田崎健太

第77回 世界サッカー政治の鍵を握るザクー 〜伝説の代理人Vol.2〜

 質の高い情報を集めることはぼくたちの仕事にとって必須である。  国際サッカー連盟(FIFA)の会長だったジョアン・アベランジェに取材する前、ぼくは英文、そしてポルトガル語の資料を集めた。しかし、まだまだ空白が多かった。特にアベランジェが1974年にFIFA会長選挙に勝利する前の資料は限られていた。欧州大陸が大きな影響力を持っていた国際サッカー政治で、どうして後進国のブラジルから会長に選ばれたのか、彼は何したのか、ぼくはもっと知りたいと思った。

第76回 きっかけはアベランジェ 〜伝説の代理人vol.1〜

 取材とは、題材との格闘である。  強靱な肉体を持ち、尽きることのない力を持つ相手と対峙することは快感である。こちらも負けじと持てる全ての力を出して対抗する――。  時に、格上の相手とぶつかることもある。そうした取材をしているとき、指を高みに伸ばし登っていくような気になるものだ。

第75回 里内猛が描く日本の未来図Vol.14 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 ロンドン五輪で男子日本代表は、準決勝でメキシコ代表、そして3位決定戦で韓国代表に敗れて4位で終わった。  大会前、里内たちが立てていた6試合を戦うという目標は達成した。サッカー協会の川淵三郎最高顧問からはメキシコ五輪の銅メダルと比べて「自分たちの時の3位とは意味が違う。偉大な功労者だ、ありがとう」と労われた。

第74回 里内猛が描く日本の未来図Vol.13 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 ロンドン五輪に向けて、里内たちスタッフは合宿を行っている。コーチの武藤覚がグループリーグで対戦するスペイン、ホンジュラス、モロッコの分析ビデオを仕上げていた。合宿ではそのビデオを見ながら、基本戦術、セットプレーの対応を話し合った。

里内猛が描く日本の未来図Vol.12 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 2012年2月5日、U-23日本代表はアウェーでシリアと対戦した。勝てばロンドン五輪出場権を獲得できるという試合だった。  ところが日本は1対2と敗れてしまう。シリアと日本は3勝1敗の勝ち点9で並び、得失点差で日本はグループCの2位に後退した。ロンドン五輪の出場権を獲得できるのは各グループ1位。2位はプレーオフに回ることになる。

第72回 里内猛が描く日本の未来図Vol.11 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

「タフで、力強くて、海外でも臆さない、うまいだけでなくそういう点も考慮して選手を発掘して行こう」  これがロンドン五輪代表選考における里内たちの合い言葉となった。タフで、力強い選手――そうでなければ世界で戦うことはできない。特に五輪の場合、登録選手18名で、中2日での試合が続く。ワールドカップと比べてスケジュールも登録選手も条件が厳しいため、多少の怪我にも強く、90分間を走り切れる選手が必要だった。その象徴的な存在となったのが、永井謙佑である。

第71回 里内猛が描く日本の未来図Vol.10 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 2010年、里内が大宮アルディージャからの契約延長を断って、ロンドン五輪代表のフィジカルコーチを引き受けた最大の理由は、06年ドイツW杯にあった。  02年にジーコが代表監督に就任してからの日本代表は、中国で行われたアジアカップ(04年)で優勝。05年には世界で最初にW杯出場を決め、コンフェデレーションズカップにも出場した。コンフェデ杯ではメキシコとブラジルに敗れたものの、ギリシアに勝ち、本大会へ期待を持たせた。中田英寿、小野伸二、稲本潤一、そして中村俊輔――中盤に関しては史上最高といってもいい、才能ある選手を揃えていた。

第70回 里内猛が描く日本の未来図Vol.9 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 2010年春、里内猛はリオ・デ・ジャネイロでジーコに会い、その後、サンパウロ州の小さなクラブを回った。自分の基本にあるブラジルのサッカーを肌で感じ、学び直すつもりだった。スタジアムにも足を運び、リオのマラカナンスタジアムでは大雨の中、CRフラメンゴ対バスコ・ダ・ガマの試合を観戦した。フラメンゴには元ブラジル代表フォワード、アドリアーノが所属していた。かつて里内が長期滞在していた時代と違い、好況となったこの国にはアドリアーノのように著名なサッカー選手が戻ってくるようになっていた。ブラジルの社会、そしてサッカーが変わっていた。

第69回 里内猛が描く日本の未来図Vol.8 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 人に質問するという行為は、尋ねた側も知性を問われる――。  質問をする前にきちんと調べ、考えてきたのか、被取材者から見つめられる。日本のスポーツ新聞記者、テレビ局レポーターが多用する「今日、どうでした?」といった類の問いかけは、質問者がどこに問題点を見出して、何を聞きたいのかという具体性がない。残念ながら、少なくないメディアに携わる人間は、こうした当たり前のことに無自覚である。

第68回 里内猛が描く日本の未来図Vol.7 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 2002年日韓ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、仙台で行われた日本代表とトルコ代表の試合が0対1で終わった瞬間、「あのおっさんがここにいたら、えらい怒っているやろな」と、里内はジーコの顔を思い浮かべていた。

第67回 里内猛が描く日本の未来図Vol.6 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 1993年4月1日、里内猛は留学先のブラジルから日本に帰国したのも束の間、5日後の6日には、鹿島アントラーズのイタリア遠征に帯同した。ミラノで飛行機を降り、バスに乗り替えて約4時間、アドリア海に面した宿舎に到着した。辺りはマリティマと呼ばれる一角だった。

第65回 里内猛が描く日本の未来図Vol.4 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 早く一人前のフィジカルコーチになりたい――里内はそればかり考えていた。トレーニングの勉強会があれば足を運び、参考になりそうな本やビデオテープを片っ端から手に入れた。ある時、ヨーロッパにいいビデオがあると聞き、取り寄せてみると日本のビデオデッキでは再生できないPALシステムだった。どうしても見たいので、PALシステムを再生できるマルチシステムのビデオデッキを購入した。ビデオデッキは約30万円――会社員の里内にとっては、痛い出費だった。それでも知識欲の方が勝った。

第64回 里内猛が描く日本の未来図Vol.3 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

「おいお前、ジーコって知っているか?」  里内は住友金属サッカー部のマネージャーだった平野勝哉から声を掛けられた。 「知っているも何も……」  里内が口ごもったのも無理はない。ジーコが来日する前年の1990年、南米選抜対欧州選抜のチャリティーマッチが国立競技場で行われた。里内は住友金属にいたブラジル人のミルトン・クルスと一緒に見に行き、試合後にロッカールームへ入ることが出来た。試合に出場していた元ブラジル代表のソクラテスと記念撮影していると、目の前をジーコが横切った。「おっ、ジーコだ」。里内は心の中で呟いた。ジーコこと、アルトゥール・アントゥネス・コインブラは彼にとって憧れの選手だった。

第63回 里内猛が描く日本の未来図Vol.2 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 人生とは自分が強く望んで前へ進むというよりも、背中を押されて歩き出すことが多いものだ。里内猛の人生は、千葉県の検見川で行われたJSL(日本サッカーリーグ)主催の指導者講習にたまたま参加したことで大きく変わることになった。指導者講習を担当していたのは、ドイツ人のデットマール・クラマーだった。

第62回 里内猛が描く日本の未来図Vol.1 〜ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ〜

 国外で日本人と話をすると、会話の内容が妙に濃くなり、距離がすぐに縮まることがある。元日本代表のフィジカルコーチを務めた、里内猛さんともそんな出会いだった。今から2年前――ワールドカップイヤーの2010年のことだ。

第61回 ジーコ、かく語りき <最終回> 〜ジーコ・イラクの未来〜

 9月11日、埼玉スタジアムで行われたワールドカップ最終予選第4戦の日本代表対イラク代表戦で日本は香川真司を欠いたものの、本田圭佑、清武弘嗣、岡崎慎司、長谷部誠など欧州でプレーする選手を揃え、ほぼベストメンバーで臨んだ。  一方、イラクは前の試合から大きくメンバーを入れ替え、招集メンバー23人のうち7人が23歳以下の同国代表の選手だった。

第60回 ジーコ、かく語りき Vol.3 〜イラクの監督として特別なW杯へ〜

 2010年南アフリカW杯の期間中にもぼくはジーコと彼の自宅で会っている。彼の自宅は、リオデジャネイロの中心地から少し離れた新興住宅地のバハ・ダ・チジューカにある。ぼくが初めてブラジルを訪れた1995年頃は、大通り沿いにぽつりぽつりと建物が見えるだけだった。しかし、十数年の間に、高層マンション、ショッピングモールが次々と建ち、中心部の喧噪を嫌った裕福なカリオカ(リオっ子)が集まる高級住宅地となった。自宅と自らの経営するサッカーセンターをこの辺りに作ったジーコには、先見の明があったというわけだ。

第59回 ジーコ、かく語りきVol.2 〜なぜ、イラクなのか〜

 1995年1月、初めてジーコに取材をした時、ぼくはその場にいたものの、透明人間のような存在だった。  ブラジルで取材を手伝ってくれたのは、セルソ・ウンゼルチという、優しい顔つきの痩せた白人ジャーナリストだった。南米最大の出版社「アブリウ」の社員で、ブラジルで唯一のサッカー専門誌『プラカール』で働いていたが、車雑誌に異動になったとぼやいていた。セルソは、プラカールを創刊号から所持している程、サッカーを愛していた。話してみると、ぼくと同じ年で誕生日も近かった。

第58回 ジーコ、かく語りきVol.1 〜イラク代表監督就任のワケ〜

 人はなかなか本音を話さないものだ。特に多くの人間から取材を受けてきた、“取材慣れ”した人間に話を聞く時は注意が必要である。過去にどこかで話した内容をただ繰り返すことも少なくないからだ。彼らには、きちんと向き合い、繰り返し会い、しつこく話を聞かなければならない。

第57 回 広山が望むもの<最終回>

 リッチモンドキッカーズの所属しているUSL(ユナイテッド・サッカー・リーグ)は、通常のサッカーとは少々仕組みが異なっている。1試合で5人まで選手が交代可能なのだ。  強化、調整を目的とした親善試合は別として、サッカーでの一般的な公式戦の交代枠は3人である。元々、サッカーには選手交代そのものがなかった。「選手は試合の流れを読み、90分をどのように使うのかをそれぞれがコントロールすべきである。それが出来ない選手は先発として送り出すべきではない」と考える指導者もいる。しかし、同国において選手交代は試合の妙として考えられているのだ。

第56回 広山が望むもの<Vol.5>

 試合翌日のリッチモンドの空は雲に覆われていた。まさに今にも泣きそうな空模様の中、リッチモンドの中心、キャリーストリートで広山望と待ち合わせるていた。日曜日に営業している店は限られているのだろう、レストランが建ち並んだキャリーストリートは街全体の賑わいを詰め込んだようだった。空いている駐車場を探し当て、ぼくたちは木製のテーブルが並んだ天井の高いブラッセリー(レストラン)に入った。

第55回 広山が望むもの<Vol.4>

 特に関心もないのに、安易に「仕事だから」と引き受けた取材は、取材される側にとっても幸せな結果にはならない、とぼくは思っている。だから、ある時期から自分が前向きな興味を持てる人間しか取材しないようにしている。ぼくの指向は、賢明な編集担当者には分かっているのだろう。これまで“無理に”という類の依頼はなかった。とはいえ、ぼくのようなそれほど売れていないノンフィクション作家に、「好きなように書いて下さい」という優しい誘いなどない。描きたいと思う人物を取材するには、取材費等を捻出することを考えなければならなかった。 「リッチモンドに渡った広山望に会いに行くためにはどうすればいいか……」

第54回 広山が望むもの<Vol.3>

 リッチモンド・キッカーズのテストには、前年度のチームに所属していた選手たちも参加していた。中には、ブラジル人、カメルーン人、ドイツ人もいた。育ってきた文化、背景の違った選手たちの中でサッカーをすることに広山は懐かしく、愉しみを感じた。  もちろん、日本のクラブでもブラジル人選手とプレーした経験はあった。しかし、自分が外国人選手としてプレーをするのは、また異なった感覚である。これまでの経歴、プレースタイルを知らない外国人選手たちに、自分のプレーを認めさせなければならない。そうした、緊張感を味わったのは久し振りのことだった。

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