戦時下、スポーツ選手は何を考え、どう振る舞っていたのか。 それを取材しているうちに、文藝春秋の編集者から興味深い資料を提供してもらった。 タイトルは<帰還二勇士 戦争とスポーツを語る>。これは『オール読物』の1940年9月号に掲載されたものだ。 「帰還二勇士」とは当時、巨人のエースだった沢村栄治と「槍の笹崎」の異名をとったプロボクシング界のヒーロー笹崎僙のことだ。
ライバル対決こそは“プロ野球の華”である。日本のプロ野球は沢村栄治が投げ、景浦将が打つことによって始まった。
日米通算106勝27セーブ。実績も理論も申し分ないだけに、将来はいい指導者になるだろうと思っていた。 まさか、こんな最期を遂げるなんて夢にも思わなかった。何度かヒザを交えて話したことがあるので残念でならない。
横浜高校の渡辺元智といえば、春夏含めて5度の甲子園優勝を誇る高校球界の名監督である。1968年に同校の監督に就任すると、今夏の選手権を含めて25度の甲子園出場に導き、積み上げた勝利数は歴代4位の47にものぼる。渡辺は約半世紀にも及ぶ指導者生活のなかで、“スパルタ”から“対話型”へと、時代に合った指導法を柔軟に取り入れた。そして、松坂大輔(ボストン・レッドソックス)、成瀬善久(千葉ロッテ)、涌井秀章(埼玉西武)など球界を代表するプロ選手たちを輩出したのだ。 名指導者の教育論を、20年前の原稿で辿ってみよう。
団体としては初の国民栄誉賞受賞。「なでしこ」の面々と関係者には、心よりお祝い申し上げたい。 震災後、沈滞ムード一色のこの国と国民に対し、粘り強い戦いを通じて、これ以上ないほどの勇気と希望を与えたことを考えれば受賞は当然だ。
中日やロッテなどで主にクローザーとして活躍し、横浜の監督も務めた牛島和彦から、かつてこんな話を聞いたことがある。彼がロッテ時代の出来事。 「南海戦で打者は門田博光さん。僕のフォークボールを読んだ門田さん、いきなり歩き出し、落ちる前を狙い打った。結果はホームラン。これにはびっくりしました」 フォークボールの落ち際をとらえるのは至難の業だ。だったら、落ちる前にしばき上げよう――。門田は、そう考えたのである。驚異的なスイングスピードが、劇画のようなシーンを可能にしたのであろう。
リーダーシップからフォロワーシップへ――。「なでしこジャパン」を世界一に導いた佐々木則夫監督はスポーツ界における新しいタイプの指導者と言えるだろう。
かつて沢村賞はセ・リーグのピッチャーのみに与えられた。賞に名をとどめる沢村栄治が巨人の所属選手だったからだ。 パ・リーグのピッチャーでも受賞できるようになったのは89年からだ。今季の開幕前、東北楽天の田中将大が「沢村賞を目指す」と公言したのは記憶に新しい。 ところが、こちらの賞は今でもセパで一致を見ていない。 パの監督に贈られる最高の賞が「優勝監督賞」であるのに対し、セは「最優秀監督賞」なのだ。
乾坤一擲とは、こういうことを言うのだろう。1−2で迎えた延長後半12分だ。キャプテンマークを付けた澤穂希が宮間あやの左コーナーキックに飛び込んだ。ニアサイドの死角。右足のアウトに引っかけた。ボールはゴール前にいたアビー・ワンバックをかすめ、ゴールネットを揺らした。値千金の同点ゴール。その瞬間、隣近所から一斉に拍手が巻き起こった。時刻は朝の6時過ぎ。皆、息を潜めて、この瞬間を待っていたのだ。
パ・リーグの優勝争いは、早くも福岡ソフトバンクと北海道日本ハムの“2強”に絞られた観がある。
NBAで一時代を築いたシャキール・オニールが今季限りで引退した。2mをはるかに超える恵まれた体格を生かし、92年にプロ入り。オーランド・マジックから96年に名門ロサンゼルス・レーカーズへ移籍すると、99-00シーズンからのファイナル3連覇に貢献。その後4球団を渡り歩いた。19シーズンの現役生活で積み上げた得点は28596点にものぼる。これはマイケル・ジョーダン、ウィルト・チェンバレンら名だたるスーパースターに次ぐ歴代5位の記録だ。 豪快なダンクでファンを魅了したシャックのプレースタイルを、02年の原稿で振り返ろう。
受験生にたとえて言えば“2浪”の末に合格を決めたようなものだ。招致の意向を示したのが1999年だから、長い長い道のりだった。2018年冬季五輪の開催地に決定した韓国・平昌には心よりお祝い申し上げたい。
人気番組ゆえの騒動か。広島・野村謙二郎監督の退場劇が思わぬ波紋を広げている。
「20年にひとりの逸材」と評された埼玉西武・菊池雄星のプロデビューはほろ苦いものとなった。 6月12日、本拠地・西武ドームでの阪神戦。雄星は1回に1点を失うと、3回に4安打を集中され、わずか53球でマウンドを降りた。
「先発完投こそが、ピッチャーの本来あるべき姿」 それがジャイアンツ・藤田監督のピッチャー観であることは、これまでにひとりのストッパーもつくらなかったことで証明されていた。ところが、自らの哲学を覆すかのように今シーズン、初めてひとりのストッパーを育て上げた。それがGの新守護神・石毛博史である。
誰もがトップの座を降りて欲しいと願っているのだが、当の本人には全くその気がない。厚顔無恥。全く困った御仁である。 どこかの国の首相のことを言っているのではない。海の向こう、米大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースのオーナー、フランク・マッコートのことである。
独立リーグでの成績とはいえ、これは光っている。 15試合に登板し、0勝0敗7セーブ、防御率は0.00(6月22日現在)。完璧である。 今季から元ヤクルトのクローザー高津臣吾はBCリーグの新潟アルビレックスBCでプレーしている。
古い資料を調べていて驚いた。今からちょうど52年前の1959年6月25日に後楽園球場で行なわれたプロ野球史上初の天覧試合、巨人―阪神戦の試合時間はわずか2時間10分なのだ。
ここ数年、押し出すような投げ方になっていたのは、無意識のうちにヒジをかばっていたせいかもしれない。 レッドソックスの松坂大輔が右ヒジに正常な腱を移植する、いわゆる「トミー・ジョン手術」を受けることになった。
試合の幕引きを任される投手――。その守護神的役割を果たす投手をストッパーと呼ぶ。現在の代表例は、日本プロ野球(NPB)通算最多セーブを誇る岩瀬仁紀(中日)だ。 NPBでは、1960年代に中日の投手コーチを務めていた近藤貞雄が先発完投型から投手分業制へと移行した。それがNPBの先発とリリーフの役割が明確化されたきっかけと言われている。以降、優勝を争うチームには、優れたストッパーの存在がある。 稀に見る大混戦となった92年のセ・リーグもまたストッパーたちが活躍した。熱戦を演出した各球団のストッパーを、当時の原稿で振り返り、守護神という存在にスポットライトを当ててみよう。
通算868本塁打の王貞治が初めてホームラン王に輝いたのはプロ入り4年目、1962年のシーズンである。この年、38本塁打を放った王は、それ以降、13年連続でキングの座を独占した。
“身の丈経営”をモットーとする広島カープが総額約1億円(推定)を投じて獲得した“大物助っ人”チャッド・トレーシーが出場選手登録から外れ、帰国した。 「股関節に痛みがあるようだ。状態もよくないし、本人と相談して決めた」と野村謙二郎監督。球団は「鼠径(そけい)部痛症候群」と発表したが、復帰の時期は未定だ。
<私の場合、1500万円で買ったものが3億円で売れた。私はその金が借金の支払いに回るため、表に出してもよかったが、相手が金の出所を突かれたくないという事情もあって裏のままの取り引きにした>(『八百長 ―相撲協会一刀両断』)。自著で年寄名跡売買の実態について赤裸々に述べたのは今は亡き元大鳴戸親方(元関脇・高鉄山)である。当然、税務申告などしていないわけだから、この事案は紛うことなき「脱税」である。
今季から東北楽天の指揮を執る星野仙一には、かつて黒衣がいた。 その男の名前は島野育夫。中日、阪神で星野を支えた鬼軍曹的な名参謀だ。 現役時代は俊足、強肩の外野手として活躍し、ゴールデングラブ賞に3度、輝いている。73年には全試合出場を果たし、南海のリーグ優勝に貢献した。 07年12月、胃ガンのため世を去った。63歳だった。
格闘技の強さを語るとき、柔道やプロレスには関節技があるが、相撲にはそれがない。よって相撲よりも柔道やプロレスのほうが強い、というひとがいるが、これはまったくのウソ。一瞬のうちに決めてしまう相撲の関節技は最も実戦的といっても過言ではない。 とったり、逆(さか)とったりはその代表的な技といっていいだろう。 相手が差しにくる瞬間、その手首をつかみ、ヒジを決め上げるや引きずるようにして捻り倒すとったりは最近の土俵でもしばしば見かけるが、だれにでも決められるほどヤワな技ではないようだ。