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ヤンキース対マリナーズの対戦は、例年イチローと松井の対決で日本のファンからの注目を集める。しかし6月30日から行なわれた今季最初の3連戦の際には、両者の立場はあまりに違い過ぎ、並べて語られるのが憚られるほどだった。
: 引退後は、部屋付きの親方として若手を指導する立場になりました。教わる側から教える側になっての変化は? : 今まで現役として部屋の若い衆に見られてきたわけですから、自分ができなかったことを人にやれと言っても説得力がない。ですから、自分がやってきたことをしっかり教えるようにしています。相撲は結果が良ければ、それでいいものではない。結果に至るまでの過程が大事です。礼儀作法から始まって稽古への取り組み方に至るまで、基本を大切に指導しています。
: 親方といえば、アマチュア時代から勢いのある突き押しが持ち味でした。大相撲に入って取り口に変化はありましたか? : スタイル自体は変わっていません。ただ、大相撲になると張り手が加わる(アマチュアでは禁止技)。相手から張り手をバーンとくらうと一瞬、グラッとくることがよくありました。
全米一の人気チームであるレイカーズと上昇一途のマジックが対戦した今季のNBAファイナルは、レイカーズが4勝1敗で圧勝。伝統フランチャイズの威厳をまざまざと見せつけ、15度目のファイナル制覇を達成した。 最終戦となった第5戦は敵地オーランド開催だったというのに、試合後のアリーナはレイカーズのための一大パーティ会場となった。勝利が決まった瞬間、コービー・ブライアントが大きくジャンプして拳を突き上げたシーンは、今年のスポーツ界でも最大級のハイライトとして記憶されていくだろう。長いシーズンの終わりに相応しい、それは華やかで感動的な光景だった。
6月15日、日本の自転車界にとって素晴らしいニュースが飛び込んできた。 「新城幸也、ツール・ド・フランス出場決定!」。私も思わずそのリリースを読みなおしてしまった。サイクルロードレースの頂点ともいえるツールに日本人が出場するのは1996年の今中大介さん以来3人目。久々のビックニュースに一般メディアも含めて自転車界は大いに盛り上がった。
: 初土俵は1994年の1月場所。幕下付出からのデビューでした。最初の取組のことは覚えていますか? : 覚えています。めちゃくちゃ緊張しました。まずお客さんの多さにビックリしましたね。アマチュア相撲でガラガラの中、相撲をとることに慣れていましたから、その熱気に圧倒されました。
グラクソ・スミスクライン株式会社が運営する喘息情報ウェブサイトにて、当HP編集長・二宮清純がナビゲーターを務める対談シリーズ「二宮清純のゼンソク人間学」が好評配信中です。幼い頃から喘息に悩まされてきた二宮が、病気を克服して活躍しているスポーツ選手や各界の著名人などをゲストにお招きします。喘息をいかに乗り越えるかというテーマで話を進める中で、この病気への理解を深め、患者さんを勇気づけることを目指しています。現在、女子プロゴルフで活躍中の福嶋晃子選手(NEC)、帝京大学医学部内科学講座呼吸器・アレルギー学教授の大田健先生との対談を公開中です。
: 親方の出身地は旧野村町。年に1度、乙亥大相撲が開催され、もともと相撲が盛んな町ですね。 : そうですね。僕も小学生の時から出場していました。当時はそんなに強くなかったのですが、体が大きかった。相撲好きの父や先生に勧められてやらされていました。
今季のNBAファイナルはレイカーズ対マジックの対戦となった。 レブロン・ジェームス率いるキャブスが敗れてしまい、レブロンとコービー・ブライアントの最強プレーヤー対決を期待していたファンたちはがっかりしたことだろう。しかし代わりに檜舞台に上がるマジックも多数の魅力的な若手スター候補を擁しており、シリーズ開戦後はフレッシュなプレーで全米のスポーツファンを沸かせてくれるに違いない。 長い旅路の果てに、頂点に立つのは通算15度目のファイナル制覇を目指す名門レイカーズか。あるいは大黒柱ドワイト・ハワードを軸に躍進を続けるマジックか。今回はこの最終決戦の見どころをいくつかピックアップしていきたい。
5月30日、元関脇・玉春日が大銀杏に別れを告げた。両国国技館で行われた引退、年寄楯山襲名披露大相撲。総合格闘家の桜庭和志をはじめ、約300人がまげにはさみを入れ、15年間の労をねぎらった。「みなさまに応援していただいたおかげで、長く相撲を続けることができました」。涙をこらえていた断髪式とはうって変わり、ファンに挨拶した時の晴れやかな表情がとても印象的だった。当サイトでは1999年の開設直後、「FORZA EHIME」コーナーで玉春日を特集している。あれから10年、その土俵人生と今後の夢に編集長・二宮清純が迫った。
中央競馬2次試験を2カ月後に控えた07年大晦日。鷹野は高知競馬で落馬負傷し左足くるぶしを骨折してしまう。本来ならば完治するのに3カ月はかかる重症だ。くるぶしは馬に騎乗する際、曲げ伸ばしをするため負担がかかりやすい。「これはまずい」。試験まで時間がない中、鷹野は焦りを感じた。
5月が自転車月間だというのはご存じだろうか? 残念ながらあまり認知されていないようだが、自転車普及協会を中心にそういうことになっており、さまざまなイベントが開催されていたりする。ちょうど今週は、大阪から東京にかけて1週間にわたって繰り広げられるツアーオブジャパンなども開催され、新聞などで目にする機会もあるだろう。いや、そうあって欲しい!?
騎手会長として精力的に高知競馬のPR活動をしていた鷹野に1つのニュースが飛び込んできたのは2003年10月のこと。そのニュースは、これまで考えたこともなかった中央競馬への道を意識させるものだった。兵庫・園田競馬所属の赤木高太郎騎手が中央競馬騎手試験の1次試験を突破したのだ。
ニューヨーク・ヤンキースが今年も出遅れている。 オフの間に華々しい大型補強を展開し、今季こそはハイレベルなア・リーグ東地区でも圧倒的な強さで突っ走ると予想した識者も多かった。しかし蓋を開けてみれば、5月13日の時点で16勝17敗と低迷。地区首位にすでに5.5ゲームの差をつけられ、(例によって)至上命令と位置づけられた王座奪還に早くも暗雲が漂っている。
中央と地方の間に大きな壁が存在した1994年、日本の競馬界を根本から変える1つの改革案が示された。「地方交流レースの創設」だ。各地区で中央競馬認定の競走を実施し、勝ち上がった馬は地方競馬所属のまま、中央のクラシックレースに挑戦することができるというものだった。この交流制度を世に知らしめたのは、岐阜県・笠松競馬場に所属していたライデンリーダー。『開放元年』と言われた95年、10戦10勝で地元のレースを勝ち抜き、中央競馬のクラシックレース第1弾・桜花賞(G?)への出走権をかけ、報知杯4歳牝馬特別(G?)に出走した。
季節はずれの豪雨が降りしきる中、レースは始まった。13番枠から好スタートから切った6番人気のドリームハッチは3番手につける。泥のかぶらない好ポジションを得て、抜群の手応えで4コーナーを回り直線を向く。ゴールまで残り200メートル。内をすくって伸びてきたのは1番人気のシーフォーアイだ。本命馬に一度交わされかけたドリームハッチは騎手の激しいアクションに応えて、シーフォーアイを差し返す。激しい叩きあいの末、ドリームハッチのハナが前に出たところがゴール。4月25日、東京競馬場第7レース。見事な勝負根性をみせたドリームハッチの鞍上にいたのは鷹野宏史。この勝利が鷹野にとって、中央競馬で4つ目の勝利となった。
昨季はレイカーズ対セルティックスという古豪同士がファイナルで対決して話題を呼んだNBAが、今季は「最強選手決定戦」実現の可能性に揺れている。 レイカーズのエースとしてすでに3度の優勝を経験したコービー・ブライアントは、2年連続のファイナル進出に向けて虎視眈々。一方で今季MVP獲得が確実なレブロン・ジェームスも、所属するキャブスを初のタイトルが狙える地点まで押し上げてきた。
愛媛時代、菅沼の印象に残っている試合がある。それが古巣・柏とのゲームだった。愛媛のオレンジのユニホームを身にまとい、初めて日立台のピッチに立つと、少し不思議な感覚がした。「試合になったら関係ないと思っていましたけど、やっぱり、みんな知った選手ばかりですからね」。柏の熱いサポーターからはブーイングを浴びせられると思っていたが、思いのほか、温かく迎えられた。「ブーイングもされないような選手なんだと、少し悔しかったですね」
「思い切りがいい。いいパフォーマンスをしていました。彼の持っている武器が出てくればと思っていました」 愛媛FC・望月一仁監督がJ2で戦うにあたり、真っ先に獲得に乗り出した選手――それが菅沼だった。望月にはユース時代の菅沼のプレーが鮮烈な印象として残っていたのだ。
4月14日、2009年の世界ボクシング界に重要な影響をもたらすであろう2つの記者会見がアメリカの東西で行なわれた。 まずロスアンジェルスでは、現代のボクシング界を支えて来た人気ボクサー、オスカー・デラホーヤが現役引退を表明。1992年のプロデヴュー以降続いた長い「ゴールデンボーイの時代」についに終止符を打った。
3月22日、東京都心を3万5千人の人が走り抜けた。途中から雨に見舞われたものの、走り終えた人たちは皆笑顔。「早くても遅くてもマラソンというのは楽しめる」ことをそれぞれが証明してくれていた。そして沿道の暖かい応援。以前にも増した声援は、「市民マラソンを観る」という文化が育ってきたことを感じずにはいられない。3回目を迎えて市民権を得た感のある東京マラソン。少々過熱気味なところもあるが振り返ってみよう。
菅沼は4歳からサッカーを始めた。「小学校の時からトップ下が多かったですね。中盤より前。今とほとんど変わりません」。点を獲ることが何より好きだった少年は、柏ジュニアユース、ユースとカテゴリーを上げるに従ってメキメキと力をつけた。ユースの1年目には早くもトップチームの練習に呼ばれるレベルになっていた。
今年のJリーグ開幕戦(3月7日)、川崎フロンターレ対柏レイソル。両クラブ無得点で迎えた後半5分、柏はカウンター攻撃でチャンスを迎える。一度はクリアされたものの、セカンドボールを拾ったFWポポが右サイド奥深くから、絶妙なクロスを上げる。ニアの位置からゴール前に飛び込んだのは背番号15、菅沼実だった。
第2回ワールド・ベースボール・クラシックは、日本が見事な2連覇を達成してめでたく終焉。その後、MLBのスター選手たちはすぐにそれぞれの所属チームに戻り「本番の戦い」に向けて準備を進めている。
1995年オフ、河野博文は一つの決断を下した。FA宣言をし、11年間着た日本ハムのユニホームを脱ぐことにしたのだ。移籍先は巨人だった。少年時代の河野が憧れ、夢見てきた「GIANTS」のユニホームに袖を通した河野は既に33歳。しかし、やはり感慨深いものがあった。当時、日本ハムの合宿所「勇翔寮」と練習グラウンドは現在の鎌ヶ谷ではなく、川崎市の多摩川沿いにあった。対岸には河野が少年時代から憧れを頂いていた巨人の選手寮とジャイアンツ球場があった。しかも日本ハムのホーム球場は後楽園(88年からは東京ドーム)だ。この環境で河野が巨人への憧れの気持ちを募らせていたとしても何ら不思議ではなかった。 「ぜひ、うちに来てほしい」 長嶋茂雄監督から言われたのはそれだけだった。しかし、河野にはそれで十分だった。1995年11月27日、河野は巨人と正式に契約を交わした。