大震災が起きた日、私は京都にいた。ボクシングの元OPBF東洋太平洋バンタム級王者・村田英次郎(現エディ・タウンゼントジム会長)を取材するためだ。大阪府高槻市のジムから最寄り駅まで車で村田に送ってもらい、そこから京都に出た。地震の発生を知ったのは京都駅のプラットホームだった。
開幕投手を誰にするか。これはピッチングコーチにとって一番、頭の痛い問題である。あちらを見れば、こちらが立たず、というわけだ。 自他ともに認める大エースがいれば、頭を痛める必要はない。しかし、同等の力を持つピッチャーが複数いた場合、誰を指名するか悩むことになる。
田澤純一はNPB(日本プロ野球組織)の指名を回避して、メジャーリーガーとなった初の日本人プレーヤーだ。2008年、NPB入りを拒否した田澤は、ボストン・レッドソックスと3年契約を結んだ。その決断は、NPBがアマチュア選手の海外流出防止策を設けるほど、異例のことだった。 田澤はアメリカに渡ると、1年目からメジャーデビューを果たし、初勝利をあげた。 しかし、さらなる飛躍を期待された彼に苦境が訪れる。2年目の開幕直前、右肘じん帯の損傷が見つかり、結局そのシーズンは手術とリハビリで1年を棒に振ることとなったのだ。今季は契約最終年を迎え、先発ローテーション入りを目指す。正念場に立たされた彼は、果たしてメジャーの一線で活躍できるのか。 そこで、レッドソックス入団前の田澤に対する期待と不安を、08年の原稿で振り返り、その可能性を探る。
東京ヤクルトのスカウト(東北・関東地区担当)八重樫幸雄は地震が発生した時、センバツに出場する東北高のグラウンドにいた。「もう立っていられなかった。踏ん張ろうにも踏ん張れない。練習はすぐ中止になりました。あいにく雪も降り始めた」。 母校・仙台商高の先輩の車中で2晩過ごした。「(地震発生から)2日間は携帯も全くつながらない。やっと3日目、家族と携帯メールで連絡がとれた。球団にも無事を伝えました」
「キレのあるストレートとキレの悪いストレートを投げ分けている」 ダルビッシュ有(北海道日本ハム)がマー君こと田中将大(東北楽天)に、そう告げたのは第2回WBCの時である。
昨季14勝(7敗)をあげた北海道日本ハムファイターズのサウスポー武田勝のスライダーは右バッターの懐めがけて猛禽のように襲いかかってくる。巨人の坂本勇人によると、外に向かっていたボールが急に角度を変え、ジャックナイフのように懐をえぐるというのだ。それとは別にホームベースの外からアウトコースめがけて切れ込ませるものもある。
北海道日本ハムの黄金ルーキー斎藤佑樹のピッチングを見ていると今は亡き小林繁のそれを思い出す。 小林といえば細身ながらムチのようにしなる右腕で巨人、阪神で通算139勝をあげた。沢村賞にも2度、輝いている。体型とは正反対の太く短い野球人生だった。
山瀬功治といえば日本代表経験もあり、鋭いドリブル突破を武器に相手守備陣を切り裂くアタッカーだ。しかし昨季、そんな山瀬に悲劇が訪れた。それは、チームからの突然の戦力外通告だった。失意の底に落ちた彼は、気持ちを新たに川崎フロンターレと契約。初タイトルを目指すチームとともに逆襲を誓う。 山瀬はこれまで幾度となく逆境をはね返してきた。新人王を獲得した翌年には、右ヒザ前十字じん帯断裂。その3年後には左ヒザの前十字じん帯も断裂した。それでも彼は、ピッチに帰ってきた。 絶望の淵から這い上がった山瀬のメンタリティーを、2005年の原稿で振り返る。
巨人のドラフト1位ルーキー沢村拓一を育てた中大監督・高橋善正には、ほろ苦い思い出がある。 1974年10月14日。後楽園球場でのダブルヘッダー2試合目、巨人対中日最終戦。「我が巨人軍は永久に不滅です!」の名台詞で知られる長嶋茂雄の引退試合だ。
日本野球では「先発に失敗した者がリリーフに回る」という考え方がまだ一般的だ。メジャーリーグでは通算601セーブのメジャー記録をもつ元ブルワーズのトレバー・ホフマンのように、最初からリリーフ一筋という例が少なくない。
元ヤクルトの鈴木康二朗といえば、王貞治からハンク・アーロンの世界記録を抜く756号を“被弾”した投手として知られている。 その鈴木が井本隆とのトレードで1983年、近鉄に移籍した。近鉄には鈴木啓示という大エースがいた。トレードのニュースに接し、鈴木啓示は何と言ったか。「このチームに鈴木はワシひとりでいい。鈴木康二朗君は、できたら別の登録名でやってくれんかな」
通算セーブのプロ野球記録を持つ元東京ヤクルトの高津臣吾が独立リーグ・BCリーグの新潟アルビレックスに入団することが決まった。 高津はNPBで286セーブ、メジャーリーグで27セーブ、韓国で8セーブ、台湾で26セーブと日米韓台の4カ国でセーブをあげている国際派のピッチャー。今年から新潟の監督を務める元ヤクルトの橋上秀樹から「若い選手に投げる姿勢を見せて欲しい」と“手本”の役割を求められている。
山武司(東北楽天)は、史上3人目となるセ・パ両リーグで本塁打王を獲得した日本を代表する長距離砲だ。中日、オリックス、楽天と3球団にわたって積み上げてきた通算本塁打数は実に391。42歳となった現在も主力として活躍を続けている。そんな輝かしい実績を持つ山だが、オリックス時代の2004年オフには自由契約となる屈辱を味わっている。引退をも覚悟した彼を拾ったのは、翌年からプロ野球に新規参入することが決定していた楽天だった。そこで2人の指導者と出会い、打撃開眼した山は、07年に本塁打王、打点王の二冠王を獲得し、見事にホームランバッターとしての復活を遂げた。 40歳を超えてなお進化を続ける山。その復活劇の裏側を、07年の原稿で振り返ろう。
初回に3本のヒットを浴び、四球もからんで3点を奪われた。2回、3回と無失点で切り抜けただけに立ち上がりの不安が余計にクローズアップされた。 キャンプ地・久米島での紅白戦。「打たれたことで逆に収穫があった」。東北楽天・田中将大は冷静な口調で言った。
バントの名人・川相昌弘が8年ぶりに巨人に戻ってきた。2軍監督としての復帰である。 実は川相、昨シーズンも中日で2軍監督を務めていた。昨年9月、球団から呼び出され、「来季は契約を結ばない」と告げられた。
北朝鮮ではストリートチルドレンのことをコッチェビというらしい。ジャンマダン(闇市場)で残りものを漁ったり、拾い食いをしながら飢えをしのいでいる。隠し撮りされた映像をテレビで見たことがあるが、裸足で服はボロボロ、体はガリガリ。思わず目をそむけそうになった。
2年続けて1票差で落選した中日監督の落合博満がついに野球殿堂入りを果たした。プレーヤーとして三冠王3度は史上最多だけに当然と言えば当然の勲章である。
水谷隼といえば日本卓球界のエースだ。1月に行なわれた全日本選手権で男子史上初の5連覇を達成した。日本で敵なしの強さを誇る水谷は、昨年の国際卓球連盟(ITTF)プロツアー・グランドファイナルで日本人初Vの快挙を成し遂げた。ITTFの世界ランキングでも7位に入り、強豪と肩を並べている。5月の世界選手権では日本人として32年ぶりとなるシングルスのメダルを目指す。 数々の記録を塗り替え、天才と称される水谷のプレースタイルを、08年の原稿で振り返る。
負ける時はいつも逆転である。しかも後半の。手負いの獅子ならぬ手負いのカンガルーのなりふり構わぬパワープレーに屈するのが常だった。
NPB(日本プロ野球組織)における現役最年長投手である。いったい、誰がプロ入り時に今の山本昌(本名:昌広)の姿を予想し得ただろう。 1984年に神奈川の日大藤沢高からドラフト5位で入団。最初の4年間は勝ち星なし。その間、何度も解雇の危機に見舞われた。
「転ばぬ先の杖」ということわざがある。失敗してからでは遅い。前もってしっかり準備をしておきなさいよ、と先人は説いた。
昨季、メジャーリーグ史上初となる10年連続シーズン200安打を達成したイチロー(マリナーズ)は来季限りで球団との契約が切れる。 周知のようにマリナーズは2001年にメジャーリーグ史上最多タイのシーズン116勝(46敗)をあげ、ア・リーグ西地区を制したものの、それ以降は低迷が続き、昨季も地区最下位に沈んだ。
ピッチャーはひとつのボールをきっかけにして、一皮むけることがある。昨季、セ・リーグの投手部門で3冠(最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振)に輝いたマエケンこと前田健太のそれは昨年4月8日、東京ヤクルトの田中浩康に投じたストレートだった。
「18歳の4番打者」と聞いても、若いプロ野球ファンはピーンと来ないかもしれない。今なら間違いなく流行語大賞の候補にあがっているはずだ。 近鉄、太平洋クラブ−クラウンライター―西武で強打者として鳴らした土井正博が4年ぶりに埼玉西武のヘッド兼打撃コーチに復帰した。67歳。現役コーチとしては最年長である。
今野泰幸はアルベルト・ザッケローニ監督の就任後、全試合にスタメン出場を果たし、怪我人続出の日本代表の最終ラインを支えている。センターバックに加え、サイドバック、ボランチと複数のポジションをこなせるユーティリティ性を持ち、代表にとって貴重な存在だ。 活躍の場を広げる一方で今野は昨年、2つの挫折を味わっている。1つは、名を上げるチャンスのあった南アフリカW杯を直前の親善試合で負傷し、わずか数分間の出場にとどまったこと。もう1つは、所属するFC東京がリーグ戦16位に終わり、J2降格の憂き目にあったことだ。苦汁を嘗める形となった今野は今季、ザックジャパンでの定位置確保とクラブのJ1復帰を目指す。 昨年の雪辱に燃える今野のパーソナリティを、06年の原稿で振り返りたい。