巨人のドラフト1位ルーキー沢村拓一を育てた中大監督・高橋善正には、ほろ苦い思い出がある。 1974年10月14日。後楽園球場でのダブルヘッダー2試合目、巨人対中日最終戦。「我が巨人軍は永久に不滅です!」の名台詞で知られる長嶋茂雄の引退試合だ。
元ヤクルトの鈴木康二朗といえば、王貞治からハンク・アーロンの世界記録を抜く756号を“被弾”した投手として知られている。 その鈴木が井本隆とのトレードで1983年、近鉄に移籍した。近鉄には鈴木啓示という大エースがいた。トレードのニュースに接し、鈴木啓示は何と言ったか。「このチームに鈴木はワシひとりでいい。鈴木康二朗君は、できたら別の登録名でやってくれんかな」
初回に3本のヒットを浴び、四球もからんで3点を奪われた。2回、3回と無失点で切り抜けただけに立ち上がりの不安が余計にクローズアップされた。 キャンプ地・久米島での紅白戦。「打たれたことで逆に収穫があった」。東北楽天・田中将大は冷静な口調で言った。
北朝鮮ではストリートチルドレンのことをコッチェビというらしい。ジャンマダン(闇市場)で残りものを漁ったり、拾い食いをしながら飢えをしのいでいる。隠し撮りされた映像をテレビで見たことがあるが、裸足で服はボロボロ、体はガリガリ。思わず目をそむけそうになった。
負ける時はいつも逆転である。しかも後半の。手負いの獅子ならぬ手負いのカンガルーのなりふり構わぬパワープレーに屈するのが常だった。
「転ばぬ先の杖」ということわざがある。失敗してからでは遅い。前もってしっかり準備をしておきなさいよ、と先人は説いた。
ピッチャーはひとつのボールをきっかけにして、一皮むけることがある。昨季、セ・リーグの投手部門で3冠(最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振)に輝いたマエケンこと前田健太のそれは昨年4月8日、東京ヤクルトの田中浩康に投じたストレートだった。
「それでも地球は回っている」。地動説で知られるイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイは、先の言葉以上とも言える名言を残している。
2010年のスポーツを振り返る上で、最も称えられるべきナショナルチームは、国外のW杯初の決勝トーナメント進出を果たしたサッカー日本代表だろう。その活躍に隠れたものの、バレーボールの世界選手権で32年ぶりに表彰台(銅メダル)に立った全日本女子の奮闘も特筆に値するものだった。
「よく取りましたねぇ」 いきなり前方から声が飛んできた。今年の正月のことだ。 タクシードライバーには、なぜか競輪ファンが多い。本紙の愛読者でもあるようだ。「いやぁ、まぐれですよ」と返したが、人間、褒められて悪い気はしない。
イチローと松井秀喜、打率と出塁率にしぼって今季の二人の記録を見比べてみよう。 <打率> イチロー 3割1分5厘(ア・リーグ7位)、松井 2割7分4厘(ア・リーグ29位) <出塁率> イチロー 3割5分9厘(同18位)、松井 3割6分1厘(同17位)
このところ「海老蔵」の三文字を目にしない日はない。過日、居酒屋の入り口の立看板に「海老」という字が躍っていたので「おいしい伊勢海老でも入荷したのか」と思い、立ち寄ろうとした。よく読むと「海老蔵記者会見放映中」だった。
巨人の背番号15といえば、思い出すのは「エースのジョー」こと城之内邦雄だ。腕の位置はスリークォーターとサイドハンドの中間、打者にクルリと背を向ける独特のフォームで一世を風靡した。少年時代、帽子をあみだに被ってよく“城之内ごっこ”をやったものだ。
6日前、67歳で肺炎により死去したプロレスラーの星野勘太郎は“タッグの名手”として知られた。自分が光るのではなく、相手を光らせる。その術に長けていた。あくまでも私見だが、引き立て役をやらせたら一に吉村道明、二に星野勘太郎、三、四がなくて五にアニマル浜口か。
「岩隈病」という言葉を“発案”したのは、東北楽天元監督の野村克也である。「投手陣は岩隈病にかかっている。すぐにマウンドを降りたがる」「燃え尽き症候群なんじゃないのか?」 もちろん、これはノムさん流の言葉による“愛のムチ”である。悪気はない。無視、称賛、非難。ノムさんは選手を三流から一流まで3段階で格付けする。岩隈は最上位に位置していたわけだから、考えようによっては、これは大変な名誉である。
振り返って思えば、結び前の大関・把瑠都の波離間投げが大波乱の呼び水だったのか。横綱・白鵬の連勝記録が63で止まった。
多様な生物を守り、生息環境や生態系を保護する――。この10月、名古屋市で行なわれた「COP10」(生物多様性条約締約国会議)のテーマだが、これがそっくり野球にも当てはまることを証明したのが日本一になった千葉ロッテである。
一冬越すと、いきなり球速が15キロも速くなっていた。ウソのようなホントの話だ。 近鉄に西川慎一というサウスポーのリリーバーがいた(その後、阪神−広島)。97年には51試合、98年には61試合に登板している。150キロ台のストレートとマッスラのコンビネーションで打者を手玉にとった。
「地球の裏側にもうひとつ別の野球があった」。そんな名言(迷言)を残して日本を去ったのが「赤鬼」と呼ばれた元ヤクルトのボブ・ホーナーである。 それにならっていえば、私が少年の頃、日本にはセ・リーグとは別のもうひとつの野球があった。
<(W杯開催国を決める)選挙を巡っては、明確なルールは定められていない。たとえば日本の国政選挙のように街頭演説は何時まで、戸別訪問は家のどの場所まで、と決められているわけではない。要するに、何でもありの世界なのだ。> FIFA理事にして日本サッカー協会会長・小倉純二氏が2004年に著した『サッカーの国際政治学』にこんな記述がある。 まさに「何でもありの世界」が繰り広げられている。
「日本には12人のドン・ジマーがいる」。かつてこう吐き捨てた外国人選手がいた。日本の監督は選手の起用法が一定しない、と暗に言いたかったのだ。
朝寝朝酒に加え、朝湯が大好きといえば民謡「会津磐梯山」の歌詞に出てくる小原庄助だ。「それで身上つぶした」というオチがついている。朝湯にはかつて流行した朝シャンなどとは違い、贅沢な時間の流れが感じられる。
「今になって思うんです。あの試合は何をやっても負ける試合だったんじゃないかと…」。11月26日に再起戦(WBC世界フェザー級王座決定戦)が決まった元WBC世界バンタム級王者・長谷川穂積は吹っ切れたような表情で切り出した。
「ミスター・オクトーバー」といえばヤンキースなどで活躍したレジー・ジャクソンの代名詞だ。アスレチックス時代の73年とヤンキース時代の77年、2度ワールドシリーズMVPに輝いている。
巨人V9戦士でオリックスの監督も務めた土井正三さんが世を去って、9月25日で一周忌を迎える。 東京都内の自宅での闘病生活。リクライニング式ベッドに体を横たえた土井さんは約束の時間が過ぎても、語り続けた。頬は随分こけていたが眼光は異様に鋭く、口調には鬼気迫るものがあった。私には「球界への遺言」のように感じられた。