その他スポーツ

二子山親方(元大関・雅山)<後編>「モンゴル勢の意外な弱点」

: 名古屋場所は横綱・白鵬が連勝こそ43でストップしたものの、3場所連続26回目の優勝を収めました。白鵬とは何度も対戦していますが、強さの秘密はどこにあるのでしょう。 : 足腰が抜群にいいことに加え、軟らかい。こちらがいくら突いても、その力を吸収されてしまうんです。これは一番やりにくい。僕も相手の力を受け止める懐の深さが取りえでしたけど、白鵬はその上をいっていますね。

第14回 ニッタク(日本卓球)<後編>「試行錯誤の先にある光」

 4年前、日本卓球(ニッタク)のラバー開発・提供が、ある男子選手の復活を後押しした。選手の名は張一博。中国・上海出身で、高校時代に来日し、2008年に日本国籍を取得している。日本代表として世界選手権にも出場するなど、日本男子卓球界を牽引する選手のひとりだ。張が08年に帰化したのは、日本代表になりたいという強い思いがあったからだ。だが、彼はその頃、ある課題にぶつかっていた。それがラバーだった。

栃煌山雄一郎(春日野部屋/高知県安芸市出身)第4回「越えなければならない壁」

 2006年五月場所、栃煌山雄一郎は西幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越した。新十両への期待もあったが、次の七月場所の番付編成会議で昇進は見送りとなった。この場所は十両から幕下へ転落する力士が少なく、先場所に勝ち越した幕下の東西筆頭の力士のみが昇進となった。栃煌山の母親は、その時に番付が絶対である大相撲を実感したという。「たぶん本人が一番つらいだろうなと思いながら、“こういう世界でやっているのか”というのが記憶に残っています。今までのアマチュアのトーナメントとは違い、プロは番付という世界。頭ではわかっていたつもりですが、本当にすごいところで自分の子供が頑張って生きているんだなと思いました」

第248回 史上最大のドーピング・スキャンダルは現実となるのか

 ニューヨークで行なわれた今年のオールスターも無事に終了し、MLBは19日から後半戦に突入している。  熾烈なプレーオフの座席争いをはじめとして話題豊富な一方で耳を塞ぎたくなるような厄介な問題も存在する。在米メディアも大きなスペースを割いて伝え続けている“バイオジェネシス問題”である。

第142回「ツール・ド・フランスはスポーツにとどまらず!?」

「世界最大のサイクルロードレース」というキャッチフレーズで盛り上がっているツール・ド・フランス(TDF)。日本国内でも毎晩数十万人がLive中継に盛り上がるという。サイクルスポーツがまだそれほど一般化していない日本国内でもその名前は知れ渡るようになってきた。それも意外に自転車、いや、スポーツに縁のないような女性が見ている例が多く、意外な組み合わせに驚かされることが多い。なぜこのレースはそれほどに人を魅了するのか。また星の数ほどあるサイクルロードレースの中で突出した存在なのか。

山本祐揮(アームレスリング)<後編>「世界最強の腕力へ」

「明日、世界タイトルを獲るよ」  世界大会(2010年12月)の前日、山本祐揮は開催地のウクライナから静岡の自宅で待つ妻に電話でこう約束した。出発前は「どこまでやれるか」というまさに腕試しに行く気持ちだった。しかし、それは決戦の地を踏むと勝ちたいという欲望に変わっていた。

栃煌山雄一郎(春日野部屋/高知県安芸市出身)第3回「刺激し合う好敵手の存在」

 中日を終えた七月場所。綱取りを狙う大関稀勢の里を筆頭に関脇の豪栄道、妙義龍と、栃煌山雄一郎と同学年の力士が三役に顔を揃えている。この世代は三役以降にも東前頭2枚目の栃煌山をはじめ、将来を有望視される力士が虎視眈々と番付上位を狙っており、相撲界豊作の年と言っていいだろう。「誰にも負けちゃダメですけど、同年代はやっぱり気合が入ります」と、栃煌山も闘志を燃やす。中でも、豪栄道とは小学生時代からの宿敵である。「やっぱり負けたくないし、意識はしますね」と語る栃煌山が、豪栄道と初めて対戦したのは、小学4年の時の全国大会だ。自分より小さい相手に、栃煌山は“勝てるだろう”と高をくくっていた。しかし、軍配は豪栄道に上がった。翌年のわんぱく相撲では、1回戦で対戦。今度は「強いと分かっていた」と油断はしなかった。だが、またしても相手の軍門に下った。一方の豪栄道はそのまま全国の頂点まで登り詰めた。しかし、中学時代は栃煌山が全国制覇を成し遂げ、意地を見せている。2人は切磋琢磨しながら、互いの相撲道を究めていった。

二子山親方(元大関・雅山)<前編>「対照的だった若と貴」

: 大相撲は名古屋場所の真っ最中です。今回は今年の3月場所で引退した元大関・雅山の二子山親方をお招きしました。親方、長い現役生活お疲れ様でした。 : まだ断髪式前でまげもありますし、親方と呼ばれるのは慣れませんが(苦笑)、よろしくお願いします。

第13回 ニッタク(日本卓球)<前編>「『佳純ベーシック』で世界の8強」

 2012年ロンドン五輪、日本卓球界に新たな歴史が刻まれた。団体女子で日本チームが決勝進出を果たし、銀メダルに輝いたのだ。男女合わせて史上初のメダル獲得が決定した準決勝のシンガポール戦、最後のダブルスでのマッチポイントで相手サーブのリターンエースを決めたのは、チーム最年少の石川佳純だった。石川は個人シングルスでもベスト4に進出するという快挙を成し遂げた。今回はその石川をはじめ、国内のみならず世界の卓球界を陰で支えている企業のひとつ、日本卓球(ニッタク)の用具開発に迫る。

栃煌山雄一郎(春日野部屋/高知県安芸市出身)第2回「“原点”を磨いた中学時代」

「相撲は負け出したりすると、やっていることがわからなくなる。たとえ勝っていても不安なところが実はあるんだよ。いつ負けるんじゃないかと、心で自分と闘っている。だから普通にできることが、できなくなっている時に原点へと戻る必要がある」  栃煌山雄一郎の師匠である春日野親方(元関脇・栃乃和歌)が言う“原点”とは、相手を押して前へ出ることだ。それが相撲の基本であり、核だという。栃煌山が、その原点を培ったのは、安芸中学に進学してからだ。

第247回 MVP、サイ・ヤング賞、新人王は? 〜2013年MLB前半戦総括〜

 ニューヨークのシティ・フィールド(メッツの本拠地)で行なわれる今年のオールスターゲームまで、もうあと2週間――。今季前半戦では意外な選手の活躍、新星の台頭が相次ぎ、多くのファンを喜ばせるシーズンになっていると言って良い。そこで今回は前半戦のMVP、サイ・ヤング賞、新人王を独自に選定し、ここまでを振り返っていきたい。

山本祐揮(アームレスリング)<前編>「“一瞬の美”に魅せられて」

 アームレスリングは競技台を挟んで2人の選手が対峙し、互いに腕1本のみで勝負をつける。究極の力比べともいえるだろう。そんなアームレスリング界で、最強への道をひた走るのが山本祐揮だ。その柔和な笑顔とは少々不釣り合いな身長183センチ、体重97キロの体躯を誇る。今年6月9日に行われた全日本選手権ではA−1(レベルカテゴリーの種類。同大会ではこの下にA−2も設けられている)レフトハンド100キロ級を制し、3階級制覇(10年80キロ級、11年90キロ級。ともにレフトハンド)を成し遂げた。

栃煌山雄一郎(春日野部屋/高知県安芸市出身)第1回「不器用でも真っすぐな相撲道」

 日本の国技とされる大相撲だが、2003年に貴乃花(現・貴乃花親方)が引退して以来、大相撲の土俵に日本人横綱の姿は消えたままだ。幕内の優勝も06年初場所で栃東(現・玉ノ井親方)が賜杯を手にしてから、44場所連続で外国出身の力士の手に渡っている。春日野部屋に在籍する栃煌山雄一郎は、巻き返しが期待される日本人力士のひとりである。187センチ、158キロの恵まれた体躯から、馬力のある押し相撲が武器だ。

第12回 ちょっと一服が生んだ「いい仕事」(武豊)

 上がり3ハロンは33秒5。他の馬が止まっているように見えた。  さる5月26日に行なわれた第80回日本ダービーを制したのは一番人気のキズナだった。鞍上は武豊。2005年のディープインパクト以来5度目のダービー制覇だった。観客数もここ10年では、05年の14万143人に次ぐ13万9806人を記録した。主役の帰還を多くのファンが待っていたのだ。

山岡祐也(FC東京バレーボールチーム/高知県高知市出身)最終回「相手のリズムを崩すセッターに」

「中田(学)さんと同じチームに行きたくて、学生時代はFC東京からの誘いを2度も断っていたんです」  山岡祐也は、当時の状況を苦笑しながら振り返った。しかし、目指したチームとは縁がなかった。他の就職先は探していなかった彼の中に「教員免許もあるし、高知に帰ろうかな……」という思いがちらつき始めた。そんな時、FC東京から3度目の誘いを受けた。「3度も誘ってくれるところはない。もう少し、バレーをやろうと思いました」。2008年7月、こうして山岡は当時?・チャレンジリーグに所属していたFC東京に入団した。

第246回 最強王者・メイウェザー、近年最大の一戦へ

「9月14日の対戦相手に“カネロ”アルバレスを選んだ。ファンの願いに応えるつもりだ。MGMグランドで試合を行なうよ」  5月29日の夜、無敗の5階級制覇王者フロイド・メイウェザーは自身のツイッター上で次戦についての報告を行った。その直後、情報は瞬く間にアメリカ中を飛び交い、ボクシングファンを騒然とさせることになった。

第141回「トライアスロン界のホノルルマラソンをつくれ!」

 今では、すっかり国民的スポーツになったマラソン。どんな職場に行っても、市民ランナーがいることが珍しくない時代になった。決して身体に優しいわけでもなく、ゲーム性のもないこのスポーツが日本で広がったきっかけは、やはり「ホノルルマラソン」だろう。

金山英勢(リュージュ)<後編>「リュージュに人生を懸ける」

 金山英勢は、高校に入っても、陸上競技とリュージュの“二足の草鞋”を履き続けていた。1年の冬、金山はリュージュで初めての海外遠征に帯同した。トリノ五輪(イタリア)の競技会場ともなったチェザーナでのトレーニングで、悲劇は起こった。16歳の金山は、ユース(14〜16歳)のスタート台から滑っていた。だが、好奇心も向上心もあった彼は「もっと上に上がりたい」と、コーチを半ば押し切るかたちで、本来はジュニア(17〜19歳)が滑走する高さからのスタートにチャレンジした。そこで金山は滑走中に操作を誤り、宙を舞った。そのまま勢いよくコース上に落下。立ち上がろうとした瞬間、「高圧電流が走った」という今まで感じたことのない激痛が金山を襲った。脳震盪も起こしており、気が付くと、担架で運ばれていた。

山岡祐也(FC東京バレーボールチーム/高知県高知市出身)第3回「セッターとして生きる決意」

「この選手はセッターとして大学へ送り出さないといけない」  高知中学・高等学校の高等部バレーボール部監督の大基喜は、中等部から進学してきた山岡祐也を見てこう考えていた。175センチ前後のアタッカーでは大学には受け入れられないだろうという見方が理由だった。しかし、山岡が高校時代に主に起用されたポジションはアタッカー。中学時代同様、チームには柱となるアタッカーがいなかったからだ。「アタッカーとしての彼の器用さとうまさに頼らざるを得ませんでした」。大は当時の複雑な心境をこう明かした。

山岡祐也(FC東京バレーボールチーム/高知県高知市出身)第2回「バレーの楽しさを知った野球少年」

 山岡祐也がバレーボールを始めたのは小学1年生の時だ。5歳上の姉が地元のバレーボールチームに所属していたため、よく親と一緒に体育館へ見学に行っていた。それがきっかけで、「いつの間にかチームに入っていた」という。だが、当時の山岡が本当にやりたかったのは野球だった。グローブとボールを持って、友人と公園で遊ぶのが日課だった。

第245回 レブロン・ジェームス、歴史との戦い 〜2013年NBAファイナル展望〜

「僕がプレーするのは優勝を勝ち取るため。その目標にたどり着くためには、とても長い時間が必要で、ファイナル制覇はバスケットボール人生の中で達成するのが最も難しいことだった。いつでも成功できるわけではなく、(2007、11年のファイナルでは)2度も敗者の側にまわってしまった。今季、こうして再び勝負ができる立場に戻ってこれたことをうれしく思う」 “キング・ジェームス”との愛称を冠されてNBA入りしたレブロン・ジェームスにとっても、昨季、マイアミ・ヒートの一員として初優勝を飾るまでに9年もの長い時間が必要だった。そんな経験を経てきたからこそ、サンアントニオ・スパーズと対戦するファイナル開始前の言葉には余計に実感がこもっているように感じられたのだろう。

金山英勢(リュージュ)<前編>「時速140キロのスピードに魅せられて」

 リュージュはボブスレー、スケルトンと並ぶ3大ソリ競技のひとつだ。ソリの上に仰向けで寝た姿勢で曲がりくねった坂道を滑走し、1000分の1秒を競うリュージュ。男子1人乗り種目では、1000メートルを超えるコースを最高時速140キロ超の高速で滑り、ボブスレーとともに“氷上のF1”と呼ばれている。スピードに乗った状態でソリごとコースの壁にぶつかることもあり、身体への衝撃も大きい。常に危険と隣り合わせのスポーツだ。そのスリルに魅せられた男がいる。現在、ソチ五輪を目指す日本代表の金山英勢(札幌学院大)である。

山岡祐也(FC東京バレーボールチーム/高知県高知市出身)第1回「チームの命運を背負う司令塔」

 バレーボールでセッターを務める選手は、自身の指示やプレーで試合の流れをコントロールし、チームを勝利に導く役割から“司令塔”と呼ばれる。ただ、それゆえに負けた時は戦犯として矢面に立たされることも少なくない。?・プレミアリーグのFC東京でセッターを務める山岡祐也は今季、そんなセッターとしての責任を感じ続けた。

石橋良太(拓殖大学野球部/明徳義塾高校出身)最終回「投手転向への道のり」

「石橋、ちょっと投げてみろ」  高校2年の夏、高知県予選を前にしたある日のことだ。その日は雨が降っていたため、雨天練習場で練習をしていた。すると、馬淵史郎監督が石橋良太を呼び寄せた。石橋にはなぜ呼ばれたのか、監督が何を考えているのか、わかっていた。当時、チームは投手のコマ不足という事情を抱えていた。そこで投手経験のある石橋をテストしようとしていたのだ。 「できてもうたら、どないしよう……」  石橋としては野手に専念したいという気持ちが強かった。だが、結果は「合格」。石橋はそのままの流れで、新チームではエースとなった。これをきっかけに、石橋はその後、“野手”から“投手”への道を進むことになるのであった。

石橋良太(拓殖大学野球部/明徳義塾高校出身)第3回「プライドをもって臨んだ甲子園」

「史上最弱」と言われたチームの躍進は、その年の秋から始まった。県、四国を制した明徳義塾は、明治神宮大会では26年ぶりにベスト4進出を果たした。その理由を、石橋は次のように語っている。 「なぜ勝つことができたのか、自分たちも不思議な気持ちでした。でも、“明徳義塾”という看板を背負っているというプライドは常にありましたね。絶対に負けたくないという気持ちで戦っていました」  ストライプのユニフォームを着ているという誇りが、本番での強さを引き出していた。

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