今夏の甲子園、準決勝で優勝した大阪桐蔭に力負けしたものの、5試合で 58得点を挙げた福井代表・敦賀気比の打棒には恐れ入った。猛打の秘密は、 12月前から2月にかけての一日千本の素振りにあるという。千日ならぬ百日の行だ。しかも6秒刻みでバットを振り続けたというのだから、その過酷さたるや尋常ではない。トレーニングというよりも鍛錬といった趣だ。
盗塁王というと広瀬叔功や柴田勲、福本豊や赤星憲広に代表される俊足のリードオフマンの独占物とのイメージが強い。だが、たまにプロパーとは呼べない選手が、このタイトルをさらっていくことがある。
開会式が2日順延されたのは、96回目を迎えた夏の甲子園史上、初めてのことだという。この先の天候は大丈夫か。 雨といえば、思い出すのが1975年の大会だ。私も高校生だったので、よく覚えている。大会期間中、2つの台風が列島を直撃し、計5日間も順延された。
「型破りとは型のある人がやるから型破り。型のない人がやったら、それは型なし」 生前、歌舞伎役者の中村勘三郎が、よく口にしていた言葉だ。伝統芸能におけるイノベーションとは、もちろん前者であり、後者は単なる邪道に過ぎない、ということか。
風前の灯とは、このことだ。近年の勢いからして、一度抜かれたら抜き返すのは至難だろう。どこまで持ちこたえられるのか。 夏の都道府県別甲子園勝率1位は愛媛県の6割5分(115勝62敗1分)。1953(昭和28)年の第35回以来、60年も首位の座を守り通している。以下、2位・大阪府6割4分9厘(155勝84敗)、3位・神奈川県6割3分2厘(117勝68敗)、4位・和歌山県6割1分8厘(118勝73敗1分)、5位・広島県6割1分3厘(111勝70敗1分)、同・高知県(87勝55敗)と続く。
幹事長がいて幹事長代行がいる。幹事長代行がいて幹事長代理がいる。幹事長代理がいて副幹事長もいる。 これらのポストが同時に存在するのだから、政治の世界は、ややこしい。ところで政党において代行と代理は、どちらが格上なのか。答えは前者なのだが、永田町の住人以外で、どれだけの人間が、これを知っているだろう。
アテネ18個、北京12個、ロンドン4個――。何の数かご存知か? 実はこれ、夏季パラリンピックにおける陸上競技のメダル数である。 右肩下がりどころではない。急降下である。「ここまで落ちてしまったら、もう付け焼刃の対策では通用しないでしょう」。神妙な面持ちで花岡伸和・日本身体障害者陸上競技連盟副理事長は語った。
このほどボクシングのWBCのベルトが刷新され、各階級を代表するチャンピオンの顔写真が2人ずつ飾られることになった。 「ヘビー級はマイク・タイソンとレノックス・ルイス。ミドル級はマービン・ハグラー、ウェルター級はシュガー・レイ・レナード。そしてミニマム級がリカルド・ロペスと僕なんです」
日本サッカー協会には12の専門委員会がある。この中で最も世間からの注目度が高いのは技術委員会だろう。同委員会の仕事は代表監督候補者の推挙、代表チームの強化、ユース年代の普及、指導者養成など多岐に渡る。メディアに登場する機会も多く、協会きっての花形である。
W杯の出場国・地域がそれまでの24から32になったのは、くしくも日本が初出場を果たした1998年のフランス大会からである。それに伴い、アジア枠も2から3.5に増えた。これが日本には幸いした。前回の枠数のままなら“ジョホールバルの歓喜”はなかった。
国際オリンピック委員会(IOC)にあって国際サッカー連盟(FIFA)にないもの――それは役員の定年制と任期制限である。 現在、IOC会長の任期は1期8年、選挙に勝てば2期目として4年間の延長が可能だ。つまり最大で12年間指揮を執ることができる。
カズこと三浦知良に初めてインタビューしたのは“キング”・ペレの出身クラブである名門サントスFCとプロ契約を交わした直後のことだ。ブラジルに渡って4年目、カズはまだ19歳だった。
明けない夜はない。止まない雨はない。 そうは言うものの、四国初のJ1クラブ徳島ヴォルティスがJ1初勝利をあげたのは開幕から10試合目の4月29日である。難産の末の勝ち点3だった。
人が人を裁く。これほど難しいことはない。うまくいって当たり前、ミスでもしようものなら、一身に非難が集中する。4年に1度のW杯ともなれば、なおさらだ。 主審の西村雄一が迷うことなくレッドカードを掲げたのは、2010年の南アフリカ大会準々決勝のオランダ対ブラジル戦、後半28分の場面だ。ブラジルのMFフェリペ・メロが、オランダのFWアリエン・ロッベンを故意に踏みつけた――。西村はそう判断した。
何やら39年前のムードと似てきた。ひょっとすると、ひょっとするのではないか…。 開幕からカープが快調に飛ばしている。セ・パの交流戦がスタートして今年で10年目だが、首位で交流戦を迎えたのは初めてのことだ。「なぁに、どうせカープは鯉のぼりの季節までだよ」と冷ややかだったネット裏の視線も、最近では変化が見られるようになってきた。
福岡県の飯塚市と言えば筑豊地方の中心である。明治から昭和にかけては“炭鉱のまち”として発展した。隣の田川市とともに五木寛之の名作「青春の門」の舞台としても知られる。 その飯塚市で18日まで「飯塚国際車いすテニス大会」が開催されている。今回で30回目だ。なぜ飯塚で車いすテニスなのか。大会会長の前田恵理さんによれば、同市には総合せき損センターがあり、「最初はリハビリを目的にしたものだった」という。
巨人の前身である「大日本東京野球倶楽部」が1934年に誕生したことを受け、NPBは今季を「プロ野球80周年」と位置付けている。 大日本東京野球倶楽部のメンバーのひとりで、阪急軍や大阪タイガース・阪神軍でもプレーした日系2世・ジミー堀尾の来歴については、永田陽一著『ベースボールの社会史』(東方出版)に詳しい。
インテリと呼ばれた外国人選手はたくさんいるが、引退後、医師になったのは私が知る限りでは、広島、南海で活躍したゲイル・ホプキンスただひとりである。 広島の初優勝は1975年。球団創設26年目での悲願達成にホプキンスは大きな役割を果たした。主に3番打者として全130試合に出場。打率こそ2割5分6厘ながら33本塁打、91打点の好成績で打線を牽引した。
これは聞いてみなければわからなかった。同じタッチ板でもセイコー社製とオメガ社製とでは形状に大きな違いがあるのだという。 これだけでは何のことかわかるまい。実はこれ、プールの壁面に設置されているタッチ板のことである。
プロ野球がセとパに分立したのは1950年である。この年、驚くべき記録が誕生する。松竹の小鶴誠がプロ野球史上初めてホームランを50本台に乗せたのだ。小鶴は51本塁打、161打点で2冠王となった。ちなみに打点はシーズン最多記録で60年以上経った今も破られていない。
歴史には必ず転換点がある。元WBC・WBA世界ストロー級王者で、日本プロボクシング協会会長の大橋秀行は言う。 「川島郭志がブエノに勝ったのが大きかったんじゃないですか。メキシカンが相手でも“行けるぞ!”という気になったものですよ」
珍しくカープの前評判がいい。開幕前の順位予想で多くの評論家が2位、3位にあげていた。昨季、16年ぶりにAクラス入りを果たしたことで、チームは上げ潮ムードにある。中日との開幕3連戦も2勝1敗と勝ち越した。この余勢を駆ってダークホースから巨人の対抗馬への位置どりを確保したいところだろう。
驚いたことに中日・谷繁元信選手兼任監督の口から飛び出した開幕投手の名前は昨年オフ、一度は戦力外通告を受けた「川上憲伸」だった。 既視感がある。10年前、中日の監督に就任したばかりの落合博満(現GM)が開幕投手に指名したのはヤクルトからFAで移籍してきたものの、右肩痛のため1軍のマウンドから3年間も遠ざかっていた川崎憲次郎だった。
1968年のメキシコ五輪。陸上競技男子200メートルで金メダルを獲得した米国の黒人選手トミー・スミスは表彰台に上がるや、ややうつむき加減の姿勢で黒い手袋をつけた右手を高々と宙に突き上げた。銅メダリストの黒人選手ジョン・カルロス(米国)もスミスに続いた。違っていたのはカルロスの突き上げた拳が左だったということくらいだ。
「人間風車」も不死身ではなかった。英国出身の名レスラー、ビル・ロビンソンがさる3日(現地時間)、米アーカンソー州の自宅で死去した。75歳だった。 ロビンソンが来日するまで、外国人レスラーと言えばヒールが相場だった。正統派のシャープ兄弟ですら、力道山の前では仇役だった。