その他スポーツ

内村、前人未到の4連覇! 加藤は2位 〜世界体操競技選手権〜

 現地時間3日、世界体操競技選手権の個人総合決勝がベルギー・アントワープで行われ、内村航平(コナミ)が91.900点で、大会史上初の4連覇を達成した。通算優勝回数も3度で並んでいた女子のスベトラーナ・ホルキナ(ロシア)を抜き、最多となった。内村は決勝の6種目すべてで15点台をマーク。「予選と同様にミスが出なかったことが結果につながったと思う」と勝因を語った。また加藤凌平(順天堂大)が90.032点で2位。日本人選手が世界選手権で1、2位を占めたのは、05年メルボルン大会の冨田洋之、水鳥寿思以来、3度目となった。4日には女子の個人総合決勝が行われ、日本勢では笹田夏実(帝京高)と寺本明日香(レジックスポーツ)が出場する。

Little Tiger(ムエタイ)「タイガーマスクの継承者、新たな伝説へ」

 ジャッジを待つ間、王者は下を向き、挑戦者は力強く前を見据えていた。どちらが勝者かは一目瞭然だった。3−0の判定で新チャンピオンが誕生した。9月15日、東京・ディファ有明でムエタイファイターのLittle Tigerが4個目の世界タイトルを獲得した瞬間だった。WPMF(世界プロムエタイ連盟)世界女子ピン級の王座は、彼女にとって3度目の挑戦にして、ついに手に入れたベルトだ。

中野美優(日本体育大学水泳部/高知県高知市出身)最終回「水球と共に歩く人生」

「体力面はもちろん、精神的にも成長を感じています」  親元を離れ、神奈川県横浜市にある日本体育大学に通う娘について、母・美和はこう語る。昨年、中野美優は同大の女子水球部に入った。女子では高知県出身者は初めてだという。1年生は中野のほかにもうひとりいた。だが、マネージャーとしての入部であり、プレーヤーとしては中野ひとりだった。日本代表でも活躍する三浦里佳子が卒業し、ゴールキーパー(GK)が不在の状態だったこともあり、自ずと中野が正GKとなった。とはいえ、新人であることに変わりはない。 「詳しくはわかりませんが、いろいろと気を遣うこともあったと思うんです。そうした経験によって、周りへの気配りもできるようになってきたんじゃないかな」  母親は娘の確かな成長を感じ取っていた。

野々村笙吾(順天堂大学体操競技部)<後編>「清く、正しく、美しく」

 数々のタイトルを手にし、順風満帆だった高校生活を終え、野々村笙吾が進学先に選んだのは順天堂大学だった。五輪出場選手を多数輩出している名門校で、野々村が入学する前年の全日本学生選手権(インカレ)でも優勝を収めるなど、大学体操界をリードしていた。強豪校でありながら指導方針は選手の自主性を尊重しており、彼の通っていた市立船橋高校と同じだったことも魅力のひとつだった。そして、何より野々村が順大を選んだのには、憧れの冨田洋之がコーチでいたからだ。

中野美優(日本体育大学水泳部/高知県高知市出身)第4回「やり続けたからこその光」

「面白くない。嫌やなぁ……」  中野美優は水球が嫌いになりかけたことがある。中学3年の時だった。中学2年の3月、中野が所属した春野クラブは15歳以下の女子チームが県勢初の優勝を果たした。中野はその主力メンバー。センターバックだった彼女は、指揮官からも“絶対的な守備の要”と信頼されていた。だが、その喜びは束の間だった。大会後、チームの柱だった先輩2人が抜け、戦力はダウンした。だが、それとは裏腹に周囲からのプレッシャーは膨らむばかり。そんな中、練習は厳しさを増し、中野は楽しさを感じなくなっていたのである。

16歳・山口、スーパーシリーズ制覇! 〜ヨネックスオープンジャパン〜

 22日、バドミントンのヨネックスオープンジャパン2013の最終日が行われ、女子シングルス決勝で山口茜(福井・勝山高)が打田しづか(日本ユニシス)との日本人対決を制し、大会史上最年少での初優勝を果たした。32回目の同大会で日本人の優勝は初めて。オリンピック、世界選手権に次ぐスーパーシリーズの制覇は、女子シングルスでは三谷美菜津(NTT東日本)以来、2人目の快挙となった。一方、男子シングルスでは、田児賢一(NTT東日本)が国際バドミントン連盟(BWF)世界ランキング1位のリー・チョンウェイ(マレーシア)にストレートで敗れ、男女のアベック優勝はならなかった。

第252回 カーン、ゴロフキン、それともパッキャオ? 〜メイウェザー、次戦の相手を予測する〜

 5階級制覇王者フロイド・メイウェザーの輝かしいキャリアの中でも、最高傑作のひとつに数えられる見事なパフォーマンスだった。  9月14日、ラスベガス――。“近年最大のファイト”と称されたメイウェザー対サウル・“カネロ”アルバレスのWBA、WBC世界スーパーウェルター級統一戦だったが、盛り上がりを見せたのは試合前までだった。

第144回「オリンピックで日本は変われるか」

 9月8日、記念すべき東京オリンピック・パラリンピック開催が決定した。早朝から起きて、この瞬間をLiveで見ていた方も多かったのではないだろうか。正直、決定に対する反応の早さと大きさは、東京オリンピックに対する国民の期待の大きさ、注目度の高さを示すものではなかったかと思う。まあ、国民気質として決まったもの、大勢が注目するものに対して興味を示すというのはいつものことではあるが……。いずれにしても、多くの人々がオリンピック開催に関して興味を持ってくれるということは嬉しいことだ。

高橋みなと(プロサーファー)<後編>「見る人を魅了するライディング」

「今日は海に入らなくてもいいかな……」  2011年3月11日、高校2年だった高橋みなとはその日、朝起きるといつものように波をチェックした。仙台新港から臨む海は、不気味なほど静かだった。比較的近い福島県の海岸では多少、波があるとの情報もあったが、彼女は海でのトレーニングをとりやめた。ちょうど高校のテスト期間明けで、いつもなら波に乗れなかった分を取り戻したい気持ちで溢れているはずだった。普段は「どんな波でも乗りなさい」という母親も、その日は練習中止について反対しなかった。それから数時間後、経験したことのない揺れが仙台の自宅を襲った。「東日本大震災」だ。

中野美優(日本体育大学水球部/高知県高知市出身)第3回「“不毛の地”が全国の頂点へ」

 2008年3月30日、高知県水球界にとって、歴史的快挙が成し遂げられた。第30回JOCジュニアオリンピックカップ春季大会。15歳以下女子の部で高知代表の春野クラブが、決勝トーナメントを勝ち抜き、全国制覇を達成。それは“水球不毛の地”であった高知にとって、全カテゴリーにおける初めての栄冠だった。 「良かったな」。そう言って、徳田晃監督はプールから上がってきた選手ひとり一人と握手をした。守りの要として優勝に貢献した中野美優は、その時の握手が今でも忘れられない。自分が初めて認められたような気がしていた――。

野々村笙吾(順天堂大学体操競技部)<前編>「五輪金メダルへのラストピース」

 世界の頂点を知る者たちが、「彼」の才能を賞賛している――。近年、日本が生んだ世界に誇れる体操選手といえば、冨田洋之(順天堂大学体操競技部コーチ)と内村航平(KONAMI)である。その2人が自らを超えるべき選手と期待を寄せているのが、順大体操競技部の野々村笙吾だ。20歳になったばかりの大学2年生は、3年後のリオデジャネイロ五輪で、北京、ロンドンと2大会連続で逃した団体金メダル獲得のキーマンとして、目されている。

中野美優(日本体育大学水球部/高知県高知市出身)第2回「苦手克服から虜へ」

「上手に泳げるようになれればいいな」  中野美優が水球を始めたのは小学4年の時。友人の誘いもあって自宅の近所に1年半前にできたばかりの「春野クラブ」に入会したのが始まりだった。とはいえ、当時の彼女は「水球」がどんな競技なのか、まったく知らなかった。泳ぐことが苦手で、それを少しでも克服できればという程度の気持ちだった。そんな自分がまさか、水球にどっぷりとはまるなどとは、その時の彼女は想像すらしていなかった――。

第251回 ヤンキース、“ミラクルラン”は実現するか

「それにしてもヤンキースはよくこの位置にいるなぁ……」  2013年も9月を迎える頃、そんな声がメディアの間からよく聞かれるようになった。9月5日からの大事なレッドソックスとの4連戦を迎えた時点で、ワイルドカード圏内まで2.5ゲーム差。ここまでの波瀾万丈の道のりを思い返してみれば、現時点でプレーオフ進出が不可能ではない位置にいることは、確かに軽いミラクルにも思えてくる。

高橋みなと(プロサーファー)<前編>「必然だったサーファーへの道」

「毎日、海にいるのが当たり前でした」  プロサーファー・高橋みなとが初めて海を訪れたのは生後2週間の時だ。サーファーである父とウインドサーファーの母との間に生まれた。名前の「みなと」は、故郷でありホームポイントである宮城県の仙台新港の「港」からつけられた。幼い頃から両親に連れられた海が高橋の遊び場だった。そして、そこで多くのサーファーを目にしてきた。そんな彼女が、サーファーへの道を歩んだのはもはや必然だった。高橋は小学4年になると、地元のサーフショップが主催するサーフィンスクールに入校した。

中野美優(日本体育大学水球部/高知県高知市出身)第1回「GK復帰への思いがつなげた道」

 2012年9月、水球女子アジアジュニア選手権(カザフスタン)。ゴールキーパー(GK)中野美優は初めて日の丸を背負い、国際大会デビューを果たした。 「海外の選手と試合するのは初めての経験でした。結構緊張しちゃって、大会のことは正直あまり覚えていないんです(笑)。でも、とにかく手足が長くて、日本人とはまったく違う、思ってもみないところからシュートが来たことに驚きました」  中野は初めて“世界”を肌で感じていた。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)最終回「目指すはアマ・ナンバーワンのキャッチャー」

「この人はすごい……」  2010年に法政大学野球部へ入部した木下拓哉は、入寮直後、法大と社会人チームのオープン戦を見学していた。木下は試合に出場していた先輩キャッチャーに衝撃を受けた。当時4年生だった廣本拓也(現日本生命)である。

NO EXCUSE(車椅子バスケットボール)<後編>「言い訳のないチャレンジ」

「今回の選手権では2人の若手に注目してください」  5月に行なわれた内閣総理大臣杯争奪第41回日本車椅子バスケットボール選手権大会の直前、チームのみどころを訊くと、及川晋平ヘッドコーチからは2人の名前が挙がった。湯浅剛と田中聖一。ともに加入2年目、チーム一の成長株だ。そしてもうひとり、彼らの名前を挙げたのがチームの中心である安直樹だ。彼は2人をこう表現している。 「今、一番成長著しいのは湯浅と聖一でしょう。賢くて理解が早い湯浅は、チームの頭脳的存在で抜群の安定感がある。一方、聖一の場合は、持っているポテンシャルが非常に高い。当たった時は大きいんです」  言うなれば、湯浅と田中は正反対のタイプのプレーヤーだ。そんな2人が今、チーム強化のカギを握っている。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)第3回「備えていた“野球を見る眼”」

「木下は野球を見る眼がすごく優れていたんです」  島田達二は木下拓哉をキャッチャーに指名した理由をこう明かした。だが、なぜ木下をキャッチャーにコンバートする必要があったのか。当時の高知高では、2年生と木下の同級生の2人がキャッチャーを務めていた。しかし秋季大会が終わると、同期のキャッチャーが休部状態になった。そのため、もう1人、キャッチャーをつくる必要性が出てきたのだ。そこで島田が指名したのが木下だった。では、「野球を見る眼」とはどういうことだったのか。

第250回 フィリピンの英雄が迎える“危険な復帰戦” 〜マニー・パッキャオvs.ブランドン・リオス展望〜

 昨年12月8日、場所はラスベガスのMGMグランドガーデン。マニー・パッキャオがファン・マヌエル・マルケスから浴びた右カウンターは、近年のボクシング界で最も衝撃的なKOパンチとして記憶されていくことになるだろう。  マルケスがパッキャオをキャンバスに送り込んだ6ラウンドの一撃で、さまざまなものが失われた。1999年以降は1度もKO負けがなかったパッキャオの不倒記録、フロイド・メイウェザーとのメガファイトが近未来に実現する可能性、そして、フィリピンの英雄がまとっていた不可侵のオーラ……。半ばフィクションじみた快進撃を続けていた現代の怪物ボクサーはついに轟沈し、私たちボクシングファンも現実の世界に引き戻されることになった。

第143回「人ごみでロードレースを!」

「ロードレース」はなぜ「ロードレース」と言うのか? それはもちろん「ロード=道」で行うからである。普段、一般市民が行きかう道を、その日だけは自転車やランナーがコースとして使うのだ。一方、本来の道ではない公園や、港などのクローズド・スペースで開催されているレースは、本当の意味での「ロードレース」ではないのかもしれない。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)第2回「野球人生を変えた野手への転向」

 小学校に入る前、木下拓哉がいつも目にする光景があった。4つ年上で地元の少年団で野球をしていた兄と父親がキャッチボールしている姿だ。「僕もやりたいなぁ」。木下はそんな思いを募らせていた。すると、入学した小学校には野球が好きな同級生が多かった。みんなすぐに野球仲間となり、1年の頃は「公園などで遊ぶ時はいつも野球だった」という。そして、木下は2年から少年団に入り、本格的に競技として野球を始めた。ポジションは現在務めているキャッチャーではなく、ピッチャー。彼は「野球をやるなら“ピッチャーで4番”というイメージを持っていました」とピッチャーを志望した理由を懐かしそうに振り返った。

NO EXCUSE(車椅子バスケットボール)<前編>「2年連続準優勝がもたらす光」

<これは失敗ではなく負けだ。失敗はしていない。失ったものはないと思う。>  2013年5月5日。内閣総理大臣杯争奪第41回日本車椅子バスケットボール選手権大会・決勝。2年連続で準優勝となったNO EXCUSE(東京)のヘッドコーチ及川晋平は、翌日のブログでこう書いている。昨年に続いて決勝に進んだNO EXCUSEだったが、宮城MAXに45−77で敗れ、大会史上初の5連覇を阻むことはできなかった。 「もう、まさに完敗でした。あんなやられ方、久しぶりでしたよ」  主戦の安直樹がそう口にするように、ロンドンパラリンピック日本代表の半数以上が所属する宮城MAXにNO EXCUSEは歯が立たなかったと言っても過言ではなかった。 「MAXの力が上でした」  及川もそう認めている。だが、チームは決して後退したわけではない。そこには着実に前進している姿があった。

木下拓哉(法政大学野球部/高知県高知市出身)第1回「名門を勝利に導く扇の要」

 法政大学野球部は東京六大学野球リーグでは最多の44回、大学日本選手権8回、明治神宮野球大会3回の優勝を誇る。そんな大学球界屈指の名門の正キャッチャーを務めるのが木下拓哉(4年)だ。昨年の六大学野球秋季リーグからレギュラーとしてマスクをかぶるようになった。その秋季リーグではベストナインに選出される活躍を見せ、法大の7季ぶりの優勝に貢献。プロのスカウトからも注目され、今秋のドラフト指名候補として挙げられる期待のキャッチャーである。

第249回 “敗者なき戦い”の後で 〜オマー・フィゲロアvs.荒川仁人〜

「ニヒト・アラカワは地球上で最も勇敢な男かもしれない!」  オマー・フィゲロア対荒川仁人戦を中継した「Showtime」の実況担当は、激闘の興奮から試合中に思わずそうまくし立てた。  アナウンサーがときにオーバーに語り過ぎるのは、どの国でも同じ。しかし、7月27日に行なわれたWBC世界ライト級暫定王座決定戦を目の当たりにしたファンは、誇大表現にもそれほど違和感は抱かなかったかもしれない。

栃煌山雄一郎(春日野部屋/高知県安芸市出身)最終回「覚醒し始めた大器」

 昨年の五月場所で賜杯にあと一歩まで迫った栃煌山雄一郎だが、周囲の期待に応えられなかった自分を責めていた。だからこそ続く七月場所は、その雪辱を晴らす機会となるはずだった。だが、旭天鵬には上手出し投げで勝利し、先場所の借りを返したものの、15日間を終えての結果は4勝11敗の惨敗だった。 「名古屋での大負けは悔しかった。“優勝決定戦までいったのは、番付が下だったから”という雰囲気にもなりますしね。もっと精神的にも強くならないとダメだと思いました」  惜敗と大敗。栃煌山は2つの負けを自らの成長の肥やしとし、大輪の花を咲かせようとしていた。

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