一冬越すと、いきなり球速が15キロも速くなっていた。ウソのようなホントの話だ。 近鉄に西川慎一というサウスポーのリリーバーがいた(その後、阪神−広島)。97年には51試合、98年には61試合に登板している。150キロ台のストレートとマッスラのコンビネーションで打者を手玉にとった。
広島、巨人で主に先発投手として活躍したサウスポーの川口和久が巨人の投手総合コーチに就任した。1軍、2軍を横断的に見ることになりそうだ。
「地球の裏側にもうひとつ別の野球があった」。そんな名言(迷言)を残して日本を去ったのが「赤鬼」と呼ばれた元ヤクルトのボブ・ホーナーである。 それにならっていえば、私が少年の頃、日本にはセ・リーグとは別のもうひとつの野球があった。
東北楽天ゴールデンイーグルスの次期監督に阪神タイガースの星野仙一オーナー付シニアディレクターの就任が決定的となった。
<(W杯開催国を決める)選挙を巡っては、明確なルールは定められていない。たとえば日本の国政選挙のように街頭演説は何時まで、戸別訪問は家のどの場所まで、と決められているわけではない。要するに、何でもありの世界なのだ。> FIFA理事にして日本サッカー協会会長・小倉純二氏が2004年に著した『サッカーの国際政治学』にこんな記述がある。 まさに「何でもありの世界」が繰り広げられている。
過去、中日の監督を最も長く務めたのは、来季から東北楽天の指揮を執ることが確実視されている星野仙一の11年。その間、2度リーグ優勝を果たしている。星野は2003年、阪神でもセ・リーグ王者になった。だが、日本一は1度もない。
7月の中頃、セ・リーグの打撃成績の欄から横浜・多村仁外野手の名前が消えた。さる6月29日、神奈川県内の高速道路を運転中に事故を起こし、左肩や目を強打した。調子が良かっただけにチームにとっても本人にとっても残念なアクシデントとなった。 事故を起こすまで、多村は打撃3部門で三冠王を狙える位置につけていた。6月28日の時点で打率3割4分4厘(1位)、21本塁打(1位)、53打点(4位)。守りもよくバットとグラブでチームを支えていた。
「日本には12人のドン・ジマーがいる」。かつてこう吐き捨てた外国人選手がいた。日本の監督は選手の起用法が一定しない、と暗に言いたかったのだ。
シーズン途中でスワローズの監督を辞任した高田繁は現役時代、名外野手として鳴らした。 巨人に入団した1968年に新人王を獲得すると、72年から4年連続で外野手のゴールデングラブ賞に輝き、V9に貢献した。 過日、その高田と会う機会があり、「近年の外野手では誰がうまいですか?」と訊ねた。 高田の答えは「新庄剛志」だった。
朝寝朝酒に加え、朝湯が大好きといえば民謡「会津磐梯山」の歌詞に出てくる小原庄助だ。「それで身上つぶした」というオチがついている。朝湯にはかつて流行した朝シャンなどとは違い、贅沢な時間の流れが感じられる。
6度、杜の都の夜空に舞った。勝って優勝なら文句なしだったが、そううまくはいかない。それでも残り6試合で3.5ゲーム差を引っくり返しての優勝だから、胴上げの味は格別だったろう。
さて日本代表の再建を託されたイビチャ・オシムとはいかなる人物なのか。 彼は1978年、母国ボスニア・ヘルツェゴビナで指導者人生をスタートさせた。86年には旧ユーゴスラビア代表監督に就任。90年イタリア大会では同国をベスト8に導いている。 ジェフの前に監督を務めたシュトルム・グラーツ(オーストリア)でも欧州チャンピオンズリーグに3度出場するなど、その指導力は定評がある。
「今になって思うんです。あの試合は何をやっても負ける試合だったんじゃないかと…」。11月26日に再起戦(WBC世界フェザー級王座決定戦)が決まった元WBC世界バンタム級王者・長谷川穂積は吹っ切れたような表情で切り出した。
「〜2世」と呼ばれる選手で、成功した例は稀である。コピーはあくまでもコピー。本家を超えるのは容易ではない。 近年、プロ野球で成功した例といえば「桑田2世」と呼ばれたマエケンこと広島の前田健太くらいか。 弱小チームに身を置きながら、リーグトップの14勝(7敗)をあげ、防御率(2.25)も目下、1位だ(記録は9月27日現在)。
「ミスター・オクトーバー」といえばヤンキースなどで活躍したレジー・ジャクソンの代名詞だ。アスレチックス時代の73年とヤンキース時代の77年、2度ワールドシリーズMVPに輝いている。
45歳24日。中日の山本昌が9月4日の巨人戦でプロ野球史上最年長完封勝利記録を達成した。優勝争いの最中での白星だけに価値がある。 「シーラカンスばりにスゴイですねぇ」と本人。自らを“生きた化石”にたとえてみせた。
あれはいまから11年も前のことだ。その日はプロ野球のドラフト会議が行なわれていた。 1995年11月22日、東京・渋谷(当時)の日本サッカー協会では、まるでドラフト会議のお株を奪うような“大逆転指名”が行われた。
巨人V9戦士でオリックスの監督も務めた土井正三さんが世を去って、9月25日で一周忌を迎える。 東京都内の自宅での闘病生活。リクライニング式ベッドに体を横たえた土井さんは約束の時間が過ぎても、語り続けた。頬は随分こけていたが眼光は異様に鋭く、口調には鬼気迫るものがあった。私には「球界への遺言」のように感じられた。
巨人、中日と首位争いを演じる阪神。好調のチームを支えるのは2人の外国人選手だ。 マット・マートンとグレイク・ブラゼル。マートンがリーグ3位の3割4分6厘という好打率でチームを牽引すれば、ブラゼルはリーグトップタイの32本塁打と大砲ぶりを発揮している。(記録は7月28日現在) 柔のマートン、剛のブラゼル。そんなイメージだ。
この話は事実か、それとも“都市伝説”の類か。 当事者に直接、訊ねてみると、「お恥ずかしながら、あれは本当です」という答えが返ってきた。
史上6校目の甲子園初夏連覇を達成した興南(沖縄)。その立役者はトルネード左腕の島袋洋奨だった。 決勝では東海大相模(神奈川)を9安打1失点に封じた。奪った三振こそ4と少なかったが、これは勝利を優先した証拠。打たせるところは打たせ、要所要所では縫い目にしっかりと指のかかったボールを投げていた。
「オリンピック代表の監督はあくまでも反町(康治=前新潟監督)で、スーパーバイザー、総監督的な立場でオシムが……。あっ、言っちゃった」 ドイツからの帰国記者会見の席で、日本サッカー協会・川淵三郎キャプテン(会長)はポロリと次期代表監督の名前を口にしてしまった。
新日本プロレスなどで活躍した元プロレスラー山本小鉄の訃報に接した巨人・原辰徳監督は「山本小鉄さん? ヤマハ・ブラザーズですよ」と語ったという。 そうなのだ。我々の世代にとって山本小鉄と言えば「ヤマハ・ブラザーズ」だ。小兵ながらムキムキの筋肉を武器に気風のいいファイトを展開し「人間爆弾」の異名をとった。
夏の甲子園準決勝。興南対報徳学園戦。4回が終わって0対5.ゲームとしては、ほぼ一方的だ。 しかし「どこかで引っくり返すんじゃないかな」という予感があった。 5回に3点、6回に1点、7回に2点を奪い6対5。そのまま興南が逃げ切った。
90年代、日米問わず多くのプロ野球の投手が影響を受けたと言われるピッチングテキストが「ノーラン・ライアンのピッチャーズバイブル」(ベースボール・マガジン社)だ。著者はメジャーリーグ史上最多の7度のノーヒッターを達成したノーラン・ライアンと投手コーチのトム・ハウス。