年から本格的にFC東京でプロサッカー選手のキャリアをスタートさせた阿部は、順調な滑り出しを見せた。リーグ戦では27試合に出場し6ゴール。カップ戦も含めると二けたの得点をマークするなど1年目からクラブの中心選手となっていた。