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「一度も野球を嫌いになったことはないですよ」 高校3年間はテレビを観ることも携帯電話を持つことも許されなかった。お正月休みの1週間を除けば、休日は1年に3日ほど。あとは毎日6時間以上の練習の毎日だった。 「夕方4時頃から練習が始まって、終わるのは10時過ぎ。それから寮に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、洗濯して……あとはもう寝るだけです」。 まさに青春の全てを野球に捧げた3年間。どんなに練習が厳しくても、辛くても、福島には野球のない生活は考えられなかった。
2011年は大阪桐蔭高校出身者が熱い。パ・リーグでは中田翔(北海道日本ハム)、浅村栄斗(埼玉西武)、セ・リーグでは平田良介(中日)、そして海の向こうでは西岡剛(ツインズ)が華々しいプレーで観客を沸かせている。彼らが3年間、泥まみれになって白球を追い続けたグラウンドで、この男もまた野球の礎を築いた。福島由登。今から3年前の夏、常葉菊川との決勝戦で、松坂大輔(横浜)以来となる完封勝ちを収めたエースだ。
今夏、ニューヨーク・メッツが重大な岐路を迎えようとしている。 これまでチームを支えてきたカルロス・ベルトラン、フランシスコ・ロドリゲス、ホゼ・レイエスの3人が、今季終了後に揃ってFA権を獲得する。彼らをすべて残留させるのはどうやら難しそうなだけに、チーム側が今のうちに誰かを放出し、見返りを得ておこうと考えるのは当然である。おかげで3人の周囲には、開幕直後からトレードの噂が絶えず飛び交い続けてきた。
故郷のクラブでルーキーイヤーの開幕戦にデビュー。順調なプロの第一歩を踏み出した越智だったが、その後はなかなか出番に恵まれなかった。 「フィジカル面も足りなくて、思うようなプレーができなかった。自分に対してイライラしながらサッカーをしていた。余裕がないので、周りも見えなくて余計に悪い方向に行っていましたね」
次世代の「ミスター愛媛」として期待されている選手である。 越智亮介、21歳。大分トリニータのユースから故郷のクラブでプロになって3年目。主にボランチで昨季は31試合に出場した。イヴィッツア・バルバリッチ監督からも「プレーにクリエイティビティがある」と評価を受けている。
現役最強と目される2人のボクサーが、9月、11月と相次いで試合を行なうことが決まった。 無敗の5階級制覇王者フロイド・メイウェザーはビクター・オルティスと、8階級をまたいで活躍を続ける現代の拳豪マニー・パッキャオはファン・マヌエル・マルケスと、それぞれラスベガスで雌雄を決する。
あの古田敦也がトライアスロンにはまっている。 ゴールデングラブ賞10回、ベストナイン9回。「ミスタースワローズ」と呼ばれた球界を代表するインテリジェンスな彼が体力の限界に挑戦しているのだ。瞬発力とスキルを必要とされる野球、持久力とタフな精神力を要求されるトライアスロン。同じスポーツでも真逆に位置するスポーツをまたぐのは珍しい。
横浜F・マリノスのユース時代にJデビュー。順風満帆だったサッカー人生に影が差したのは、正式にトップチームに昇格した2009年だった。サテライトの試合に出ていた齋藤は相手と接触し、左ヒザを痛める。 「それまでヒザのケガは経験がなくて、打撲だと思ったんです。でもボールを触ったら超痛い。すごく調子良かったんですけど、トレーナーに言ったら、すぐ交代になりました」
愛媛のメッシと呼ばれている男がいる。 愛媛FCの背番号27、齋藤学だ。今季、横浜Fマリノスから期限付き移籍で愛媛にやってきた。ここまで(15節終了時)全9試合に出場し、3得点。彼の活躍もあって昨季まで得点力不足に泣いたチームが首位と勝ち点5差の8位につける原動力になっている。
マイアミ・ヒートが5年ぶりのファイナル制覇に近づいている。 ヒートとダラス・マーベリックスの顔合わせとなった2011年のNBAファイナルは、2戦を終えて1勝1敗。第2戦では最終クォーターに15点差を逆転されて、ヒートは初黒星を喫した。それでも大事な6、7戦を地元マイアミでプレーできるだけに、未だにこのシリーズはヒート有利と見る向きが多い。
日本タイトルへの挑戦失敗から5カ月。大村は再びリングに立っていた。2月14日、後楽園ホール。相手の藤沢一成(レパード玉熊)はノーランカーだった。格下相手に「きれいに勝ちたい」「倒したい」との思いはこれまで以上に強かった。
2010年9月4日、後楽園ホール。これまでのボクシング人生を賭ける一戦がやってきた。日本ライト級タイトルマッチ。大村にとってはプロ18戦目で初のタイトル挑戦だ。相手は荒川仁人(八王子中屋)。2度目の挑戦で日本王座を獲得したテクニシャンである。
5月中旬に行なわれた宿敵レッドソックスとの3連戦の真っ最中に、ヤンキースを予期せぬ激震が襲った。 14日の試合前のこと――。打率1割台の不振ゆえに、この日は打順9番に降格されたホルヘ・ポサダの出場が、急きょキャンセルされたのだ。 当初は「軽い故障か」と問題視されていなかったが、ゲーム中にブライアン・キャッシュマンGMが異例の緊急会見を開き、「不出場はケガが原因ではない」と発表。一部の地元メディアはここですかさず「9番降格に激怒したポサダが欠場を志願した」と報道し、記者席も一時騒然となった。
イタリアを1周する自転車レース「ジロ・デ・イタリア」。フランス1周の「ツール・ド・フランス」、スペイン1周の「ブエルタ・ア・エスパーニャ」と並んで「グランツール」と呼ばれる世界の三大ステージレースだ。100年以上の歴史を誇る世界的なレースで、5月9日の第3ステージで悲しい事故が起こった。タイトなコーナーを下っている最中に、ワウテル・ウェイラント(ベルギー)選手が転倒、前頭部を強打し、還らぬ人となったのだ。ジロ102年の歴史上では4人目、グランツールでみるならば1995年のファビオ・カサルテッリ(イタリア)選手以来のレース中の死亡事故ということになる。
デビュー戦でKO負け。どん底に叩き落された大村は次の試合までの4カ月間、悶々とした日々を過ごした。「今度こそ勝ちたい」と思えば思うほど、「今度負けたらどうしよう」との不安が頭をもたげてくる。2戦目の相手はプロのでの実績はなかったが、アマチュア経験の豊富な選手だった。映像で見ると、確かにボクシングはうまかった。
大村は4人兄弟の3男坊として生まれた。光矢という名前は「光る矢のようにボールを投げてほしい」との父の願いが込められたものだ。愛媛といえば野球王国。出身の西条市にある西条高は夏の甲子園で全国制覇の経験もあり、往年の名投手で巨人の監督も務めた藤田元司(故人)ら多くのプロ野球選手を輩出している。近年では阪神の秋山拓巳もそのひとりだ。野球好きの父は、プロ野球選手になる夢を息子たちに託していた。
世界ボクシング界において今年上半期最大のビッグファイトと呼べる一戦が間近に迫っている。 現代の拳豪マニー・パッキャオが7日、保持するWBO世界ウェルター級王座をかけて元3階級制覇王者“シュガー”・シェーン・モズリーと対戦する。これまで6階級制覇(事実上の8階級制覇という声もある)を達成してきた英雄にとって、これが2011年初のファイト。最近ではパッキャオがリングに立つたびに世界的な注目を集めるようになっただけに、今回も興行的には莫大な成功を収めることはまず間違いない。
倒されても倒されても立ち上がる男がいる。 日本スーパーフェザー級3位の大村光矢(三迫)だ。これまでの戦績は13勝(9KO)5敗1引き分け。昨年9月には、階級をひとつ上げ、荒川仁人(八王子中屋)の持つ日本ライト級王座に挑戦したが、2Rにダウンを喫し、5R54秒TKOでリングに散った。過去の試合でも序盤にダウンを奪われたことが5度もある。しかし、そのたびに立ち上がり、スイッチが入ったように相手に襲いかかった。そのうち2度は派手な逆転KOで勝ち名乗りを受けた。
1989年のプロ野球ドラフト会議といえば、史上最多の8球団から指名を受けた野茂英雄だ。クジ引きの結果、野茂の交渉権は仰木彬(故人)監督率いる近鉄が獲得。翌年、野茂は期待通りの活躍を見せた。しかし、この年のドラフトで1位指名を受けた選手、特にピッチャーは野茂の外れ1位も含め、翌年のルーキーイヤーから活躍した者が多かった。セ・リーグでは中日の与田剛と広島の佐々岡真司が激しいセーブ王争いを繰り広げれば、パ・リーグでは西武の潮崎哲也がセットアッパーとしてチームの優勝に大きく貢献した。そして忘れてならないのが、唯一先発として堂々と野茂との新人王争いに挑んだ日本ハムの酒井光次郎である。
東日本大震災に伴う福島第1原発の事故による放射性能汚染の拡散と事態の長期化は、国内のスポーツ界に大きな影響を及ぼしている。
「とんでもない相手とやることになったなぁ……」 松山商2年生エース・酒井光次郎は、準々決勝進出の喜びよりも、次戦の相手の方が気になっていた。1984年、初戦敗退を喫した春の雪辱を果たそうと、松山商は夏の地方大会を制し、再び甲子園へと乗り込んだ。1、2回戦を完封勝ちし、3回戦も打撃戦を制して15年ぶりに準々決勝へとコマを進めた。そして次戦の相手は、桑田真澄と清原和博の“KKコンビ”擁するPL学園だった。
“近年稀に見る大混戦”――。 今週末から開幕する今季のNBAプレーオフについて、そんなふうに語る識者は多い。3連覇を狙うロサンゼルス・レイカーズ、マイケル・ジョーダン時代以来のファイナル制覇を目論むシカゴ・ブルズ、怪物レブロン・ジェームスをはじめとする“ビッグスリー”の力で頂点を目指すマイアミ・ヒート、伝統の強豪サンアントニオ・スパーズ、通算18度目の優勝を狙うボストン・セルティックス……と実力派チームは目白押し。
大阪出身の酒井光次郎だが、高校は愛媛県の強豪・松山商に進学した。 「中学の先輩のお父さんが松山市出身で、そのおじさんにあたる方が松山商の窪田欣也監督だったんです。それで先輩を筆頭に、うちの中学からは毎年のように松山商に行く選手がいました。僕もその流れで行った一人ですね」 中学時代、何度か松山商の練習を見に行ったことがあったが、そのあまりの厳しさに度肝を抜かれた。しかし、同時に「ここで野球をやってみたいな」という憧れの念を抱いた酒井は、中学卒業後、大阪を離れて海を渡った。
江戸が火の海に包まれたのは今から354年も前のことだ。旧歴の1月、北西からの強風にあおられ、まちの6割以上が焦土と化し、10万人を超えると言われる人命が失われた。明暦の大火、俗に振袖火事と呼ばれている。
1989年、プロ野球ドラフト会議で日本ハムから1位指名を受けたのが、酒井光次郎だ。彼は松山商時代、2年生エースとして春夏連続で甲子園に出場し、卒業後は近畿大へと進学。その近畿大では3年生からエースとなり、全日本大学野球選手権では初優勝の立役者となった。そして、“ドラ1”でのプロ入り――。ここまでは順風満帆な野球人生だった。だが、プロではわずか7年で現役生活に終止符を打った-。その後は台湾へ渡り、五輪代表、プロ球団のコーチを務める。横浜でのスカウト、スコアラーを経て今季、日本の独立リーグの一つ、BCリーグ・信濃グランセローズの投手コーチに就任した。わずか15歳で郷里を離れ、愛媛、東京、台湾、横浜そして長野へ――。波乱万丈とも言うべき酒井の野球人生を追った。