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宇高幸治が野球を始めたきっかけは3つ上の兄の影響だった。地元の小学校で軟式野球チームに入った兄の後をいつも追いかけていたという。当時、宇高はまだ4歳。父親いわく「わんぱくな子どもだった」。野球の何が面白かったのかは、正直言ってわからなかった。しかし、小学生が練習しているグラウンドで、飽きずにボールを追いかけていた。そして、いつしか自然と野球にのめりこんでいった。
全世界の注目を集めた「レブロンの夏」は、衝撃的なエンディングを迎えた。 7月8日、ESPNにて1時間枠で生中継された「The Decision(決断)」というショーの中で、レブロン・ジェームスはマイアミ・ヒートへの移籍を発表。 今オフにFAとなった「キング・ジェームス」の争奪戦は、誰も予想だにしなかった形でここに決着した。ドウェイン・ウェイド(ヒートに残留)、クリス・ボッシュ(ラプターズよりFA)と併せ、史上空前の「スリーキングス」がマイアミの地に降り立つことになったのである。
世界でもっとも大きなスポーツイベントは? 答えは先日まで大熱戦が繰り返されたサッカーワールドカップ。サッカーを普段見ないような人まで、ついつい試合を見てしまうほど不思議な魅力がある。約1カ月間、世界中の人々が酔いしれた。しかし、この祭典は4年に1度。毎年開催されるイベントの中で最大なのは、何といってもサイクルロードレースの頂点であるツール・ド・フランスだ。まだまだ日本ではメジャースポーツではないサイクルロードレースだが、ヨーロッパではサッカー、モータースポーツに続く人気競技。ツール期間中、毎日10億人が現場やTVでレースに釘付けとなる。
宇高幸治が初めて甲子園に行ったのは小学生の時だ。両親と3つ上の兄と4人での家族旅行。幼いながらも、自分よりもはるかに背の高い球児たちを見る目は真剣そのものだったと、父親は語る。 「小さい頃から幸治は試合をじっと観ている子でしたね。普通だったら飽きて、他の遊びをするでしょう。でも、幸治は友達にちょっかいを出されても、観るのをやめようとしなかった。甲子園でも、食い入るように観ていましたよ。根っからの野球小僧なんですよ」 いつしか時は流れ、宇高自身が高校球児となり、甲子園を目指した。しかし、追いかけても追いかけても、なかなか手が届かない憧れの舞台。そして2006年夏、いよいよ甲子園への切符をかけたラストチャンスを迎えた。
7月。いよいよ夏本番の季節だ。今年も甲子園を目指して球児たちの熱戦が繰り広げられる。 4年前、宇高幸治もまた高校野球の聖地を目指し、白球を追い続けていた。愛媛県立今治西高校。同校野球部OBで、甲子園に出場したことのある父親を追い越したいと入学したものの、3年春まで一度もたどり着くことができなかった。 「遠いなぁ……」。宇高は改めて甲子園への道のりの厳しさを痛感していた。
もうアメリカを、「サッカー不毛の地」などと呼ぶべきではないのだろう。 今回の南アフリカW杯に際し、アメリカ国内の盛り上がりは実際にかなり凄いものがあった。特にアメリカ代表のゲーム中は、ニューヨーク市内の多くのスポーツバーが超満員。MLBのヤンキースやメッツ戦の現場などでも、記者や選手が自身の仕事をそっちのけ(?)でサッカーの結果ばかりを気にしていたほど。
日本代表が史上最多の11個のメダルを獲得したバンクーバーパラリンピックから3カ月が経とうとしている。アイススレッジホッケー日本代表を銀メダルへと導いた中北浩仁は早くも4年後のソチ大会へと頭を切り換えている。無論、目指すは金メダル、世界の頂点だ。そして、彼にはもう一つの夢がある。それはアイススレッジホッケーを名実ともに日本を代表する競技にすることだ。
「カナダは自分を裏切らない」 バンクーバーパラリンピックで日本を初の銀メダルに導いた中北浩仁にとって、カナダは縁の深い国だ。初めて訪れたのは中学1年の夏。夏季休暇を利用してアイスホッケースクールに通い、カナダという国に魅了された。それから毎年夏になると同国へ渡った。そして高校はカナダの強豪校ノートルダム高校へ進学。約3年半、厳しい競争の中、技を磨いた。そんな彼のアイスホッケーのルーツとなったカナダで開催されたパラリンピック。 そこで輝かしい成績を残したことに中北は運命めいたものを感じている。
夏場が近づいても、松井秀喜がなかなか全開といかない。 6月中旬のドジャース3連戦では計8打数4安打5打点と大爆発。これで一気に波に乗るかと思いきや、続くブルワーズとのシリーズでは3試合でわずか1安打のみ。この時点で打率.は261まで落ち込んだ。メジャー通算150本塁打まであと1本と迫りながら、もう10試合も足踏みを続けている。 特に内容の悪い打撃に終始(4打数0安打)した6月16日のブルワーズ戦後には、松井本人も「うーん、打ち損じが多かったかな」と渋い顔だった。
ニューヨーク(NY)には無数に参加型スポーツイベントがあるのだが、その内容や大きさは様々。参加者4万人を超えるNYマラソンは世界最大規模だし、「Five Boro Bike Tour」という自転車イベントも3万人を超える。近年では「NY Triathlon」がすごい人気で、約3000人の枠が5時間でいっぱいになるとか。またエンパイア・ステート・ビルを駆けのぼるようなちょっと変わった大会もある。その中で参加者100人にも満たないのに、やたらとスケールの大きなイベントが「Manhattan Island Marathon swim」。そう、あのマンハッタン島を泳いで1周しようというものだ。
「カナダとは1000回戦っても、おそらく999回は負けるだろう。勝率は1000分の1。明日こそ、その1試合にしようや。相手の本拠地で、しかもメダルをかけた最高の舞台で彼らをノックオフして、オレたちがメダルをとるんだ!」 この言葉に目の前の選手たちの表情がみるみると変わっていくのが、中北浩仁にはわかった。 「よし、明日の試合だけは絶対に勝ってやろう!」 日本のアイスホッケー界にとって、史上初となるメダルをかけた決戦を明日に控え、アイススレッジホッケー日本代表は一つになっていた。
2010年3月18日(現地時間)、日本列島に激震が走った。カナダ・バンクーバーで開催されたパラリンピック。アイススレッジホッケー日本代表が強豪カナダを破り、史上初の決勝進出、そして初のメダル獲得を決めたのだ。アイスホッケーはカナダの国技であり、国民に最もポピュラーなスポーツとして愛されている。実力も世界屈指を誇り、まさにアイスホッケーの本場である。その強豪国相手に、しかも会場は地元ファンで埋めつくされた完全アウェーの状態での日本の勝利は、日本アイスホッケー界の歴史を大きく塗り替える快挙だった。 試合終了の合図とともに、ベンチで吠えながらひと際大きくガッツポーズをする男がいた。日本代表ヘッドコーチ中北浩仁、46歳だ。決して妥協を許さなかった中北の8年間の熱血指導が花開いた瞬間だった。日本の栄光はこの男なくして語ることはできない。
今季のNBAファイナルは、2年ぶりに東西の横綱対決が実現することになった。過去通算15度の優勝を誇るロスアンジェルス・レイカーズと、17度優勝のボストン・セルティックス。リーグを代表する名門フランチャイズ同士が、そのプライドを賭けて頂上決戦に臨むのだ。 「今年こそレブロン・ジェームスとコービー・ブライアントの対決が観たかった」とキャブズの早期敗退を残念に感じているファンは少なくないのだろう。それでもそのドリームマッチを除いて考えたとき、レイカーズ対セルティックス戦こそが最も待望されたマッチアップであることに疑いの余地はない。
「勝ち点1を拾うサッカーはしない」。湘南ベルマーレ反町康治監督は、2010シーズンの目標をJ1残留としながらも、あくまで勝ちにこだわるサッカーを目指すと開幕前に宣言した。 3月6日、クラブにとって11年ぶり、阿部にとっては3年ぶりのJ1の舞台がいよいよ幕を開けた。第1節、2節と途中出場になった阿部は、これまでになくクラブ全体の動きが固くなっているように感じた。過去にJ2のみで戦ってきた多くの選手は、J1の雰囲気に呑まれてしまっていたのだ。
「終わりよければ全てよし」――。 阿部吉朗と湘南ベルマーレにとって、09シーズンはそんな一年だった。激しい昇格争いを繰り広げたヴァンフォーレ甲府との直接対決はシーズンがクライマックスにさしかかった第49節に行われた。アウェーに乗り込んだ湘南は、負けられない戦いに挑むこととなった。
イースタン・カンファレンス・セミファイナルでセルティックスにまさかの敗北を喫し、キャブズとレブロン・ジェームスの2009〜10年シーズンは終わった。 シーズン中はNBAのベストレコード(61勝)を勝ち取り、プレーオフ開始前は優勝候補の筆頭に挙げられながら、昨季に続いて志半ばでの失速。順風満帆で進んできたキング・ジェームスのキャリアに、ここでほとんど初めてと言ってよい大きな影が差し込んだ感がある。
イタリアを1周する自転車レース「ジロ・デ・イタリア」。この世界的なレースに8年ぶりに日本人が出場、そして大活躍し注目を集めている。その名も「新城幸也」。何度か、このコラムでも取り上げた事があるのでご存知の方もいるだろう。その彼が自転車レースの頂点であるジロでステージ3位に入るなど目覚ましい活躍を見せているのだ。
03年から本格的にFC東京でプロサッカー選手のキャリアをスタートさせた阿部は、順調な滑り出しを見せた。リーグ戦では27試合に出場し6ゴール。カップ戦も含めると二けたの得点をマークするなど1年目からクラブの中心選手となっていた。
デンソーカップで代表に選ばれた阿部は、だんだんとJクラブから注目される存在となっていた。その中でも阿部の才能を最も評価していたのはFC東京。特に当時クラブを率いた原博実は、FWとしての阿部の才能を買っていた。
5月1日にラスベガスで行なわれたフロイド・メイウェザー対シェーン・モズリーの一戦(ウェルター級12回戦)は、結局はメイウェザーの圧勝に終わった。 戦前は接戦が予想されたが、フタを開けてみれば完全なワンサイド。3人のジャッジがそれぞれ大差(119−109が2人、118−110が1人)をつけるメイウェザーの独壇場だった。
2010シーズンJ1第8節、湘南ベルマーレ阿部吉朗のヘディングがゴールに突き刺さった瞬間、平塚競技場は沸きに沸いた。今季11年ぶりにJ1のピッチに戻ってきた“湘南の暴れん坊”は、阿部の1ゴールを守りきり、ベガルタ仙台を下して今季2勝目を上げた。決勝点を決めた阿部は「練習通りのゴール。シーズン1点目ということもあるけれど、勝ち点3を取れたことが嬉しい」と、自らのゴールを振り返った。
2006年3月4日。愛媛県総合運動公園陸上競技場。愛媛FCはJ2に昇格し、記念すべき開幕戦をホームで迎えた。相手は横浜FC。三浦知良、城彰二と元日本代表のスターが2トップを組むとあって、1万人を超える観客がスタジアムに足を運んだ。試合はスコアレスドローかと思われた88分、途中出場のMF猿田浩得が値千金のゴールを決めて1−0。愛媛が歴史的な1勝をあげ、スタンドは大いに沸いた。
「こんな状態で、本気でJ2狙っているのかな……」 Jリーガーになることを目標にJFLの愛媛FCにやってきた赤井を待ち受けていたのは、予想以上に厳しい現実だった。練習場は土のグラウンド。タックルや転倒で生傷は常に絶えなかった。しかも専用の練習場ではなかったため、時間帯によっては空いたグラウンドを求めて移動する“ジプシー”生活を余儀なくされた。さらにはチームスタッフも少なく、練習や試合前後の道具運びや雑用も全員が協力して行わなくてはいけなかった。 「しかも僕は新入りでしたからね。大学の時はそういうことは下級生がやっていましたから。ある意味、大学時代より大変でしたよ」
開幕2週目の4月13日――。ヤンキースタジアムで展開された「松井秀喜の帰還劇」はあまりにもドラマチックだった。 エンジェルスのユニフォームを着て試合前のセレモニーに参加した松井が優勝リングを受け取ると、満員の観衆から盛大なスタンディングオベーション。さらにチームメートが駆け寄って、次々と熱い抱擁まで交わした。 「非常に感動した。おそらく一生忘れられない瞬間。幸せでした」 試合後の会見で松井はそう語ったが、「一生忘れられない」のは現場でその光景を見届けたものにとっても同じ。この日のセレモニーはフランチャイズ史に残る名シーンとして、今後もニューヨークで語り継がれていくだろう。
シーズンが始まったばかりのトライアスロン。しかし、このところ幸先のいいニュースが飛び交っている。 まず3月20日(土)、メキシコ・マザトランで開催されたITUパンアメリカンカップで高木美里(愛知県協会)が優勝、2位には上田藍(グリーンタワー・稲毛インター)が入り、日本人ワンツーの快挙。さらに翌週、オーストラリア・ムールラバで開催されたITUワールドカップ(WC)第1戦で、 崎本智子(日本食研)が2位に入る健闘。庭田清美(アシックス・ザバス)も7位に入った。 そして4月11日の世界選手権シリーズ(WCS)シドニー大会では足立真梨子(トーシンパートナーズ・チームケンズ)が4位に入る大健闘。好調の崎本智子も13位に入った。