金子達仁
ロンドンを目指すなでしこと五輪代表の予選が始まる。ザッケローニ監督が“ブラジルでのファイナリスト”という壮大な目標を掲げたA代表の戦いも始まる。9月は、日本サッカーにとって大きな意味を持つ戦いが目白押しである。 これまで、日本サッカーにとっての予選とは、世界中の圧倒的多数がそうであるように、結果のみが求められる舞台だった。内容は二の次。とにかく勝てばいい。どれほど乏しい内容であろうとも、勝てばすべてが許される。選手や関係者だけでなく、ファンやメディアの中にも、そして私自身の中にも、そうした感情があった。
人間とは、サッカー選手とは、そしてチームとは、かくも短期間に、かくも大きな変貌を遂げることができるのか。わずか1年と少し前、手も足も出ずに、いや、出そうともせずに敗れた選手たちは、完膚なきまでに宿敵を叩きのめした。韓国に勝つ日本を見るのは初めてではないが、こんなにも強く、美しく、翻弄して勝つ日本を見たのは生まれて初めてである。見事な、本当に見事な勝利だった。
贈る者と贈られる者。両者の間に存在する意識のギャップが何とも面白い。贈る側は、贈られる側が達成者でありゴールにたどりついた者だと考えている。言ってみれば、締めくくりのセレモニー。美しい物語の盛大なエピローグ。
道具か、権利か。 日本人にとって、長い間スポーツは道具だった。国威発揚のための道具、企業や学校の知名度アップのための道具。なにかイベントがあるたびにすぐ経済効果が言われるのは、スポーツを景気刺激のための道具と見る人が多いからだろう。
男子のW杯はなぜ世界を熱狂させるのか。W杯だから、ではない。大会初期は、熱狂どころか、参加することに意義を見いだせない国が圧倒的だった。少数の国によって争われる関心の低い大会――それが20世紀初頭のW杯だった。
どうか、なでしこが決勝進出を果たしていますように! ニュースやらワイドショーやらが大変な騒ぎになっていますように! 祈るような気持ちでパソコンに向かっている。
メキシコでU-17日本代表が受けた「バルセロナのようだ」という賛辞が、ドイツで戦う女子日本代表にも向けられているという。震災に対する同情や、日本製品の緻密なイメージなども無関係ではないのだろうが、結果だけではなく、内容でも評価されるのは嬉しいことである。
まずは、W杯初戦に勝利した女子代表に拍手を送りたい。彼女たちが展開したのは、「日本人にはできない。ゆえにこうするしかない」というリアクションサッカーではなく、「日本人にはできる。ゆえにこうする」という哲学に基づいた魅力的なサッカーだった。ボールを持っていない選手の動きの質と意識の高さは、ひょっとするとJ1のかなりのチームよりも上かもしれない。
親は子の鏡というが、ならば、A代表は若年層代表の鏡なのか。少なくともA代表がつかんだ自信、実績は、そのまま若い選手たちにも伝播するものらしい。メキシコで始まったU-17W杯を見ていると、そのことを実感する。
もう5年ほど前になるか、就任したばかりだった当時の犬飼・日本サッカー協会会長が嘆いていたことを思い出す。 「日本のサッカー界にはね、スタジアム力が欠けているんですよ。その存在だけで、観客を引きつけるようなスタジアムがね」
いまから28年前、東海大学を休学してスペインに渡っていた“天才児”と呼ばれた男は、耳にタコができるほどに聞かれたそうだ。 「なぜバルセロナに?」 サービス精神が旺盛な彼は、決して「日本人の知り合いがいたから」という本当の理由を口にしようとはせず、いかにクライフのサッカーが魅力的か、バルセロナのサッカーに将来性があるかを力説したという。
物事には順序がある、という言い回しを思い出した。もしこの試合が終盤に入って一方的に押しまくられたこの試合がザッケローニ監督の初陣であれば、未来への期待は相当に損なわれていたことだろう。選手に疲れがあったのはわかる。モチベーションを保つのが難しい試合でもあっただろう。だが、少なくない同情点を差し引いたとしても、ザッケローニ体制となってから最低の試合だった。
夢の決勝再び、である。今週末、マンチェスターU―バルセロナの欧州CL決勝が行われる。2年前の対決ではエトオ、メッシのゴールでバルセロナが快勝したが、さて、今回はどうなるか。
すべての人がそうだ、などと言うつもりはない。けれども、「頭を下げることは負けに等しい」と考える外国人が、日本人よりも相当に多いのは事実である。外国人の立場に立ってみると、すぐに頭を下げる日本人の謝罪、懇願は、かなり安っぽいものに思えるらしい。トルシエが沖縄の事務所で「簡単にゴメンナサイって言うな!」と癇癪を起こしていたことを思い出す。
5連敗と言えば、年間144試合を戦うプロ野球のチームにとってもかなりの痛手である。ならば、34試合しかないJリーグのチームが味わう5連敗の痛みは、どれほどのものか。まして、それが開幕からの5連敗だとしたら――。今季久しぶりにJ1に復帰してきたアビスパ福岡が、いきなり強烈な試練に直面している。
18日間で4試合という、前例のない、そしてこれからもなかなか起こりえないであろうクラシコが終わった。結果は1勝2分け1敗と全くの五分。そのうち3試合を10人での戦いを余儀なくされたことを考えれば、レアル・マドリードの奮闘が光ったクラシコでもあった。
ほんの1年前、日本代表にとって両サイドのディフェンスは頭痛の種だった。長友の評価は高まりつつあったものの、彼が右に入れば左が、左に入れば右がウイークポイントとなってしまう。それは、誰が入っても変わらなかった。
著名な俳優が、人気ミュージシャンが、そしてスポーツ選手が、次々と被災地を訪れている。欧米ではずいぶんと前から当たり前だった「社会的に影響のある人々のボランティア」が日本でも完全に根付いたのだと実感させられる。
最も大きな影響を被るであろう当事者が「それでいい」というのだから、これでいいのだろう。 わたしが日本サッカー協会の人間であれば、南米連盟からのオファーにはなんとしても応えたいと考えたに違いない。
CS放送のJスポーツでオンエアされていたマリオン・ジョーンズのドキュメンタリーを見た。シドニー五輪陸上競技で5つのメダルを獲得した彼女は、後にドーピング発覚してすべてのメダルを剥奪されたばかりか、偽証罪に問われて6カ月の実刑を受けた。番組には、いまは女子プロバスケットボールの選手として活躍する彼女の、印象的な言葉がちりばめられていた。 「完全に打ちのめされた人間でも、立ち上がることが可能だと証明したかった」。「嬉しかったのは、若い人たちから諦めないでくれてありがとうと言われたこと」 いつか、被災地の方々に見ていただきたいドキュメンタリーである。
昭和41年生まれのわたしは、古橋広之進さんの現役時代を知らない。それでも、“フジヤマのトビウオ”と呼ばれ、世界新記録を連発した彼の泳ぎが、敗戦にうちひしがれる日本に大きな勇気をもたらしたことは知っている。 たぶん、長居での試合はそういう類いの試合だった。何年か後、平成23年3月11日の大地震に端を発した大災害からの、再起への一歩として記憶されることになる、あるいは復興へ向けて国民が頭をあげたきっかけだったと印象づけられることになる試合だった。歴史的な、試合だった。
フランスの作家ロマン・ギャリは著書「ヨーロッパ風教育」にこう書いた。 「人は昔から、絶望から逃れるための避難所を必要としてきた。その避難所は、時に歌であり、詩であり、音楽であり、本である」 この本が出版されたのは、第二次大戦が終わったばかりの1945年だった。時代は違うし国も文化も違う。それでも、戦時中レジスタンスとして活動し、戦後は外交官としても活躍したギャリの言葉は、半世紀以上たった現在の日本にもぴったりと当てはまる。現代の後知恵を付け加えるなら、もう一つ、スポーツという“避難所”もあるということか。
世界が祈ってくれている。日本のために、祈ってくれている。 メジャーリーガーが、テニス・プレーヤーが、そしてフットボーラ―が、世界のあらゆる場所で日本への祈りを捧げ、支援を訴えてくれている。かつて、かくも多くの人が日本のために祈ってくれたことが、あっただろうか。祈りは無力? そんなことはなかった。自分たちのことを気に留めてくれている人たちがこんなにもいる。そう思えることが、どれほど心強いことなのか。
サッカーは、結果が内容を蝕むことがある競技である。どれほどいいサッカーをしていても、不運な、あるいは事故としかいいようのない敗戦が続くと、徐々に内容もおかしくなってきてしまう。特に、選手と監督の信頼関係が固まっていないシーズン序盤戦は、毎試合が運命の分かれ道のようなものでもある。
19回目のJリーグ開幕が近づいてきている。93年の5月、10チームによる総当り4回戦方式でスタートしたリーグは、規模を大幅に拡張させ、いまや1部、2部ともにホーム&アウェー方式で運営されるリーグに成長した。課題、問題点は数多にあるにせよ、世界的に見ても稀有なスピードで成長してきたリーグであることは間違いない。