川口和久vs.西武ライオンズ――「最高のボールとは何か」<後編>

 いくつか疑問が残る。ワンポイントではあったにしろ、なぜあの場面で疲れの残っていた川口をリリーフに起用したのか。ライオンズの森監督は「これで最終戦に川口は使えない」と判断し、「広島が勝ちに来てくれたので助かった」と本音を漏らしている。  果たして川口を使うべきだったか、最終戦に温存しておくべきだったか。どっちが正しい選択だったかは誰にもわからない。勢いに乗るカープとしては自軍に傾いた流れを止めたくなかっただろうし、当初から「7戦勝負」を打ち出していたライオンズとしては、カープの切り札である川口を最終戦前に引きずり出し、叩いておきたかったに違いない。先にも述べたが、川口の投入はまさに賭けであり、リトマス試験紙に落とした1滴の雫だったのだ。

川口和久vs.西武ライオンズ――「最高のボールとは何か」<中編>

 とはいえ肉眼で見る限り、運命のボールは失投ではなかった。見逃せばインコース高目のボール球。3球勝負も川口の「焦り」と見るのは間違いだろう。バッター・イン・ザ・ホールのカウントでズバッと勝負球を投げ込むのは、川口のピッチングの真骨頂、むしろ、それこそが川口の持ち味だった。 にもかかわらず、なぜ川口は痛打されてしまったのか。打った鈴木が巧かったといえばそれまでだが、理由はそれだけではないはずだ。いくつかの必然が重なり合って、偶然と見まがうドラマを生むことはあっても、その逆はありえない。やはり川口は打たれるべくして打たれたのだ。あの運命の1球は、川口がそれまでに投じた何万球の中の1球としてとらえるべきであり、さらにいえば、それは彼がその後、投げ続ける何千球かのボールとも密接に関係してくるものであると考えることもできる。

第360回 野手転向で「ミスター赤ヘル」の継承者へ 中京大中京高・堂林翔太投手

 夏の甲子園の優勝投手で野手に転向して成功した例はたくさんある。西田真二(PL学園−法大−広島)、愛甲猛(横浜高−ロッテ−中日)、金村義明(報徳学園−近鉄−中日−西武)、畠山準(池田高−南海・ダイエー−大洋・横浜)らがそうだ。  その流れをくむのが今夏の優勝校、中京大中京のエース堂林翔太だ。  6試合すべてに登板、うち5試合に先発し、同校の43年ぶりの全国制覇に貢献した。

第359回 球界の常識を覆す左から右への転向

 リーグ3連覇を達成した巨人の“新・若大将”といえば、入団3年目、21歳の坂本勇人だ。昨季、ショートのレギュラーとしてフル出場を果たすと、今季は5月からリードオフマンに定着、打率3割1分4厘、18本塁打、60打点をマークし、リーグ優勝に貢献した(9月24日現在)。

川口和久vs.西武ライオンズ――「最高のボールとは何か」<前編>

 狭山丘陵の一角にある西武球場は、すりばち状になっているため、秋になるとライト後方から吹いてくる風が中空ですさぶように舞う。  試合の中盤ごろから風が徐々に強くなり、スタンドの観客は一斉にジャンパーやコートの衿を立て始めた。風雲急を告げる、と形容するほどものものしいものではないにしても、重々しい試合の空気が一変しそうな気配は、かなり濃厚に立ちこめていた。

第405回 「広島・長崎五輪」で地方都市に夢を

 久しぶりに「共催」(Co-hosting)という言葉を聞いた。前回はサッカーのW杯だったが、今回は五輪だ。  周知のように2020年夏季五輪開催に向け、被爆都市の広島・長崎両市が立候補する方向で検討に入った。核兵器廃絶への決意をアピールしてノーベル平和賞を受賞したオバマ米大統領の行動力に触発されたのだろうか。「スポーツを政治利用するな」という声も一部にあるが、逆にいえば政治の絡まなかった五輪が、これまでどれだけあっただろうか。

第356回 打って走れる「100キロ超級」の時代へ 亜細亜大学・中田亮二内野手

 身長171センチ、体重115キロ。  このサイズを見て思い出すのは「ドカベン」こと香川伸行である。  名門・浪商(現大阪体育大学浪商)の主砲として甲子園で活躍し、南海にドラフト2位で入団したのが1980年。10年間のプロ生活で通算460安打、78本塁打を記録した。

第355回 イチローが94年から大リーガーだったら

 イチロー(マリナーズ)がさる9月13日、メジャーリーグ(MLB)史上初となる9年連続の200安打を達成した。  それまでの記録は1894から1901年にウィリー・キーラーによる8年連続。ただし、当時はファールをストライクとカウントしないルールだったため、打者ははるかに優位な立場だった。70年代を中心に活躍し、通算10度の200安打をマークしているピート・ローズでさえ3年連続が最高である。この連続記録がいかに偉業であるかが理解できよう。

イチローの「心眼」。<後編>

 広く知られていることだが、イチローは小学3年生から中学3年生までの7年間、ほぼ毎日、名古屋空港近くのバッティングセンターに通った。イチローによると1ゲーム25球、それを平均して5ゲーム行った。つまり、1日あたり125球のボールを打った計算になる。多い日には10ゲーム、つまり250球も打ち込んだ。これはプロ野球でいうところの“特打”に匹敵する球数である。

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