誤解を恐れずに書く――。 海に囲まれ、ほぼ単一民族で長い時間を過ごしてきた“日本人”は、ちょっとした差異で人を区別しがちである。日本で育ち、日本語を話す在日朝鮮人に対してさえ、自分たちとは違うと外へ押し […]
ホルヘ・ヒラノの日本リーグデビュー戦となったのは、1980年10月4日、リーグ第14節の日立戦だった。80年シーズンは5試合を残して、フジタは首位を走るヤンマーディーゼルを追いかけていた。ヒラノは右ウイングで出場したが […]
弊社サイトをご高覧いただき、誠にありがとうございます。 本日は田崎健太さんコラム「国境なきフットボール」の更新日ですが田崎さんのスケジュールの都合により、更新日を18日に変更いたします。田崎さん独自の視 […]
ホルヘ・ヒラノの記憶によると、フジタ工業サッカークラブのテスト――セレクションが行われたのは、1980年1月だった。 前年の79年シーズン、フジタ工業は2年ぶりに日本サッカーリーグ1部及び […]
どんな選手であれ、サッカー人生は監督との出会い、相性に左右される。 監督は自らのサッカー観に合わせて選手を選び、ピッチに送り出す。そこから外れる選手は能力の多寡にかかわらず、弾かれることになる。そして監 […]
17歳のホルヘ・ヒラノに目をつけたのは、ウニオン・ウアラルの監督、モイゼス・バラックだった。 バラックは1943年にリマで生まれた。リマのla“U”こと、ウニベルシタリオなどでディフェンダーとしてプレー […]
日系人としてペルーで生まれ育ったホルヘ・ヒラノの話を聞いていてまず感じたのは、同じ南米大陸のブラジルとの差異である。 ブラジルの日本人移民たちは長らく、フッチボウ――サッカーと距離を置いていた。かつてサ […]
ホルヘ・ヒラノの祖父、熊本県生まれの平野佐次郎が、ペルー南部、サン・ビセンテ・デ・カニェテの地を踏んだのは第一次世界大戦が終わりに差し掛かっていた1918年のことだ。 カニェテ州の州都、カニェテは首都ペルー […]
ノンフィクションの書き手の主たる仕事の一つは、調べることだ。 日頃から気になった書籍は読む時間がないかもしれないと思いながら手に入れて、書棚に入れる。国会図書館はぼくたちの別荘のようなものだ。時に神保町の古 […]
来月4月8日発売の新著『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』は取材と執筆に約4年間という時間を費やすことになった。 フリューゲルスを調べはじめたのはちょっとしたきっかけだった。正直なとこ […]
弊社サイトをご高覧いただき、誠にありがとうございます。 本日は田崎健太さんコラム「国境なきフットボール」の更新日ですが先月の更新日が23日だったため、今月は15日にさせていただきます。今月から新シリーズのス […]
2010年、楽山孝志はトルコの海岸沿いの街、アンタルヤで合宿を張っていたロシアのナショナルフットボールリーグに所属するクラブの練習に参加することになった。ナショナルフットボールリーグは、プレミアリーグの下、2部リーグに […]
2009年シーズン、楽山孝志はジェフユナイテッド千葉からサンフレッチェ広島に完全移籍した。ミハイロ・ペトロビッチが率いる広島は、圧倒的な力でJ2を勝ち抜き、このシーズンからJ1昇格を決めていた。 広島での生 […]
2008年7月、楽山孝志がサンフレッチェ広島にレンタル移籍を決めたのは、指揮官がミハイロ・ペトロビッチだったからだ。 ミシャことペトロビッチは1957年にセルビアで生まれた。14歳のとき、ユーゴスラビアリー […]
2006年7月19日、Jリーグが再開した。第13節でジェフユナイテッド千葉はガンバ大阪と対戦している。日本代表監督に就任したイビチャ・オシムの後を引き継いだアマル・オシムが指揮を執る最初の試合となった。 登 […]
2005年11月5日、ジェフユナイテッド千葉は国立競技場で行われたナビスコカップ決勝で、ガンバ大阪と対戦した。 ジェフの先発はゴールキーパーが立石智紀、ディタフェンダーに結城耕造、イリアン・ストヤノフ、斎藤 […]
楽山はプロ1年目、出場6試合で終わった2003年シーズンについて、監督であるイビチャ・オシムが求めるサッカー、ウイングバックというこれまでやったことのなかったポジションを任されたことに戸惑ったと振り返る。 […]
楽山孝志にとってプロ1年目、2003年セのカンドステージでベンチ入りしたのは、第7節9月23日の浦和レッズ戦のみ。この試合で出場機会は訪れなかった。シーズンを通して、リーグ戦1試合、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)2 […]
2003年シーズン、イビチャ・オシム監督が率いるジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)の公式戦は、3月15日に市原臨海競技場で行われたヤマザキナビスコ杯(現YBCルヴァン杯)、セレッソ大阪戦だった。試 […]
中京大学4年生の楽山孝志は、サッカー部監督だった城山喜代次に呼ばれ、こう言われた。 ――ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)から獲得の話が来ている、お前、行くか。 練習参加以来 […]
楽山孝志は中京大学2年生からレギュラーに定着、地域選抜にも選ばれるようになった。 地域選抜のほとんどの選手は関東、もしくは関西地区の大学リーグに所属しており、中京大学の所属する東海地区など、それ以外から選ば […]
南米大陸のブラジルやアルゼンチン、あるいは欧州のイングランドや、スペイン、イタリア、フランス、ドイツといった“サッカー先進国"では「18才」という年齢がひとつの区切りとなる。 プロフェショナルなサッカー選手 […]
サッカー選手の目利き、特に若い選手がどこまで階段を上る可能性があるのかを見極めることは非常に難しい。 短距離走のように、時間という絶対軸がある競技ならば優劣は明らかだ。また、野球の投手であれば速い球を投げら […]
楽山孝志が李国秀の指導を初めて受けたのは、1997年9月、高校2年生秋のことだった。 李は1957年に横浜で生まれた。父親は韓国の済州島出身、母親は大阪在住の在日朝鮮人である。両親は早くに離婚、中華街で焼肉 […]
1996年4月、楽山孝志は静岡市立清水商業(現・清水桜ヶ丘高校)に入学した。すでにJリーガーを多数輩出していたサッカー部には全国から選手が集まっていた。楽山は「数えたことはないですけど、3学年合わせて100人以上いたの […]