広島カープという一地方に誕生したプロ野球チームは、広島が原爆によって廃墟となったことから、その復興のためにつくられたことは、この連載で幾度が述べてきた。今回からはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策が進む […]
プロ野球が2リーグとなり、セントラルリーグへの加盟が決まりながらも、新球団のカープは選手集めに苦労していた。それは資金難によるところが大きいのは、前回までで述べてきた。この時、球団に唯一あったものは、戦前から中等野球、 […]
カープが選手集めに苦労したのは、原爆から立ち直る復興期に、カープを単独で支える企業が広島に存在しなかったことが大きい。いわゆる資金難であった。ならば県民待望のプロ野球チームの設立はどうしたのか……ということになるのだが […]
誕生して間もないカープが幾多の存続の危機に立たされることがあっても、初代エースの長谷川良平は決して逃げることなく、「勝つ」ことだけを使命としてマウンドを守り続けた。ときには自らのバッティングと俊足を生かして、ダイヤモン […]
社会現象にもなった「カープ女子」なる言葉を耳にするようになったのはカープが16年ぶりにAクラス入りした平成25年あたりからだ。赤いユニホームに身を包んだ若い女性の一団が新市民球場のみならずビジターのスタジアムの一角まで […]
広島カープが結成され、プロ野球セ・パ2リーグ元年となる昭和25年。チーム数が既存の8チームから15チームに膨れあがるとあって、プロ野球選手は引く手あまたで、24年オフ、球界は大混乱と化した。あっちからも来てくれ、こっち […]
広島に本拠地を置く地方球団ながら、今やマツダスタジアムのみならずビジター球場でさえ、数多くのファンが詰めかけるほどの人気球団となった広島東洋カープ。平成28年から30年にかけて3連覇を成し遂げたチーム力だけではなく、球 […]
昭和25年1月、広島にカープの誕生が広く伝えられ、広島の町はこの話題で持ち切りだった。その喧騒を横目に初代監督の石本秀一は選手集めに奔走し、その中で白石敏男(後に勝巳)という大スターを巨人から譲り受けることに成功した。 […]
昭和24年の年末のことだ。広島カープ最初のシーズンに入る前にファンに朗報が届いた。巨人軍の主力選手であり、逆シングルの名手・白石敏男(のちに勝巳)がカープに移籍するというのだ。カープ誕生前夜ともいえる結成時に、選手の中 […]
野球がオリンピックの正式競技に採用されたのは1992年バルセロナ大会からだが、日本はまだ一度も金メダルを獲得したことがない。 しかし、公開競技の1984年ロサンゼルス大会では優勝を果たしているのだ。それも決 […]
球団創設初年度の開幕に向け、昭和24年オフ、カープ初代監督・石本秀一の熱心な選手集めが続いていた。 自治体からのわずかながらの出資金を獲得資金とし、さらに自身の人脈もフルに活用した。戦前の職業野球時代の剛腕投手・中山正 […]
広島カープの初代監督に就任する石本秀一の生きざまを前回まで10回にわたり綴ってきたが、石本の人生経験が草創期のカープやのちのチーム運営に有形無形の礎となって生きていることは間違いない。とりわけ前回で紹介したが、広島商業 […]
日本の“忍者”はメジャーリーグ(MLB)でも成功するのか!? 広島は11月8日、菊池涼介内野手のポスティングシステムを利用してのMLB移籍を容認したことを発表した。 <この原稿は2019年12月2日号『週刊大 […]
アメリカでの邦人チームとの試合を8勝2敗3分で終え、昭和6年8月22日、サンフランシスコの港を出た広島商業(以下、広商)野球部一行が次に向かったのはハワイである。ハワイへの船旅は7日間に及んだ。石本秀一ら広商一行は総重 […]
広島商業(以下、広商)は昭和4年と5年の夏の甲子園大会で優勝し、さらに昭和6年春も制覇した。そのセンバツ大会優勝の褒賞旅行としてアメリカ遠征が与えられ、遠征中は日本からの移民が多かった西海岸沿いの都市の邦人チームと試合 […]
監督は大きく2つのタイプに分けられる。育成型と勝負師型だ。前者の典型が大毎、阪急、近鉄と3球団でリーグ優勝を果たした西本幸雄(故人)だ。厳しい指導で無名の選手を育て上げた。 しかし、日本一は一度もない。生前 […]
前回に引き続き、石本秀一監督率いる広島商業(以下、広商)ナインのアメリカ道中の話である。石本と広商一行は昭和6年7月21日から、約1カ月半に渡る北米遠征を行い、試合漬けの日々を送った。明治、大正の時代から大国アメリカに […]
カープの天敵といえば、横浜DeNAの4年目のサウスポー今永昇太だ。 今季の対戦成績は以下のとおり。4月12日 先発 9回無得点 0対6 負け4月19日 先発 7回無得点 2対1 勝ち(敗戦投手スペンサー・パットン)5 […]
石本は母校・広島商業(以下、広商)野球部の監督を務め、4度の全国優勝を飾り、広商の名声を全国に広め、名実共に日本一の監督となった。この昭和6年春、中等野球選抜大会(甲子園)を制覇した際、広商野球部にある褒章が与えられた […]
“大魔神”の異名で恐れられた元横浜のクローザー佐々木主浩が全盛期の頃の話である。当時の巨人監督・長嶋茂雄は「ベイとやる時は8回まで」と事あるごとに語っていた。それまでに攻略しなければ、勝ち目はない、ということである。&n […]
石本が野球において神の境地といえるものを感じられるようになり、試合を左右する目に見えない何かを求めるようになったのは、広島商業(以下、広商)の選手時代から監督時代を通じてであった。野球の神様が微笑む瞬間を精神力で引き寄 […]
交流戦は5割で乗り切れば御の字と考えていたが、まさか5勝12敗1分けとは……。勝率2割9分4厘。 それ以上に誤算だったのが、交流戦中の貧打である。交流戦がスタートするまで、カープはリーグ2位の打率2割6分と […]
カープ初代監督の石本秀一、彼の青年期には不遇のときも少なからずあった。石本自身の大きな後ろ盾でタニマチでもあった呉市の財閥、澤原家からのお金目当てに飲み食いする慶應義塾大学野球部に嫌気がさしたことは前回で書いたとおり。 […]