カープ・アイ
ここ何回かのカープの考古学では、カープが創設された最初のシーズンにおいて、わずか3カ月であるが、躍進する時期があったことをお伝えしてきた。 確かな試合運びで、上位チームとの対戦にもひけをとらず、勝ち星をもぎとっていくの […]
カープ創設の昭和25年、この最初のシーズンは苦労が絶えなかった。しかし、石本秀一監督は、シーズン中でもチーム浮上のきっかけつかむため、選手補強の手を緩めてはいなかった。いついかなるときにも、勝つことへの野心 […]
カープ球団が創設された最初のシーズン(昭和25年)、チームはなかなか勝ち星に恵まれず負け続ける中で、下を向かずに孤軍奮闘していたのが投手・長谷川良平だった。打てない、守れないカープの中で、4月27日の西日本パイレーツ戦 […]
カープ創設初年度はなかなか勝てなかった。白石勝巳がチーム初のホームランを福山市三菱球場で放ったものの、試合は力及ばす惜敗した。また初の満塁ホームランは前回に記したように阪田清春が甲子園球場で記録した満塁"ランニング"ホ […]
広島カープの草創期は、どたばた続きであった。球団経営の主体となる親会社もなく、広島県をはじめとし、県下の五市が主体となって出資するという形態から、手さぐり状態の経営で、右往左往するばかり。さらに他球団と比べ、選手の力の […]
カープ球団が創設されて初の公式戦、西日本パイレーツ戦は福岡市の平和台球場で行われ、リードしていながらの逆転負けを食らった。続いて第2戦の国鉄スワローズ戦もあと一歩及ばず、1点差負け。さらに、第3戦は、強風のために試合が […]
チーム解散に待ったをかけたのが初代監督の石本秀一である。石本は県内に後援会組織をつくり、募金の領収書代わり広島野球倶楽部の株券を発行した。本拠地・広島総合球場前に酒樽を設置すると、400万円もの大金が集まった。これが世 […]
今年で創設71年目、広島カープの歴史の起点は昭和25年である。戦後復興期真っただ中にあって、ないない尽くしの広島県民・市民の心を満たしたものは新球団カープであった。戦後の歩みを進める県民の唯一の心のともし火であり、原爆 […]
日本に初めてプロ野球球団『大日本東京野球倶楽部』が創設されたのは1934年12月26日のことだ。メジャーリーグ選抜チームを迎え討つための全日本代表チームが母体となっていた。旗振り役となったのが読売新聞社社長の正力松太郎 […]
カープ創設初シーズンとなる昭和25年のこと。開幕戦に向け、カープ打撃陣は好調と見られていた。前回も述べたように紅白戦はいつも派手な打撃戦となり、ファンも喜ぶばかりであった。しかし、実情は少しばかり違っていた。  […]
水も漏らさぬ、とはこのことだ。シーズン無失策、すなわち守備率10割。守備職人・菊池涼介(広島)に、またひとつ勲章が加わった。 <この原稿は2020年12月11日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものを一部再構成 […]
カープ草創期の広島にはアメリカをはじめ、さまざまな国から支援物資など、復興への思いを込めた援助があらゆる形で寄せられていた。このことは前回までで述べてきた。こうした復興へ歩みを進める中、カープはチームの体制を整え、昭和 […]
村上の眼鏡にかなったのが、1986年のドラフト3位・緒方孝市(鳥栖高)と1989年のドラフト4位・前田智徳(熊本工)である。「2人ともヒジの使い方、そしてボールを放す位置。これにバラつきがなかった。ここが上がったり下が […]
シリーズでお伝えしてきた「カープ誕生における世界情勢編」。前回はオールドアメリカの音楽界をけん引した歌姫ヘレン・トロウベルから贈られたバラの花のことを記したが、この取材で数多くの資料にあたる中、筆者は平和公園に植えられ […]
村上孝雄と聞いてもピンとこない。オールドファンには宮川孝雄である。代打の宮川――。これほど勝負強いバッターは他にいなかった。 そして、この勝負強さが、後のスカウト活動に生きたのではないか。私はそう考えている […]
カープの誕生する時代背景と世界とのつながりについて述べてきたこのシリーズも3回目の今回で締めくくりとなる。 被爆直後の広島において医学博士のマルセル・ジュノーがアメリカを動かし、医薬品を被爆者のために届けた(カープの考 […]
広島カープの誕生が原爆からの復興に励む県民や市民の精神的な支えとなったことは、これまでに幾度も述べてきた。当時の広島は食糧事情は最悪で、闇市での利権争いや血なまぐさい事件なども続いていた。当然ながら住む場所にも不自由し […]
広島カープという一地方に誕生したプロ野球チームは、広島が原爆によって廃墟となったことから、その復興のためにつくられたことは、この連載で幾度が述べてきた。今回からはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策が進む […]
プロ野球が2リーグとなり、セントラルリーグへの加盟が決まりながらも、新球団のカープは選手集めに苦労していた。それは資金難によるところが大きいのは、前回までで述べてきた。この時、球団に唯一あったものは、戦前から中等野球、 […]
カープが選手集めに苦労したのは、原爆から立ち直る復興期に、カープを単独で支える企業が広島に存在しなかったことが大きい。いわゆる資金難であった。ならば県民待望のプロ野球チームの設立はどうしたのか……ということになるのだが […]
誕生して間もないカープが幾多の存続の危機に立たされることがあっても、初代エースの長谷川良平は決して逃げることなく、「勝つ」ことだけを使命としてマウンドを守り続けた。ときには自らのバッティングと俊足を生かして、ダイヤモン […]
社会現象にもなった「カープ女子」なる言葉を耳にするようになったのはカープが16年ぶりにAクラス入りした平成25年あたりからだ。赤いユニホームに身を包んだ若い女性の一団が新市民球場のみならずビジターのスタジアムの一角まで […]
広島カープが結成され、プロ野球セ・パ2リーグ元年となる昭和25年。チーム数が既存の8チームから15チームに膨れあがるとあって、プロ野球選手は引く手あまたで、24年オフ、球界は大混乱と化した。あっちからも来てくれ、こっち […]
広島に本拠地を置く地方球団ながら、今やマツダスタジアムのみならずビジター球場でさえ、数多くのファンが詰めかけるほどの人気球団となった広島東洋カープ。平成28年から30年にかけて3連覇を成し遂げたチーム力だけではなく、球 […]
昭和25年1月、広島にカープの誕生が広く伝えられ、広島の町はこの話題で持ち切りだった。その喧騒を横目に初代監督の石本秀一は選手集めに奔走し、その中で白石敏男(後に勝巳)という大スターを巨人から譲り受けることに成功した。 […]