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今月上旬に開催されたウインターミーティングの時期を前後して、逆襲に向けて必死のヤンキースが大補強を敢行した。 まずは今オフの目玉と言われたCC・サバシアを7年1億6100万ドルもの大金を費やして強奪。続いて才能ではメジャー屈指のAJ・バーネットに対しても、市場価格を大きく上回る5年8250万ドルを提示して首を縦に振らせた。 まるで数年前までのヤンキースを思わせる札束攻勢で、2人の上質な先発投手を首尾よくゲット。これで来季の先発ローテーションはサバシア、バーネット、王建民、ジョバ・チェンバレンを含む豪華なものになる。 さらにマーケットに出ているデレック・ロウ、ベン・シーツらまで狙っているというのだから恐れ入る。絶対に負けられない来季に向けて、ヤンキースはこの時点で早くも戦闘態勢を整えたと言って良いだろう。
12月のハワイといえば、ホノルルマラソン。すでに36回目を迎える本大会は毎年多くの日本人参加者を集める大会として知られている。1995年のピーク時には、3万5千人を超える全体参加者があり、日本人は2万人を超えていた。昨年の全体参加者は2万7千人で、日本人は1万9千人。人数は若干減ったものの、近年のマラソンブームの影響からか、根強い人気を証明する結果となっていた。ところが今年は日本人が約5千人減の1万4千人。日本人参加者が確実に減少していることを印象付けた。マラソンブームにも陰りがみられるのか……!?
朗報を受けての会見で涙が止まらなかった。「自然とこみ上げてくるものがありました」。社会人時代にアンダースローに転向して5年、NPBを目指してアイランドリーグにやってきて3年。「諦めなければ夢は叶う」。後輩へのメッセージを、塚本浩二は自らに言いきかせるように語った。
「3冠王が獲れなかったことが心残りですね」 3年間のアイランドリーグ生活を振り返っての丈武の第一声だった。2007年は13本塁打、55打点。今季も7本塁打、52打点で2年連続の本塁打王、打点王に輝いた。しかし、打率は07年が.321、08年が.277。首位打者には届かなかった。今でもタイトルを獲った充実感より、“心残り”の思いのほうが強い。
近年はニューヨークのMLBチームに冴えがみられないが、代わりに(?)NFLの2チームが隆盛のときを迎えている。 今季はこの街に本拠を置くジャイアンツとジェッツがともに好調なプレーを継続。どちらも地区首位を堅守し、それぞれプレーオフ進出を濃厚なものとしている。そしてこのまま両チームが勝ち進み、来年2月、米スポーツ最高の檜舞台スーパーボウルで雌雄を決することになるかもしれない……。
「野球やっていて、うれしくて泣いたのは初めてでした」 オリックスに入団が決まった西川雅人が、今季、うれし涙をみせた試合があった。9月21日、坊っちゃんスタジアムでの香川オリーブガイナーズ戦。西川が所属する愛媛マンダリンパイレーツは優勝までマジック1と迫っていた。この試合で勝つか引き分ければ悲願のリーグ初制覇が決まる。
熊代聖人が試合に必ず持って行くお守りがある。大好きだった祖父の遺影だ。小さい頃の熊代はいわゆる“おじいちゃん子”。祖父の家に遊びに行けば、たった一人でも泊まりたいとせがみ、職場について行ったこともあった。祖父もまたそんな熊代を「マー」と呼び、かわいがっていたという。 「赤ちゃんの頃から祖父のヒザの上があの子の指定席でした。“マーはプロ野球選手になるんじゃ”。テレビでプロ野球を観ながら祖父は念仏を唱えるように、いつもあの子にそう言っていたんです」と母・美樹は語る。熊代の野球人生は祖父なくしては語れないのである。
2008年のボクシング界で最大規模のビッグマッチが間近に迫っている。 12月6日、「ゴールデンボーイ」の愛称で知られるオスカー・デラホーヤがフィリピンの英雄マニー・パッキャオと激突。過去世界6階級を制覇したゴールデンボーイが、現役パウンド・フォー・パウンド最強とも呼ばれるハードパンチャーと対戦するのだ。デラホーヤが今年限りの引退をほのめかしていることもあり、この試合は当然のように爆発的な話題を呼んでいる。
「国体」という響きに皆さんは何を感じるのだろうか? 中学生から競技スポーツ一辺倒だった私にとって「国体」という響きは「憧れ」であり、「目標」であった。インターハイ、国体に出ることは選手としての大きなステイタスであった訳だ。
新チームがスタートしてからも、熊代聖人の心には延長サヨナラ負けを喫した甲子園での敗戦が色濃く残っていた。 「誰も言わないけれど、負けたのは自分の責任だと強く感じていました。だからこそ、また絶対に甲子園に行こうと。もう、死に物狂いで練習しました」 熊代にとって甲子園はもう“憧れの舞台”ではなく“雪辱の場”となっていた。
2006年8月8日、熊代聖人は甲子園のマウンドに立っていた。 「うわっ、すっげぇ。オレ、ほんとに甲子園に来たんだ……」 幼少時代から憧れ続け、テレビでしか見たことのなかった夢舞台。そこに自分がいることが熊代は嬉しくて仕方がなかった。だが、「夢と感動」とともに、球児に「試練」を与えるのが甲子園だ。 「いやぁ、今思い出しても悔しいですね」 2年以上も前のことだというのに、熊代には今でもあの時の悔しさが残っている。それほど大きな試練が熊代を待ち受けていた。
フィリーズが4勝1敗でレイズを下した今季のワールドシリーズは、残念ながら盛り上がりに欠けた感は否めなかった。 テレビ視聴率は史上最低。その最大の理由は、フィラデルフィアで行われた3〜5戦が悪天候の影響をもろに受けてしまったことなのだろう。
「ほら、あそこ。今、セカンドを守っているのが熊代ですよ」 案内をしてくれたマネジャーが指さした向こうには初々しさがまだ残る青年の姿があった。熊代聖人、19歳。今春、愛媛の強豪・今治西高校から日産自動車に入社した社会人1年生だ。 高校まで投手一筋できた熊代は、甲子園のマウンドを3度経験。高校3年の夏にはエースとしてチームをベスト8に導いた。その熊代が今年、入社を機に打者に転向した。それはプロの道を切り拓くための勇断だった。
スペインで3つ目のクラブとなったラス・パルマスは、2部とはいえリーガでも屈指の名門クラブだ。福田は07−08シーズン、この地に活躍の場を求め、念願の1部リーグ昇格を目指していた。しかし、シーズンの開幕早々に、生涯で初めての経験という右腿の肉離れを起こし、2週間後にもう一度、同じ箇所を痛めてしまう。序盤に躓いたことで、出場機会が巡ってくることは少なくなった。
「本当に死んでしまうのではないか」 メキシコ・パチューカに移籍しての初練習で、福田の表情は青ざめていた。練習自体が厳しかったわけではない。その場所が問題だったのだ。移籍当初、福田を苦しめたのは、パチューカという場所だった。なんと標高が2400メートル。富士山の6合目にあたる高地が、福田にとってホームタウンになったのだ。
楽しみなNBAの新シーズン開幕が間近に迫っている。 昨季のNBAはセルティックス、レイカーズという伝統チームの台頭で、近年最大級の盛況シーズンとなった。迎える今季も魅力的な役者が多いことでは変わらず、リーグ全体の人気復活をさらに押し進める1年となりそうである。 そこで今回は、数ある強豪の中から特に注目すべき4チームをピックアップして見どころを探っていきたい。ここで取り挙げたセルティックス、レイカーズ、キャブス、ロケッツは08〜09年を通じて様々な話題を呼んで行くことはまず間違い無い。
10月といえばプロ野球のクライマックスシリーズ、ラクビーではトップリーグの真っ最中。陸上ではトラックシーズンの最後で、いよいよロードに移行しようという季節だ。それぞれの種目ならでは「10月」があるが、国内では体育の日が設定されているだけあってスポーツ花盛り。週末は観戦に忙しいという方も多いのではないだろうか。 トライアスロンにとっても「10月」は大切な季節。世界のアイアンマンシリーズの頂点である「ハワイアイアンマン・ワールドチャンピオンシップ」が開催されるからだ。ちなみに今年は10月11日に開催された。
念願の海外移籍を果たした福田は、2004年にパラグアイに降り立った。移籍先のグアラニは国内リーグの屈指の強豪クラブで、南米クラブ王者を決定するリベルタドーレス杯への出場権も持っていた。
9月、2010年南アフリカW杯アジア最終予選が開幕した。日本代表は初戦となるアウェーでのバーレーン戦に勝利し、4大会連続本大会出場を目指して好発進をした。彼らが勝利した1週間後、全く異なる形で世界に挑戦しヨーロッパの新天地でシーズン開幕を迎えた日本人FWがいる。
ヤンキースが凋落した今季、ニューヨークのもう1つの雄・メッツにかかる地元の期待は大きかった。 そのメッツも序盤こそ低迷したが、シーズン中盤にジェリー・マニエルが新監督に就任して以降はチーム状態が一気に向上。9月中旬の時点でナリーグ東地区の首位をキープし、前途は洋々と思われた。 しかし……3.5ゲーム差で迎えた最後の17試合で7勝10敗と崩れたメッツは、あっさりと地区2位に転落。さらにワイルドカード争いでもブリュワーズに敗れ、プレーオフ進出すら逃してしまった。
「シドニー五輪を目指して、本格的にビーチバレーをやらないか?」 突然、思いもよらない電話がかかってきた。声の主は、前年に国内企業では初めてとなるビーチバレーボールチームを立ち上げた株式会社ダイキ(松山市)の専属コーチ、瀬戸山正二(現・日本ビーチバレー連盟理事長)だった。チームには佐伯美香、徳野涼子、清家ちえと後に五輪出場を果たす有望選手がそろっていた。 「まさか自分が誘われるなんて思ってもみなかった」 楠原にとっては青天の霹靂ともいうべき出来事だった。
「強くなりたい」という一心で楠原千秋が進学先に選んだのは大分県の扇城高校(現・東九州龍谷高)だった。 実は楠原は年が明けてもまだ進学先を決めてはいなかった。1月の台湾遠征に呼ばれた時点でも、まだ志望校すらはっきりしていなかったのである。そんな時、遠征で一緒になった友人が扇城高に進学することを聞いた。楠原には初めて耳にする校名だった。
今週は伝統のヤンキースタジアムにとって最終週――。 しかしこのメモリアルウィークにヤンキースがまさか消化ゲームを戦う羽目になるとは誰も想像できなかっただろう。過去13年連続でポストシーズンに駒を進めて来た常勝軍団が、今シーズンは久々にプレーオフを逸することがすでにほぼ確定的となってしまった。 この「歴史的な失敗」の原因はいったいどこにあったのか。一般に最大の誤算として考えられている故障者続出(王建民、ホルヘ・ポサダ、松井秀喜ら)以外に、今回は筆者が考える3つの敗因を付け加えていきたい。
子供の頃、力士をみると「お相撲さん」と言って注目したものだ。あの常人離れした体格、びんつけ油の独特の匂い、体格から想像できない身のこなしなどは子供心に興味と憧れを抱いていた。相撲のシーズンになると、夕方のおじいちゃんは必ずTVの前。相撲を観戦することを仕事のように日課にしており、そんなおじいちゃんを見ていた記憶が残っている。
楠原千秋がバレーボールを始めたのは小学3年の時だった。 「バレー部の先輩に誘われたからという本当に単純な理由なんです。運動部というと、バレーかバスケしかなくて、選択肢がなかったこともあります。まぁ、スポーツは好きでしたし、当時は身長も高い方だったので、やってみようかなと」 そんな軽い気持ちで始めたバレーだったが、楠原はすぐにその面白さにのめりこんでいった。